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第63話 合図で洗濯が軽くなる

 干し場の朝は、風が先に来る。

 風が先に来ると、布が先に揺れる。

 布が先に揺れると、みんなの胸が勝手に「いまなら回収できる」になる。

 勝手になる日は、だいたい危ない。


「……今日、風が急かす」

 ハルが小さく言った。

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で急かす」

「胸の中なら勝手にしろ」


 干し場の壁際は、もう人の背中でできていた。

 背中は壁じゃない。背中は動く。動く背中は混ざる。

 混ざると、白い布が白い布に紛れる。紛れると、誰かが「うちの」って言いかける。

 言いかけは増える入口。増えると、取り込みが取り込みじゃなくなる。


 レンカは息を吸って、口を押さえた。えらい。

「……今日は、間違えそう」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、間違えそう」

「胸の中なら勝手にしろ」


 すでに、ひとつ目の小さい事故が起きかけていた。

 干し紐から外された布が、風でふわっと膨らんで、となりの人の腕に絡む。

 絡むと、反射で掴む。掴むと、持ち主じゃない手が触る。触ると、責任が生える。責任が生えると、声が増える。


「ごめん、これ……」

 外した人が言いかけた瞬間、隣の人が言い切りそうになる。


「うちのだよ、それ」


 言い切りは危ない。言い切りは確定っぽいを確定にする。確定になると揉める。揉めると、朝の風が冷たくなる。冷たくすると暗い。暗くしない。


「言い切るな」

 ユリネが短く言った。

 短いから刺さらない。刺さらないのに、言い切りの口が閉じる。閉じられるなら勝ち。


 コトが、布を掴んだ手ではなく、布の“空ばさみ”を指で示した。

 昨日の境目。空ばさみが一個だけ残っている場所。

 境目があると、戻せる。


「境目、ここ」

 声は短い。

 布は境目の前へ戻される。

 戻ると、誰の腕にも乗らない。

 乗らないと、誰のでもない。誰のでもないは、いまは助かる。


 タケルが真顔で言った。

「本人の手だけ」

「本人の手だけ」

 ハルが小さく復唱した。復唱は作法になる。作法になると、手が引っ込む。


 ……ところが、風は優しい顔で急かす。

 ふわっと乾かして、ふわっと煽って、ふわっと焦らせる。


「早く取り込まないと飛ぶよ」

 誰かが言った。

 飛ぶは本当だ。本当は刺さる。刺さると善意が走る。善意が走ると、また混ざる。


 ミナギが目を輝かせた。輝くな。

「じゃあ俺、呼ぶ! 取り込み開始!」

「呼ぶな」

 ユリネが即座に刺す。

「えっ、でも皆でやったら早いじゃん」

「早いって言うな」

「……胸の中で早い」

「胸の中でも言うな」


 呼ぶ、が出ると、次に欲しくなるのは“合図”だ。

 合図が欲しくなると、鐘楼を見る。

 鐘楼を見ると、縄が見える。

 縄が見えると、手が伸びる。

 手が伸びたら終わり。効きすぎる音は、全員を動かす。動くと詰まる。詰まると混ざる。


 レンカが口を押さえたまま、鐘楼の方へ視線を飛ばして、すぐ戻した。えらい。

 視線だけで止まれるのは強い。強いって言うな。胸の中で強い。


「……鳴らすのは最後」

 レンカが小さく言いかけて、口を押さえ直した。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で最後」

「胸の中なら勝手にしろ」


 干し場の入口で、当番っぽいおばさんが腕を組んでいた。

 おばさんの顔は「分かってる」。分かってる顔は強い。強いけど刺さらないと助かる。


「今日はね、取り込みが先に詰まる日だよ」

「詰まるって言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で詰まる」

 おばさんが言い直して笑った。刺さらない笑いは救命具だ。


 おばさんが壁際の紐を指でなぞって、空ばさみの一個を指先でちょん、と弾いた。

 かちん。

 小さい音。呼び笛にならない。


「境目はここ。境目から先は触らない」

「触るな」

 ユリネが短く重ねる。

 短い重ねは、増えない。止めるための重ねだ。


 それでも“呼びたさ”は残る。

 呼びたさが残ると、声が勝手に増える。増えると誰かが怒る。怒ると暗くなる。暗くしない。


 コトが、干し場の入口で一歩だけ止まって、鐘楼の方を見た。

 見るだけ。動かない。

 見るが先。最近の合言葉が、ここでも効く。


 鐘楼の根元に、小さな板がぶら下がっている。

 字は短い。角ばって小さい。


 見る


 その下に、昨日は「井戸」「欠けまで」が並んでいた。

 今日は、さらに一行だけ増えている。増えたって言うな。胸の中で増えた。


 干し場

 空ばさみ


 増えてるのに、板が重くならない。

 短いからだ。短いと、読める。読めると、叫ばない。


「……今日だけ」

 タケルが真顔で言った。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で今日だけ」

「胸の中なら勝手にしろ」


 板の横に、小さな木片がもう一枚だけ掛かっていた。

 欠け桶みたいに、今日だけ挟むタイプのやつ。

 字はこれ。


 呼ぶな


 ミナギが口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち。

「……胸の中で、呼ばない」

「胸の中でも言うな」

 ユリネが刺して、ミナギが口を尖らせたまま黙った。黙れるなら勝ち。


 干し場へ戻る途中、鐘楼の方から短い音が落ちた。


 こん。


 一発だけ。

 効きすぎないやつ。

 全員を動かさないやつ。

 でも背中を一瞬だけ止めるやつ。


 止まった背中は、目を上げる。

 目を上げると、板を見る。

 板を見ると、声が減る。

 声が減ると、手が落ち着く。


 相乗は結果一行でいい。

 こん、が入って、干し場の声が減った。


 干し場の入口で、おばさんが腕を組んだまま言った。

「はい。見る」

 それだけ。

 言い方が雑で、でも優しい。雑な優しさは生活に効く。


