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第60話 井戸の一言

 井戸の朝は、音が先だ。

 ぎい。きゅ。ぽちゃん。

 それが揃うと、胸が勝手に「回る」に落ち着く。


 昨日は揃ってなかった。

 今日は揃えたい。揃えるって言うな。胸の中で揃えたい。


 結び家が水場へ向かう途中、レンカが口をむずむずさせて、手で自分の口を押さえた。えらい。

「……今日は、見落とさない日」

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で、見落とさない」

「胸の中なら勝手にしろ」


 水場に近づくと、もう人がいた。

 桶。籠。洗い籠。朝市籠。

 いつもの混ざりの入口。

 でも今日は、入口が少しだけ“細い”。


 当番の人が立っていた。

 昨日と同じ人だ。

 腕まくりは同じ。ロープの端も同じ。

 違うのは、足元だった。


 欠け桶が、井戸の横に「座って」いる。

 しかも、その欠け桶の縁に、小さい木片が一枚だけ、洗濯ばさみで挟まっていた。

 字は小さい。角ばってる。短い。


 欠けまで


「……一言」

 ハルが小さく言った。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、一言」

「胸の中なら勝手にしろ」


 当番の人が、こほん、と咳払いをして、でも大声は出さない。

 昨日の反省が、喉に残ってる顔。


「今日、これ」

 当番の人が木片を指でとん、と叩いた。

 小さい音。呼び笛にならない。

「欠けまで」

 一語。

 一語で止めるの、偉い。


 並んでいた人が頷く。

 頷くと、口が増えない。

 口が増えないと、桶が迷子にならない。


 ……はずだった。

 生活は、すぐ“良いもの”を増やしたがる。


「いいね、それ。決まりにしようよ」

 誰かが言った。

 決まり。

 危ない単語。

 決まりは、守れない日を呼ぶ。


「決まりにするな」

 ユリネが短く刺した。

 短いから刺さらない。刺さらないのに、決まりの口が閉じる。閉じられるなら勝ち。


「えっ、でも便利だし」

「便利って言うな」

「……助かる」

 その人が言い直して、顔を引っ込めた。言い直せるなら勝ち。


 当番の人が慌てて言い足しそうになって、止めた。

 止めて、言い直す。


「……今日だけ。思い出すため」

「よし」

 ユリネが短く頷く。

 今日だけ。思い出す。

 それくらいの雑さが、ここではちょうどいい。


 ロープが鳴る。

 ぎい。

 桶が降りる。

 ぽちゃん。

 水が入る。

 欠けまで。

 止まる。


 昨日みたいに、ざば、が来ない。

 来ないと、足が焦らない。

 焦らないと、後ろが押さない。

 押さないと、声が増えない。


「……足りる」

 誰かが言いかけて、口を押さえた。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で足りる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 足りるは、ここでは良い。

