第65話 【欄】(第六波)
織帳院の朝は、だいたい「揃えたのに揃わない」から始まる。
今日は、揃わないどころか、紙が“揃う先”を勝手に増やしてきた。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
「……いや……いやぁ……」
悲しい泣きじゃない。業務の泣きだ。
机の上には申請書の束。角を揃えたい。角さえ揃えば世界は回る。回るって言うな。胸の中で回れ。
チヨは、儀式を始めた。
束の側面を机に、とん、とん、とん。
よし。揃った。
今日こそ、いける。いけるって言うな。胸の中でいける。
その瞬間。
紙の中で、罫線が一拍だけ増えた。
縦が一本。横が一本。
欄が、しれっと増えた。
増えた分だけ、揃ったはずの角が、やさしくズレる。
「……角が……角がぁ……!」
チヨは叫びかけて、すぐ自分の口を押さえた。
声を増やすと、周りが動く。周りが動くと、欄が喜ぶ。
欄は、動くのが好きだ。最悪。
背後の壁が、今日も壁をしていた。
張り紙が並んでいる。並びすぎている。
張り紙の上に張り紙。
その上に、さらに張り紙。
二重三重。
紙の端が、ぴらぴら重なって、読む場所が“段”になっている。
「……読めない……」
チヨの泣きが、A(角)からB(壁)へ移る。
AとBを行ったり来たりするのが、今日の基本セットだ。
そこへ、ゆれりんが鳴った。
りん。
空気が固まる。固まると、余計な手が止まる。
止まったのに、壁の張り紙だけは、なぜか“増えたい顔”をしている。
廊下から、乾いた声。
「……第六波?」
マドカだ。入って来ない距離で刺すのが上手い。
ナギが淡々と室内へ入ってきて、壁を一瞥した。
「読みにくい。重ねすぎ」
「……重ねたの、主任級持ち回りなんですぅ……!」
チヨは泣き声で言い返して、また口を押さえた。泣き声で反論できる日は、生きてる日。
そして、最悪の元気が開く。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。現場の酸素を吸って欄を吐くタイプの元気。
「……おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた結果がこれですぅ……!」
チヨは机に突っ伏し直す。A泣き。
すぐ壁を見る。B泣き。
忙しい。忙しいと欄が増える。増やすな。
アマネは壁を見て目を輝かせた。
「わぁ……紙、いっぱい!」
「いっぱいじゃない。読めない」
ナギが淡々。
「読めないって言うな」
チヨが反射で刺して、すぐ口を押さえた。自分でも分かってる。言い方が増えるとまた増える。
アマネは机に目を移した。
申請書の“余白”に、視線が吸い込まれる。
「ねえ、チヨ。ここ」
「やめて」
「ここ、空白があるでしょ」
「空白って言うな」
「じゃあ余白」
「余白も言うなぁ……」
アマネは、余白を見て、嬉しそうに頷いた。
嬉しそうな頷きはだいたい危ない。
「余白ってさ、もったいないよね」
「もったいないって言うな」
マドカが廊下から刺す。今日は入らない。入ると増えるからだ。
アマネは賢くない笑顔で宣言した。
「余白にも欄を作れば、もっと書ける!」
「作るな」
「足すな」
「増やすなぁ……!」
ナギ、マドカ(廊下)、チヨ(三重泣き)が綺麗に揃った。揃ったのに角は揃わない。
アマネは止まらない。止まらないのが主犯の主犯たる所以。
「ほら見て、余白って“何も書かない場所”でしょ?」
「違う」
「書かないから空いてる」
「違う」
「空いてるなら書ける」
「違うって言ってる!」
チヨが机を叩きかけて、叩く前に止めた。叩くと欄が増える。止まれたのは偉い。
アマネが定規を出した。
定規が出ると、欄は笑う。音のしない笑いで。
しゃっ。
余白に一本線を引いた瞬間、余白の“余白”が生まれた。
余白の余白に、また罫線。
罫線の隣に、罫線の説明欄。