 レンカが空ばさみを一つだけ残す位置に、自分の指を置いて止めた。

 止めると、境目が固定される。固定するって言うな。胸の中で固定。

 固定されると、外す手が迷わない。迷わないと、白布が迷子にならない。


 若い人が、さっきの絡んだ布を自分の腕から外して、境目の前へ戻した。

「……ここ、戻す」

「戻す」

 ハルが小さく復唱した。復唱は作法になる。


 そして、呼びたい人が出てくる。出てくるけど、今日は呼ばない。

 代わりに“見える”を使う。


 タケルが真顔で、壁際の端っこを指で示した。

 そこに、洗濯ばさみが一つだけ、空で挟まっている。空ばさみ。境目。

 もう一つ、別の空ばさみ。

 それは“通り道の終わり”の合図だった。ここより先は道を塞ぐ。塞ぐと増える。増やすな。


「空ばさみ二つは増える?」

 ミナギが言いかけて、口を押さえた。えらい。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、増える?」

「胸の中なら勝手にしろ」


 コトが笑って言った。

「二つ目は境目じゃなくて、道の端。役割が違う」

「役割って言うな」

「……胸の中で役割」

「胸の中なら勝手にしろ」

 いつものやり取りが戻ると、干し場の緊張がほどける。


 ほどけたところへ、子どもが来た。

 子どもは空ばさみが好きだ。好きは遊びになる。遊びは増える。増やすな。


「見て! 空ばさみ!」

 子どもが言った。

「触るな」

 ユリネが短く言う。

「えっ、でも見るだけ!」

「見るだけで止めろ」

「……見るだけ!」

 子どもが言い直して、背中に手を回した。えらい。早い。


 干し場は回り始めた。

 回ると、次に出るのは“手伝い”だ。


「私、外したのまとめて持ってくね」

 誰かが籠を出した。

 籠は便利に見える。便利は増える入口。

 籠に入れると混ざる。混ざると、また白布が迷子になる。


「入れるな」

 ユリネが短く言った。

「えええ、でも飛ぶし」

「飛ぶのは分かる。だから抱えろ」

「抱えるの、重い」

「重いって言うな」

「……胸の中で重い」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ここで、板の「見る」がもう一回効いた。

 籠を出した人が、鐘楼の板をちらっと見て、手を止める。

 止めると、口も止まる。止まると、次が生まれない。


「……じゃあ、指で示すだけにする」

 言い直しが出た。言い直せるなら勝ち。

 指で示すだけ。

 本人が外す。

 本人が抱える。

 他人は触らない。

 それだけで、取り込みは軽くなる。


 風が強い日ほど、布は飛びたがる。

 飛びたがる布を、声で追うと増える。

 増えないのは、手の順番だ。


 レンカが自分の布を外して、自分の抱えに入れて、空ばさみを一つ残した。

 残す位置が境目。

 境目があると、次の人が迷わない。迷わないと、また混ざらない。


 タケルは真顔で、外す手を急がせない。

 急がないと、ばさみが落ちない。

 落ちないと、拾わない。

 拾わないと、声が増えない。


 ミナギが我慢できずに言いかける。

「これ、便利——」

「便利って言うな」

 ユリネが刺す。

「……助かる」

 ミナギが言い直して、口を押さえた。言い直せるなら勝ち。


 干し場の入口で、おばさんがぽつりと言った。

「呼ばないと回らない、って思ってたけどさ。見るが先だと回るね」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で回る」

「胸の中なら勝手にしろ」

 おばさんは笑った。刺さらない笑いは、風に負けない。


 昼前、取り込みの背中は薄くなっていた。

 薄い背中は通り道を塞がない。

 塞がないと、朝市の籠がぶつからない。

 ぶつからないと、豆が転がらない。

 転がらないと、拾わない。

 拾わないと、声が増えない。


 相乗は結果一行でいい。

 見るが先になって、干し場の取り違えが減った。


 終わり際、鐘楼の板の横の木片が外された。

 外したのは当番のおばさんだ。

 外して、ポケットに入れて、何も言わずに去る。

 残さないのが上手い。上手いって言うな。胸の中で上手い。


 レンカが口を押さえたまま、ぽつり。

「……今日だけ、だったね」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で今日だけ」

「胸の中なら勝手にしろ」


 家に戻ると、取り込んだ布が小さな山になって待っていた。

 山が小さいと、たたむ手が焦らない。

 焦らないと、畳み間違いも減る。減ったって言うな。胸の中で減る。


 鍋が鳴る。

 湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「今日、呼ばなくて済んだ」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で済んだ」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ハルが小さく頷いた。

「……見るが先だと、手が落ち着く」

 シノがぼそり。

「……空ばさみ、守れた」

「守るって言うな」

「……胸の中で守る」

 シノが言い直して、湯気を小さく吸った。匂いが混ざらない顔だ。


 レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。

「今日、合図を増やさなかった!」

「増やしかけた」

 ミナギが真顔で言いかけて、

「未遂って言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で未遂」

「胸の中でも言うな」


 刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。

 軽い日は、湯屋へ行く足も軽い。軽いって言うな。胸の中で軽い。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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