第64話 朝市が“合図で前倒し”になってまた混ざる
朝市は、匂いが先に来る。
声はその後。小銭は最後。
その順番が崩れると、だいたい“混ざる”が来る。
今日は、匂いが来る前に、音が来た。
こん。
一発だけ。
効きすぎないやつ。全員を動かさないはずのやつ。
……なのに、動いた。
「今の、合図?」
通りの端で誰かが言って、すぐ隣が乗る。
「合図なら朝市?」
「開けるの早い?」
「じゃあ行こ!」
行こ、が増えると、足が増える。足が増えると、口が増える。口が増えると、朝が薄く焦げる。焦げるって言うな。胸の中で焦げる。
結び家の戸口で、レンカが息を吸って口を押さえた。えらい。
「……匂い、まだ」
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で、まだ」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルは真顔で空を見た。
風はある。乾く風。干し場が勝ちそうな風。勝つとか言うな。
でも朝市の匂いが薄い。焼きの匂いも、煮の匂いも、まだ立ってない。
「……見てから」
タケルがぼそりと言った。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、見る」
「胸の中なら勝手にしろ」
それでも通りは流れる。
流れ方が“買う前”の流れだ。
買う前の流れは、だいたい危ない。
開いてると信じた顔が先に走るからだ。
朝市の入口に着くと、入口が入口じゃなくなっていた。
線のない列。背中が斜めに生えている。
声だけが先に並んで、足があとから追いつこうとしている。
「開いてるって!」
「まだだよ!」
「え、でも鐘が——」
「鐘って言うな」
どこからかユリネみたいな声が飛んで、誰かが笑いそうになって飲み込んだ。飲み込めるなら勝ち。
露店の端で、売り子が袋の口を結んでいる。
汗がない。まだ戦ってない顔。
その前に、籠が一つ。布が一枚。木札が一枚。
準備中
短い。
短いのに、見えてない人が多い。
見えてないのに、声が増える。
「準備中って書いてあるよ!」
「どこに!」
「見えない!」
「近い近い!」
近い近い、が出ると、背中が詰まる。
詰まると、準備中が余計に遠くなる。
遠くなると、また近づく。最悪の循環。
ミナギが口を開けかけた。危ない。
「じゃあ俺、もう一回鳴ら——」
「鳴らすな」
ユリネが短く切った。
「えっ、でも合図なら」
「合図を“前倒し”にするな」
ユリネの言い方が珍しく具体的で、ミナギが目を丸くした。
「前倒し?」
「合図があるから早く動く、ってなると混ざる」
「混ざるって言うな」
「……胸の中で混ざる」
ミナギが言い直して、口を尖らせた。尖らせたまま黙れるなら勝ち。
コトが、入口の端でしゃがんで、地面にさらさら、と線を一本引いた。
説明はしない。線だけ。
線があると、人は勝手に止まれる。
「線より前に行くな」
ユリネが短く言った。短いから刺さらない。刺さらないのに足が止まる。止まれるなら勝ち。
止まった背中の上に、もう一度、音が落ちた。
こん。
同じ一発。
同じなのに、今度は効きすぎない。
背中が動かない代わりに、目が上がる。
鐘楼の根元の板。
字が短い。角ばって小さい。
見る
その下に、昨日の名残りが並んでいる。
井戸。欠けまで。
干し場。空ばさみ。
そして今日は、もう一行だけ。
朝市
準備中
「……書いてある」
レンカが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、見る」
「胸の中なら勝手にしろ」
板が短いと、叫ばなくて済む。
叫ばないと、背中が斜めにならない。
斜めにならないと、準備中が見える。
見えると、口が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
……のに、ここで善意が暴走する。
暴走は悪意じゃない。善意の“助けたい”だ。
「じゃあさ! 合図が鳴ったら“開店”って決まりにしようよ!」
誰かが言った。
決まり。
危ない単語。
決まりは守れない日を呼ぶ。
「決まりにするな」
ユリネが短く刺した。
「えっ、でも分かりやすいじゃん」
「分かりやすいって言うな」
「……助かる?」
「助かるのは“見る”だ」
タケルが真顔で補助する。
「合図は、開ける合図じゃない。見る合図」
「見る合図」
ハルが小さく復唱した。復唱は作法になる。
作法になると、口が落ち着く。
露店の売り子が、ほっと息を吐いた。
息を吐けると、手が戻る。
手が戻ると、袋の口が結べる。
結べると、準備中が終わる。
木札が、くるりと裏返された。
開けます
一語。
一語で足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。
でも開けますが見えた瞬間、別の危ないやつが生まれる。
“いま行けば取れる”顔。
