第62話 合図で井戸が軽くなる
井戸の朝は、音が先だ。
ぎい。きゅ。ぽちゃん。
それが揃うと、胸が勝手に「回る」に落ち着く。
今日は揃っている。揃ってるって言うな。胸の中で揃ってる。
なのに、口だけが先に走りそうになっていた。
「欠けまで、だよね」
「今日だけ、って言ってたよね」
「木片、どこに挟むのが正しいの」
「正しいって言うな」
最後の一つはユリネの声だった。短くて、刺さらない硬さ。
水場へ着くと、当番の人がちゃんと立っていた。
欠け桶もちゃんと井戸の横に座っている。
そこまではいい。いいって言うな。胸の中でいい。
問題は「見ている目」が多すぎることだった。
欠け桶の欠け。
桶の縁の水面。
ロープの軋み。
順番の背中。
全部を見ようとすると、だいたい声が増える。
「……見る場所が多い」
ハルが小さく言った。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で多い」
「胸の中なら勝手にしろ」
レンカは口をむずむずさせて、手で押さえたまま並んでいた。えらい。
ミナギは押さえる前に口が開く。危ない。
「じゃあさ、欠けまでの札、ここに固定しようぜ!」
「固定するな」
ユリネが即答した。
「えっ、でも昨日も今日も困ってるじゃん」
「困るって言うな」
「……胸の中で困る」
「胸の中でも増やすな」
タケルが真顔で欠け桶の縁を見た。
欠けは欠けで仕事をしている。
ただ、欠けは黙っている。黙っていると、黙れない人がしゃべる。
当番の人が苦笑いして言った。
「欠けまででいいんだけどね。今日、初めての人が多くて」
初めての人。言い方が柔らかい。柔らかいのに、ここで増える入口になる。
初めての人が増えると、説明が増える。説明が増えると井戸が秤屋になる。井戸は井戸でいてほしい。
「説明は作るな」
ユリネが短く言った。
「えっ」
「欠けを見せろ」
見せろ、は強い。強いけどここでは必要な強さだった。
当番の人が欠け桶の縁を指でとん、と叩いた。
小さい音。呼び笛にならない音。
「欠けまで」
一語。
一語で止まるの、ほんとに助かる。助かるって言うな。
……その一語が、今日は届き切らない。
背中の厚みがいつもよりあるからだ。
朝市へ行く籠が混ざる。洗い籠も混ざる。子どもも混ざる。混ざると距離ができる。距離ができると一語が薄くなる。
「聞こえなかった」
「聞こえなかったって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で聞こえない」
「胸の中なら勝手にしろ」
そこで、鐘楼の方から短い音が落ちた。
こん。
一発だけ。
長くない。派手じゃない。全員を動かさない音。
でも、音は音だ。音は目を上げさせる。
水場の背中が、ふっと止まった。止まったって言うな。胸の中で止まった。
止まった瞬間に、当番の人が息を吐く。息が吐けると、当番の目が戻る。
鐘楼の根元に、小さな板がぶら下がっているのが見えた。
昨日までは無かった気がする。気がするって言うな。胸の中で気がする。
板の字は短い。角ばって小さい。
見る
それだけ。
それだけなのに、次の行が足元に落ちる。
井戸
さらにその下に、もう一つ。
欠けまで
レンカが反射で言いかけて、口を押さえた。えらい。
「……合図、これ」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、これ」
「胸の中なら勝手にしろ」
ミナギが目を輝かせた。輝くな。
「すげぇ! 鳴ったら見る、ってことじゃん!」
「鳴らすな」
「鳴らしてない! 鳴った!」
「鳴ったら見る。そこで止めろ」
「……鳴ったら見る」
ミナギが言い直して、口を押さえた。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で、言葉を一つだけ足した。
「短く一回。板を見る」
説明しすぎない。ここは一行でいい。
それが通った瞬間、井戸の空気が一段だけ軽くなる。
軽くなると、動きが揃う。揃うって言うな。胸の中で揃う。
当番の人が欠け桶をもう一度とん、と叩いた。
「欠けまで」
一語。
一語が、今度は届く。
届くのは、音が先に背中を止めたからだ。
並んでいた人が、自分の桶を見て、自分の手でロープを引く。
ぎい。
きゅ。
ぽちゃん。
欠けまで。
止まる。
ざば、が来ない。来ないと足が焦らない。焦らないと後ろが押さない。押さないと声が増えない。
「……こぼれない」
誰かが言いかけて、口を押さえた。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、こぼれない」
「胸の中なら勝手にしろ」
子どもが背伸びして板を見て、嬉しそうに言った。
「見る! 井戸! 欠けまで!」
「復唱で増やすな」
ユリネが刺す。
「増やしてない! 読むだけ!」
「読むだけで止めろ」
「……読むだけ!」
子どもが言い直して、なぜか胸を張った。胸を張るのはいい。張り紙は増やすな。
そこへ、また例の質問が来る。ついでの人だ。
「葉っぱ、ここで洗っていい?」
当番の人が板をちらっと見て、短く言った。
「今日は井戸。入れるだけ」
短い。短いと揉めない。
「……わかった」
その人は頷いて去った。頷きは増えない。去り方が軽いと、水場が軽いまま保てる。
ミナギが小声で言った。
「板、すげぇ」
「すげぇって言うな」
「……胸の中で、すげぇ」
「胸の中なら勝手にしろ」
ユリネの返しはいつも通りで、いつも通りだと場が落ち着く。不思議だ。
結果は、すぐ出た。
水のこぼれが減った。
拭き手が増えなかった。
当番の目が泳がなかった。
井戸の音が揃った。
相乗は一行でいい。今日の勝ちはそれだ。
昼前、当番の人は欠け桶の縁に挟んでいた木片を外して、ポケットにしまった。
外すのが上手い。上手いって言うな。胸の中で上手い。
板は板で残る。残るのに、井戸の言葉は増えない。増えないから回る。
帰り道、レンカが鐘楼の下を見上げて、口を押さえたまま歩いた。
「……鳴ったら見る、って、助かる」
「助かるって言うな」
「……胸の中で助かる」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルが真顔で言う。
「見るが先だと、走らなくて済む」
「済むって言うな」
「……胸の中で済む」
タケルは言い直して、少しだけ肩を落とした。落ちる肩は良い。良いって言うな。
家に戻ると、汲んだ水が台所の隅で待っていた。
鍋に入れる。野菜を入れる。豆を入れる。
ぐつ、ぐつ。
湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
レンカが小さく宣言して、すぐ口を押さえた。
「今日、井戸が軽かった!」
「言うな」
「……胸の中で軽い」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷いた。
「……音が揃った」
シノがぼそり。
「……手、増えなかった」
コトが笑う。
「板が短いの、効くね」
「言うな」
「……胸の中で効く」
「胸の中なら勝手にしろ」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
軽くなるなら、今日も回った。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




