第6話 もっくもく迷子と欠け桶の目印
結び家は、飯の次に湯だ。
言い切ったユリネの声が、家の梁を一本増やしたみたいに響いた。増えたのは梁じゃない。気合いだ。気合いが増えると、人は動ける。動けると生活が回る。回ると湯が沸く。沸くと、だいたい勝ちだ。
その日の夕方、結び家の庭先は忙しかった。
タケルが水を運ぶ。走り手の足で、桶が揺れない。揺れないのが一番すごい。
「ほら、こっち! 湯場、先に流しとく!」
レンカが皿を洗う手で、今度は手桶を洗っている。手が早い子は何でも回す。回すと泡も飛ぶ。泡が飛ぶとコトが笑う。笑うと家が明るい。
「コト、泡、つく!」
「ついた! へへ!」
ハルは、その輪の端っこにいた。端っこが好きだ。端っこは見える。見えると安心する。安心すると一歩出せる。
自分の足で歩けるのが、ご褒美。
ミナギが言った「歩ける?」が、まだ胸に残っている。歩けるは、偉い。偉いのに、偉いって言われるとくすぐったい。くすぐったいのに、嬉しい。
ユリネが湯場の方へ腕をぶんと振る。
「よし! 夜だ! イモ洗い風呂だ!」
「出た!」
レンカが叫んだ。
「出たって言うな!」
タケルが止めた。
「でも出た!」
コトが嬉しそうに言った。嬉しそうな言葉は止められない。
イモ洗い風呂は、結び家のご褒美だ。男女関係なく、子どもも大人も、順番で入る。大事なのは「湯」と「順番」だ。順番があると、喧嘩が減る。喧嘩が減ると、泣きが減る。泣きが減ると、上が盛りにくい。盛られにくいと、現場は助かる。
助かるのに。
その日は寒かった。
寒いと、人は善意を増やす。善意は薪を増やす。薪は湯を増やす。湯は湯気を増やす。湯気は世界を白くする。白い世界は迷子を増やす。
増やすな。
増えた。
湯場の釜の前で、誰かが薪をくべた。
「寒いからさ!」
と言った声がした。声の主は、たぶんレンカだ。たぶんじゃない気もする。でも、結び家の善意はいつも主犯が複数だ。責任が分散すると、止めにくい。
タケルも言った。
「今日、風冷たいし! 湯、あったかい方がいいだろ!」
正しい。正しいのが危ない。正しい善意は止めにくい。
火がごうっと元気になる。元気になると湯がぐらぐらになる。ぐらぐらになると湯気が立つ。湯気が立つと、湯場は白くなる。
白くなる、の量が、贅沢だった。
湯気が、もっくもくだった。
「うわ!」
レンカが湯場の入口で立ち止まった。
「なにこれ! 雲!?」
「雲は真昼山だろ!」
タケルがツッコむ。
「ここも真昼山じゃん!」
「ここは結び家だ!」
「結び家、雲出してる!」
コトが笑い転げた。
笑い転げるのはいい。笑い転げると床が湿る。湿ると滑る。滑ると危ない。危ないのは暗い。暗いのはだめ。だからユリネが即座に声を出した。
「転げるな! 転げるなら湯の外だ!」
ユリネの声は太い。太い声は湯気を割る。割れないけど、割れた気がする。気がするだけで助かるのが、生活の不思議だ。
湯場の中は、白い。
白いのに、あったかい。あったかいのに、前が見えない。前が見えないのに、声は聞こえる。声が聞こえるのに、距離が分からない。
迷子に必要な条件が、全部揃っている。
レンカが腕をぶんぶん振った。
「見えない! 手! 手出して! 順番! 順番どこ!」
「順番はそこだ!」
ユリネが言う。
「そこってどこ!」
「声の方だ!」
声の方はどこ。湯気の中では、声が壁に当たって丸くなる。丸くなると方向がぼやける。ぼやけると不安が増える。不安が増えると叫ぶ。叫ぶともっと方向が分からない。
タケルが一歩進んで、すぐ戻った。
「……足元が、見えねえ!」
「見えなくても足はある!」
ユリネが言い切る。
「あるけど!」
「あるなら動け!」
ユリネは豪快だ。豪快は迷子に強い。豪快は見えなくても前へ出る。出ると誰かがついてくる。ついてくると順番が回る。
ハルは、湯場の入口で立っていた。
湯気が白い。
白いのに、あったかい匂いがする。湯の匂い。薪の匂い。石の匂い。人の匂い。全部が混ざって、結び家の夜の匂いになる。
そして。
