第7話 申請書の角が揃わない
ゆれりん。
音自体は、かわいい。
かわいいのに、職員室の空気が一斉に「やばい」の形に折り畳まれる。折り畳まれると机が増える。増えないけど増えた気がする。紙が増える。増えないけど増えた気がする。
増えた気がする、が一番怖い。
「急案件です!」
チヨは走りながら叫んだ。叫びながら走って、走りながら書類の角を揃えようとして、角を揃えようとしているうちに息が切れて、息が切れた音が自分の耳でうるさい。
でも、やる。
申請受付審査室所属、はんこ係のチヨ。
そして今は、アマネ案件の特別随行。
特別随行って聞こえはいいけど、実態は「被害担当」だ。しかも紙の。
「失礼します! 急案件です! 件名……」
件名を読み上げようとして、チヨは一瞬だけ黙った。
件名が、長い。
長いのに、内容が薄い。薄いのに、現場が濃い。濃い現場は紙にすると薄くなる。薄くなると「伝わらない」。伝わらないと書類が増える。増えると角を揃える。角を揃える神が一番危ない。
つまり、詰んでいる。
チヨは一度、紙の角を揃えた。揃った。よし。
と思った瞬間、別の紙の角が飛び出た。
「……っ、角が……」
「まず要点」
マドカ先輩の声は短い。短い声は強い。なかない係先輩。泣かせない。つまり、甘やかさない。
チヨは背筋を伸ばして、要点だけを吐き出した。
「地上、真昼山周辺一連! 対象一名、幼い転生者ハル! 現象、順に……朝日過剰、音反響過多、匂い良すぎ、回収線、麓移動、結び家合流、風呂で湯気が贅沢にもっくもく!」
言い切った瞬間、チヨの中で「贅沢にもっくもく」を公文書に載せた罪悪感が芽を出した。
芽を出すな。芽は紙を増やす。
「最後は現象じゃない」
ナギ先輩がきれいな声で刺した。きれい係先輩。刺しがきれい。きれいに刺されると、痛いのに納得してしまうから腹が立つ。
「で、スタンプは?」
マドカ先輩が掲示板を見た。主任級の持ち回り張り紙が、今日もぴしっと貼られている。
日付の代わりの現象スタンプ。数字なし。固定方式。
そして、横に控える【幸】。ゲン印。終結判定。
押したい。押したいけど怖い。押すのは勝ちで、勝ちは次の仕事の始まりだからだ。
「スタンプは……」
チヨはスタンプ棚へ駆け寄った。駆け寄りながら、頭の中で順番を整理する。順番があると世界が回る。順番は地上だけの話じゃない。神界も同じだ。むしろ神界の順番が崩れると紙が死ぬ。
「朝日過剰に伴う反響過多……【音】。匂い良すぎ……【匂】。回収線……え、回収線って現象ですか? 現象って、線、ですか?」
自分で言っていて意味が分からない。
「線は現象じゃない」
ナギ先輩が即答した。
「線は現場の処置。現象は原因。処置は処置」
マドカ先輩が淡々と補足した。淡々が強い。淡々は紙に向いてる。
その時、職員室の奥の扉が、開いた。
開き方が、いつもより元気だった。
「おねぇちゃんに、まかせて!」
アマネが入ってきた。今日も盛れている。髪も袖も笑顔も、全部が「泣かせない」の方向へ盛れている。
盛れているのに、本人の目だけは真面目だ。真面目な盛りは止めにくい。
「見た見た! 地上、すっごく回ってるよね! ハルちゃん、泣いてない! 結び家、強い! おねぇちゃん、天才!」
「天才は禁止」
マドカ先輩が即座に潰した。
「えっ」
「自画自賛は盛りの燃料」
ナギ先輩が刺した。
「えっ、じゃあ、褒めて!」
「褒めません」
職員室が全員一致で言った。揃い方が怖い。角が揃っている。
チヨは喉の奥で「助けて」と言いかけて飲み込んだ。
助けを求めると、盛られる。盛られると紙が増える。増えると角を揃える。角を揃える神が一番危ない。だから、自力。
自力で、まず【音】のスタンプを机に置く。
置いた瞬間、インクが倒れた。
倒れてない。倒れた“気がした”。
気がしただけで怖くなるのが、職員室の怪談だ。
「チヨ、落ち着け」
マドカ先輩の声で、チヨの心拍が一段下がった。
やっぱりなかない係は強い。泣かせないのは、泣かせない空気を作れるからだ。
「すみません! えっと、まとめます! この一連、要するに……」
チヨは書類の束を抱え直した。抱え直した瞬間、角が揃った。
揃った。
揃ったのに。
その「揃った」が、怖い。
揃うはずがないのに揃った時、必ずどこかでズレている。紙は、そういう顔をしている。
その通りだった。
チヨが読み上げる。