説明欄の隣に、説明欄の“確認欄”。
「見て! 余白が……増えた!」
「喜ぶな」
ナギが刺す。
「でも余白が増えたら、書く場所も増えるじゃん!」
「書く場所が増えるから泣いてるんだよぉ……!」
チヨのA泣きが、B泣きを飛び越えてC(哲学)へ行きかけた。やめろ。
壁の張り紙が、ぴら、と動いた。
動いたのは風じゃない。
重なった張り紙が“めくれて”、その下からまた張り紙が出てきた。
張り紙の奥に張り紙。
張り紙の裏に張り紙。
読む場所が、もう“迷路”だ。
「……読み順の欄が必要かも!」
アマネが言った。
「必要にするな」
マドカが廊下から刺す。
「でも迷うなら案内が!」
「案内欄を増やすな」
ナギが淡々。
チヨが泣きながら言う。
「……案内欄の案内欄が生まれますぅ……!」
その通りだった。
壁の一角に、いつの間にか小さな紙が増えている。
この張り紙は二枚目です
次は三枚目です
読めない場合は四枚目へ
「……やめてぇ……」
チヨが机に額を当てた。B泣きが濃くなるとAが薄れる。薄れると角がさらにズレる。最悪。
その時、にこにこが来た。
「おはようございます」
院代。にこちゃん先生。
にこにこ怖い。
壁と机と定規と余白欄を一度に見て、にこにこで“一言”だけ言った。
「余白を増やさないでください」
一言。
一言だけで、空気が一段だけ整う。
整うと、アマネの手が止まる。止まれるなら勝ち。
「……え」
アマネが口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち(二回目)。
そして、朱肉の匂いが入ってきた。
ゲンだ。
「まだ終わってない顔だな」
「終わってません……!」
チヨが即答する。今日は泣きより怒りが勝ってる。怒れるなら生きてる。
ゲンは、壁の張り紙を見た。
余白の罫線を見た。
定規を見た。
そして雑に言った。
「余白が増えるなら、減らす印だろ」
意味が分からないのに、なぜか現場に効く。
雑は、時々救命具だ。
ゲンは朱肉を開け、判を構えた。
ゲン印【幸】。
どん。
押した場所は、余白欄のど真ん中。
“何も書かないために空いていた場所”に、でかい赤。
赤が乗った瞬間、余白が余白に戻った。
増えていた罫線が、すう、と薄くなる。
説明欄が、ふわ、と消える。
確認欄が、しゅっ、と畳まれる。
壁の張り紙も、ぴた、と止まった。
二重三重が、なぜか“一番外の一枚だけ”になっていた。
他はどこへ行ったか。行った先はたぶん、増えない場所だ。増えない場所って何だ。胸の中で考えろ。
チヨが顔を上げた。
涙目のまま、でも息が戻っている。
「……読めますぅ……」
声が小さい。小さい勝ちは増えない。増えないから長持ちする。
アマネがぽつりと言った。
「余白、もったいなくないのに……」
「もったいないって言うな」
マドカが廊下から刺す。今日は最後まで入らない。入ると増えるからだ。
にこちゃん先生がにこにこしたまま、もう一言だけ落とした。
「紙は、増やさないでください」
言い方が優しいのに、逃げ場がない。
逃げ場がないと、現場は助かる。逃げ場があるとアマネが盛るからだ。
ゲンが朱肉を閉めて、雑に言い放つ。
「終いが良ければそれでよし!」
雑なのに、終わる。
終わると、欄は一拍だけ増えるのを諦める。諦める瞬間があるだけで、人は呼吸できる。
チヨは机の端から湯呑みを引き寄せた。
給湯室から、誰かが急須を持ってきた。
急須は増えていい。増える急須は平和の匂いがする。
「……生きましたぁ……」
チヨが言って、泣きが笑いに変わりかける。
変わりかけで止める。止めると暗くならないまま軽くなる。
アマネが胸の前で小さく拳を握って、言い直した。
「……胸の中で、余白」
「胸の中なら勝手にしろ」
ナギが淡々と返して、なぜか全員が少しだけ笑った。刺さらない笑いは、職員室にも効く。
ゲンが湯呑みを持ったまま、最後に言う。
「よし。次」