その匂いの中に、ほんの少しだけ、真昼山の「良すぎる匂い」の名残が混ざった気がした。
ほんの少しだけ。
小屋の周りに残った匂いが、着物の端にまだついていたのかもしれない。
匂いは、持ち物になる。持ち物になると、噂になる。噂になると面倒が増える。
でも今は、湯だ。
ハルは、自分の足を見た。見えない。湯気で見えない。見えないのに、足はある。足は自分の下にいる。自分の下にいるなら、歩ける。
歩けることが、ご褒美。
ハルは、一歩、湯場へ入った。
床が湿っている。冷たいと思った瞬間、次の瞬間には足があったかい湯気に包まれる。包まれると、ふっと力が抜けそうになる。抜けると滑る。滑ると危ない。危ないのはだめ。
だからハルは、手を伸ばした。
手を伸ばす。
伸ばした手が、湯気の中で、何にも当たらない。
当たらないのが不安だ。
不安は泣きに近い。
泣きに近づくと、上が盛る。
盛るな。
ハルは声を出した。小さい声。小さい声でいい。小さい声は、泣きじゃない。
「……て」
手。
言えた。
言えた声が、湯気の中でふわっと広がった。
山頂の反響みたいに刺さらない。町の生活の音みたいに、普通に落ちる。普通に落ちる声は、助けを呼べる。
「ハル?」
コトの声がした。近い。近いのに見えない。見えないのに、声が近いと分かる。分かると安心する。
「ここ!」
コトが言う。
ここがどこ。湯気の中では、ここがいっぱいある。
でもコトの声は、笑っている。笑っている声は、怖くない方角にある。
ハルがそちらへ一歩進む。
その瞬間、足元で何かがころん、と転がった。
木の音。
軽い木の音。
ハルは反射で、その音の方へ手を伸ばした。
指先に、欠けた角が当たった。
ざらり、と。
欠けた木の桶だ。
結び家の象徴。欠け桶。
欠けているのに、ここにある。
ここにあるのが、目印だ。
湯場の中で、欠け桶が、湯気の中の灯台みたいにそこにいた。
「……かけ」
ハルがぽつりと言った。
言葉じゃなくて、触った感触の名前みたいに。
その声を拾ったのは、ユリネだった。
「おっ、見つけたな!」
ユリネの声が、湯気を割る。割れないけど割れた気がする。気がすると方向ができる。
「欠け桶は、結び家の目だ! それが見えたら迷子じゃねえ!」
「見えてないけど触れてる!」
レンカが叫んだ。
「触れてるなら勝ち!」
ユリネが即答した。
勝ちの基準が太い。太い基準は、人を救う。
タケルが欠け桶に手を伸ばして、ぶつかった。
「うわっ、ここだったのか!」
「順番! 順番は欠け桶を基準に回す!」
ユリネが叫ぶ。
「基準、そんなのでいいの!?」
「いい! それが結び家だ!」
レンカが笑った。
「結び家、雑!」
「雑じゃねえ、強えんだ!」
ユリネが豪快に笑う。
その笑い声で、湯場が一瞬だけ「怖い」から「面白い」に寄った。
寄ると、足が動く。足が動くと順番が回る。回ると湯がご褒美になる。
コトがハルの袖を掴んだ。掴み方が自然だ。自然な手は強い。
「ハル、いっしょ!」
ハルは頷いた。頷きは湯気に吸われる。でも頷きは自分の中でできる。自分の中でできるなら十分だ。
湯場の中で、子どもたちがわちゃわちゃ動く。
大人も動く。
シノも、端っこにいた。
湯気の中で、シノは立ち尽くしていた。立ち尽くすと迷子になる。迷子になると助けが必要だ。助けると居場所ができる。居場所ができると照れる。照れると湯気の中で顔が分からなくなる。分からなくなると助かる。照れが隠れると呼吸ができる。
「……どこですか、ここ」
シノが小声で言った。
「湯場だよ!」
レンカが即答した。
「……湯場なのは分かってる」
「じゃあ分かってる!」
「分かってないのは方向だ!」
「方向は欠け桶!」
レンカが胸を張った。胸を張ると湯気が押し返される。押し返されないけど押し返された気がする。気がするだけで救われるのが、結び家だ。
ユリネがシノの肩を叩いた。叩く位置が的確だ。的確だと怖くない。
「シノ! 奪わないなら、洗え!」
「洗う……?」
「イモ!」
ユリネが言い切った。
「ここ、イモ洗い風呂だ!」
シノが一瞬、固まってから、照れた。