「第一、朝日過剰に伴う反響過多、現象【音】。なおし係により『畳む、消さない、居場所を戻す』で対応。第二、匂い良すぎに伴う誘引、現象【匂】。なおし係により『小屋周辺のみ残す』で対応。第三、回収担当ミナギが現場処置として生活圏の線を設定、翌日麓へ移動、結び家合流。第四、結び家初日夜、寒さと善意により薪過多、湯気過剰……」
「最後は現象じゃない」
ナギ先輩が二回目の刺し。
「でも申請書に『贅沢にもっくもく』って書いてあるんです!」
チヨは叫んでしまった。叫んでから、しまったと思った。
職員室が一瞬だけ静かになった。
静かになると、紙の擦れる音が聞こえる。紙の擦れる音は、世界の終わりの前触れに聞こえる。
アマネが、手を挙げた。
「それ、おねぇちゃんのせいじゃないよ!」
救いのようで、最悪の一言だった。
「せいじゃないなら、黙って」
マドカ先輩が優しくない優しさで封じる。
「でも湯気ってさ、ふわふわで、泣きそうな子を包んで……」
「包むな」
マドカ先輩の声が太くなる。
「湯気は現場の贅沢。神が包むと、現場の贅沢が“案件”になる。案件になると紙が増える。紙が増えると」
マドカ先輩がチヨを見る。
チヨは反射で背筋を伸ばした。
「角を揃える」
チヨが自分で言った。
言ってしまった瞬間、職員室の全員がちょっとだけ遠い目をした。
「角を揃える神が一番危ない」
ゲンたちの声が、どこからともなく聞こえた。
次の瞬間。
外直結の大きな出入口が、どん! と鳴った。
「ゲンたち、入るぞ!」
来た。なおし係。複数形。複数形の安心感。
工具箱が並ぶ音は、なぜか職員室の心拍を整える。整うのが怖いけど、助かる。
「現場はどうだ」
ゲンたちの一人が言った。
チヨは、反射で書類の角を揃えたくなった。揃えるな。揃えるな。
「結び家が回ってます」
チヨは言った。
言い方が生活の言い方になった。職員室で生活の言葉を言うと、空気が少し柔らかくなる。
「回ってるなら、手出し不要」
ゲンたちが言う。
「畳んだ。音も匂いも。あとは現場が回す」
ゲンたちの「現場が回す」は、言い切りの美学だ。
なおし係は、直したら手を離す。手を離せるから強い。離せない善意は暴走する。主犯が暴走する。
アマネが胸を張る。
「おねぇちゃんは離せる!」
全員が同時に首を横に振った。
「離せません」
揃い方が怖い。角が揃っている。
その時、職員室の一番奥から、にこにこ怖い声が降ってきた。
「終結判定に入ります」
院代だ。トップ枠。にこちゃん先生。
声がにこにこなのに、職員室の背筋が揃う。揃い方が怖い。角が揃っている。
「チヨ。申請書の扱いは?」
「……湯気は現象ではない、で別紙に回します!」
チヨは即答した。即答できた自分が怖い。成長が怖い。
「よろしい」
院代はにこにこ言った。
「地上は、飯の次に湯。湯の次に寝ています」
その報告が、職員室の空気を一段だけ軽くした。
軽くなると、次が来る。次が来ると紙が増える。紙が増えると角を揃える。角を揃える神が一番危ない。無限。
院代が掲示板の横へ手を伸ばした。
【幸】
ゲン印。終いが良ければそれでよし。終結判定。
院代がスタンプを持つ指先は、恐ろしく丁寧だった。
丁寧は怖い。丁寧が一番危ない。
でもこの丁寧は、押すための丁寧だ。
ぽん。
紙に【幸】が押された。
その瞬間、職員室の全員の肩が一ミリ軽くなった。
一ミリでいい。職員室にとって一ミリは大勝利だ。
「終結」
院代がにこにこ言った。
「おつかれさまでした。朝礼はこれで終了。夕の反省会は……」
院代がちらりとアマネを見る。
アマネが、にこにこ笑って言った。
「次の涙もゼロにする準備、できてます!」
職員室が、揃って深呼吸した。
深呼吸の音が、なぜかきれいに揃った。揃い方が怖い。角が揃っている。
「……アマネ」
マドカ先輩が言う。
声が優しい。優しいのに逃がさない。
「はいっ!」
「準備はいい。盛るな」
「ほどほどに!」
アマネは言い直した。
言い直せるのは偉い。偉いけど安心しない。安心すると盛る。盛ると紙が増える。増えると角を揃える。角を揃える神が一番危ない。
チヨは書類の束を抱え、もう一度だけ角を揃えた。
今度は、揃わなかった。
揃わない方が、安心する。
職員室の怪談は今日も続く。
でも、地上は寝た。
だからこちらも、今日は回る。
ゆれりんが鳴る前に、チヨは小さく拳を握った。
「……よし。次は、角を揃えない」
宣言の内容がしょぼい。
しょぼいけど、これが職員室の戦いだ。
そして職員室の掲示板で、押されたばかりの【幸】が、角ばった小さい字でにこにこしていた。