 でも言うと増える。

 増えると、欠けまでが“正しさ”になってしまう。

 正しさは揉める。揉めると井戸が秤屋になる。

 井戸は井戸でいてほしい。


 そこへ、昨日の“こぼれた人”が来た。

 若い人。桶の縁を見て、ちょっとだけ肩が上がる。

 昨日の水の冷たさを覚えてる顔だ。


「……欠けまで、ですよね」

 確認。断定じゃない。助かる。


「欠けまで」

 当番の人が一語で返した。

 一語で返せるのが、いちばん強い。強いとか言うな。胸の中で強い。


 若い人は頷いて、自分の手でロープを引く。

 引く手が落ち着いている。

 欠けまでで止めて、桶を引き上げる。

 水が縁を越えない。

 越えないだけで、空気が軽い。


 ……軽くなったところへ、洗濯が合流してくる。

 洗い籠の人が増える。

 増えると“ついで”が来る。


「朝市の前に葉っぱだけ洗っていい?」

 誰かが言った。

 言い方が軽い。軽いのは危ない。


「洗うな」

 ユリネが即答した。

「えええ」

「水は水。洗は洗」

「でも井戸だし」

「井戸でも順番が違う」


 当番の人が困り顔になる。

 困り顔は善意を呼ぶ。呼ぶと手が増える。増えるとまた混ざる。

 混ざる前に、目印で勝つ。


 当番の人は木片を、とん、と叩いた。

「欠けまで。今日は汲むだけ」

 一語じゃなくて二語。

 でも増やしすぎない。これなら刺さらない。


 コトが柔らかく補助する。

「洗うのは家か水場の桶。井戸は“入れるだけ”」

 入れるだけ。

 言い方が生活だ。決まりじゃない。今日の手順。


 葉っぱの人が口を開けかけて、閉じた。閉じられるなら勝ち。

「……わかった。入れるだけ」

 言い直せるなら勝ち。


 井戸の音が揃い始める。

 ぎい。きゅ。ぽちゃん。

 揃うと、当番の目が落ち着く。

 落ち着くと、見落としが減る。減ったって言うな。胸の中で減る。


 その頃、干し場の方でも昨日の“境目”が働いていた。

 空ばさみ。

 触らない。増やさない。

 それだけで間違いが起きにくい。起きにくいって言うな。胸の中で起きにくい。


 水場で欠けまでが回り始めると、洗濯も変わる。

 汲む人が、汲むだけで終わる。

 終わると、洗いに行く人が散る。

 散ると、水場の桶の前が詰まらない。

 詰まらないと、干し場の回収も焦らない。


 焦らない、が今日の勝ち筋だった。


 ところが、焦らない日にも“小さい欲”が出る。

 当番の木片を見て、誰かが言った。


「これ、板にして掛けとけばさ」

 板。

 危ない。

 板にすると、貼りたくなる。貼ると増える。増えると、欄みたいになる。

 やめろ、別世界を呼ぶな。


「掛けるな」

 ユリネが短く言った。

「えっ、でも見えるじゃん」

「見えるのは足元でいい」


 足元。

 足元は強い。

 上にすると偉そうになる。偉そうになると反発が増える。増えると揉める。

 足元は、黙って効く。


 タケルが真顔で補助する。

「足元なら、拾って戻せる。板にすると“置きっぱなし”になる」

「置きっぱなしは増える」

 ハルが小さく付け足した。

「増やすな」

 ユリネが刺して、ハルが言い直す。

「……胸の中で増える」

「胸の中なら勝手にしろ」


 当番の人は、木片をもう一度とん、と叩いて、最後に一回だけ言った。

「欠けまで。今日だけ」

 今日だけ、を入れるのが上手い。

 上手いって言うな。胸の中で上手い。


 それで口が止まった。

 止まると、ぎいきゅぽちゃんが戻る。

 戻ると、当番の目が“当番”になる。


 昼前、当番の人は水場の端で息を吐いた。

「昨日より、楽」

「楽って言うな」

 ユリネが刺す。

「……助かる」

 当番の人が言い直して笑った。刺さらない笑いが、水面に落ちる。


 レンカが欠け桶を見て、口をむずむずさせて、止めて、言い直す。

「……欠け、守った」

「守るって言うな」

「……胸の中で守った」

「胸の中なら勝手にしろ」

 レンカはそれでも嬉しそうだった。嬉しいはいい。増やさなければ。


 午後、干し場へ取り込みに行くと、空ばさみがちゃんと残っていた。

 境目が見える。

 見えると、手が迷わない。

 迷わないと、白布が迷子にならない。


 そこへ、朝の井戸当番が通りかかった。

 当番の人は、空ばさみを見て、欠け桶を見て、そして笑った。


「……見えるって、助かるな」

「助かるって言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で助かる」

 当番の人が言い直して、また笑った。

 言い直せる人は、生活に馴染む。馴染むって言うな。胸の中で馴染む。


◆(神界・短カット)


 申請受付審査室。

 チヨが机に突っ伏して、顔だけ上げた。

「……地上、木片一枚で回ってるんですぅ……」

「羨ましがるな」

 ナギが淡々。

「羨ましいんですぅ……欄が増えるのに……」

「増やすな」

 廊下からマドカ。

 チヨが小さく言い直す。

「……胸の中で羨ましい」

「胸の中なら勝手にしろ」

 三人が同じことを言って、なぜか静かに笑った。刺さらない笑いは、職員室にも効く。



 夕方、結び家の台所。

 汲んだ水が鍋に入る。

 野菜が入る。豆が入る。

 ぐつ、ぐつ。

 湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「今日の井戸、見落とさなかった」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、見落とさない」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ハルが小さく頷いた。

「……一言が効いた」

「言うな」

「……胸の中で効いた」

「胸の中なら勝手にしろ」

 シノがぼそり。

「……触らないのも効いた」


 レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。

「今日、決まりにしなかった!」

「しそうだった」

 ミナギが真顔で言いかけて、

「未遂って言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で未遂」

「胸の中でも言うな」


 刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。

 一言は置いた。

 でも板にはしない。

 今日だけで回した。

 それが、増やさない工夫の回収だった。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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