取れる顔は、勝つ顔になる。勝つ顔は叫ぶ。叫ぶと混ざる。
「あっ、開けますだって!」
「じゃあ先に!」
「私も!」
「一人だけ!」
最後の一言は、コトだった。
一人だけ。
一人だけは、朝市を救う。
ユリネが短く続ける。
「並ぶな。線の後ろ」
線の後ろ。
言い方が硬いのに刺さらない。今日の硬さは助かる硬さだ。
おばさんが笑って言った。
「はいはい、一人だけね。私が行く」
おばさんの一人だけは信用できる。
おばさんは増やし方を知っているからだ。
おばさんが線を越え、露店の前へ行く。
買うのは一回。
話すのは一回。
「これ、二つ」
売り子が頷いて、包む。
包むと匂いが立つ。匂いが立つと、朝市が朝市になる。
匂いが先に来るなら勝ちだ。
ところが、朝市は一つじゃない。
匂いが立つと、別の露店が焦る。
焦る露店は、また“合図”を欲しがる。
「うちも“開けます”札、作った方がいい?」
隣の露店が言った。
作った方がいい、は増える入口。
増えた札は増殖する。増殖すると欄みたいになる。やめろ。
「作るな」
ユリネが短く言った。
「えええ」
「作るなら、今日だけ」
コトが柔らかく言い換えた。
「札は外せる。外せないと増える」
外せる。
この一語が、朝市の背中を軽くする。
軽くすると、声が増えない。
露店の人が頷いて、木札を一枚だけ出した。
準備中/開けます。
裏表。
それなら増えにくい。
増えにくいって言うな。胸の中で増えにくい。
……ここで、今日の“中”パニックが来る。
朝市の早出しと洗濯が、通りの角でぶつかったのだ。
洗い籠を抱えた人が、朝市の列に突っ込む。
朝市の籠を抱えた人が、洗い籠を避ける。
避けた足が線を越える。線を越えると背中が斜めになる。斜めになると、また準備中が見えなくなる。
「すみません!」
「ごめん!」
「ちょっと!」
声が増えかけた瞬間、レンカが息を吸った。
止まれる呼吸。最近の救命具。
「……道、一本」
レンカが小さく言った。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で一本」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルが真顔で、地面をさらさら、ともう一本だけなぞった。
線を二本にするな、って怒られそうな場面。
でもこれは列を増やす線じゃない。道を分ける線だ。
道が分かれると、混ざりが減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
「通る人は外。買う人は内」
タケルの短文が落ちる。
落ちると、洗い籠が外へ流れる。
流れると、朝市の背中が一本に戻る。
洗い籠の人が息を吐いた。
「……助かった」
「助かるって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で助かった」
「胸の中なら勝手にしろ」
売り子が、準備中札をくるりと回して、開けますにした。
回した瞬間に、匂いが立つ。
匂いが立つと、前倒しじゃなくなる。
匂いが合図になると、合図板は“見る”だけで済む。
済むって言うな。胸の中で済む。
朝が進むにつれて、板を見る人が増えて、口の「開いてるって!」が減った。
相乗は結果一行でいい。今日はこれだ。
昼前、鐘楼の根元の板の下から、木札が一枚だけ外された。
朝市/準備中。
外してポケットに入れて、何も言わずに去る。
残さないのが上手い。上手いって言うな。胸の中で上手い。
朝市は、ようやく普通の朝市になった。
匂いが先。声が後。小銭が最後。
それが揃うと、人は勝手に笑える。
笑いが刺さらない笑いだと、今日の“混ざりかけ”も薄くなる。
結び家は買い物を終えて、家へ戻った。
粉。豆。葉物。
袋の口は二回結ぶ。増やすんじゃない。転がさないため。
鍋が鳴る。湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
レンカが小さく宣言して、すぐ口を押さえた。
「今日、合図で走らなかった!」
「走りかけた」
ミナギが真顔で言いかけて、
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で未遂」
「胸の中でも言うな」
タケルが真顔で言った。
「合図は、前倒しじゃなくて、見る」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で見る」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……匂いが戻ると、戻る」
シノがぼそり。
「……準備中、助かる」
「助かるって言うな」
「……胸の中で助かる」
シノが言い直して、湯気を小さく吸った。匂いが混ざらない顔だ。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