「……すみません、イモ、ですか」
「湯で洗うと泥が落ちる! 人も落ち着く!」
「人も!?」
「落ち着け!」
ユリネが笑いながら言った。
タケルが籠を持ってきた。中にイモがごろごろ入っている。
イモは重い。重いのに、見ると嬉しい。嬉しいのは、ご褒美が確定しているからだ。
「ほら! 洗うぞ!」
「順番!」
レンカが叫ぶ。
「順番!」
タケルも叫ぶ。
「順番!」
コトも真似して叫ぶ。
ハルも、真似した。
「……じゅ」
全部言えない。でも言えた分だけで、もう輪に入っている。
湯気の中で、手が動く。
イモがころころ転がる。
泥が落ちる。
笑いが落ちる。
怖さも少し落ちる。
欠け桶が、ずっとそこにいる。
目印は、動かない方が強い。
ハルは、欠け桶の欠けた角に、指をもう一度当てた。
ざらり。
ざらりの感触が、「ここ」を決める。
その時、湯気の向こうから、ミナギの声がした。湯場の外からだ。湯場の中に入らないのが回収担当の礼儀なのかもしれない。
「……薪、くべすぎ」
短い。結論が早い。
「くべたの誰だ!」
ユリネが叫ぶ。
「寒かった!」
複数の声が返る。主犯が複数だ。
「主犯、全員だな!」
ユリネが笑った。
笑えるなら勝ちだ。
勝ちなら湯がご褒美になる。
ご褒美は、ご褒美として消費される。
消費されると、明日が回る。
神界。
ゆれりん。
鈴の音が可愛い。可愛いのに職員室の空気が一斉に「やばい」の形に折り畳まれる。折り畳まれると紙が増える気がする。増えないのに増える気がするのが、今日も怖い。
「急案件です!」
チヨが走ってきた。走りながら書類の角を揃えようとしている。湯気の中で迷子になっている方がまだ安全かもしれない。角を揃える神が一番危ない。
「し、失礼、急案件です! 地上、結び家! 湯気が、贅沢にもっくもくです!」
マドカが、まぶた一枚だけ動かした。
「それは現象ではない」
ナギが、きれいな声で刺した。
「贅沢は汚れます」
「贅沢にもっくもく、って、申請書に書いてあったんです!」
チヨが言い訳する。言い訳の角も揃っていない。
アマネが扉から顔を出した。今日も盛れている。盛れているのに、目が輝いている。輝きは危険だ。
「湯気! 湯気なら、おねぇちゃんがもっとふわふわに!」
「いりません」
院代のにこにこ怖い声が、即座に落ちた。
「現場は楽しんでいます。迷子は生活に編み込まれています。神が盛ると、湯気が空へ逃げます。逃げると噂が増えます」
「噂は増やしちゃだめ」
マドカが短く言う。
「噂は仕事を増やす」
ゲンたちが工具箱を閉じながら言う。
掲示板の横で、【幸】のスタンプが、角ばった小さい字で控えめに待っている。控えめなのに、押されたい顔をしている。怖い。
「終結判定」
院代がにこにこ言う。
「地上の結び家が、湯のあと眠れるなら【幸】」
アマネが拳を握った。
「じゃあ、おねぇちゃんは見守る!」
「ほどほどに」
全員の声が揃った。揃い方が怖い。角が揃っている。
結び家。
湯気は、少しずつ引いていった。
薪をくべる手が減ったからだ。減ったというより、ユリネの目が増えたからだ。ユリネの目は薪より強い。
湯場の床に、欠け桶が残る。
欠け桶は目印のまま。
目印が残ると、迷子は終われる。
ハルは、湯場の入口へ戻ってきた。自分の足で。足が自分のものだ。自分のものなら、歩ける。歩けるのがご褒美。
コトがハルの髪から水をぴっと払って、笑った。
「ハル、ぬくい!」
ぬくい。
短い言葉は助かる。助かると笑える。
ハルも笑った。
笑いは増殖しない。生活の笑いは、ちゃんとここで終わる。
レンカが大きく伸びをして言った。
「湯気、すごかったね!」
「すごかった!」
タケルが頷く。
「迷子、やばかった!」
「やばかった!」
コトが真似する。
シノが端っこで、こっそりイモを一つ握っていた。奪わない人の握り方だ。奪わないのに、欲しいがある。欲しいがあるのは、生きてる証拠だ。
ユリネが全員を見回した。湯気の残りがふわっと揺れる。揺れる湯気は、まだ贅沢だ。
ユリネが言った。
「よし。生きた。寝ろ!」




