第58話 井戸当番が“見落とす”
井戸の朝は、音が先だ。
ぎい。きゅ。ぽちゃん。
それが揃うと、胸が勝手に「回る」に落ち着く。
今日は、揃ってない。
「……音、変」
ハルが小さく言った。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で、変」
「胸の中なら勝手にしろ」
水場に近づくにつれて、音が増えていく。
桶の縁が当たる音。足が石畳を擦る音。声が重なる音。
増えるのはいつものことだ。増え方が“雑”だと、今日は危ない。
井戸の横に、当番の人がいた。
腕まくり。桶の列。ロープの端。
ちゃんと立っているのに、目があちこちへ飛んでいる。
「次の人、どうぞー」
当番の人が言って、すぐ別の方向を見る。
見る方向は、干し場へ行く道。朝市へ行く道。子どもが走り出しそうな方向。
当番の目は忙しい。忙しい目は、ひとつ見落とす。
見落としたのは、線だった。
欠け桶が、いない。
いつも“ここまで”を黙って教えてくれる、欠けた縁の桶。
いないと、水の高さが人の気分になる。気分は増える。増えると混ざる。
「……欠け桶、どこ」
レンカが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、どこ」
「胸の中なら勝手にしろ」
当番の人は、気づいてない。
ロープを引く手は動いているのに、目印が消えていることに気づかない。
気づかないまま、次の桶が満ちる。
そして最初の事故は、だいたい小さい。
ざば。
水が縁を越えた。
越えた水が、石畳を一段だけ濡らす。濡れると滑る。滑ると焦る。焦ると声が増える。
「うわっ」
若い人が半歩ずれて、転びはしない。転びはしないのが救い。
でも半歩ずれると、後ろの桶が揺れる。揺れるとロープが鳴る。鳴り方が変わる。
「……こぼれた」
当番の人がやっと気づいた。
気づいたのは水で、線じゃない。
水に気づくと“拭く手”が増える。拭く手が増えると、また混ざる。
「拭きます! 私、拭きます!」
レンカが言いかけて、止めた。えらい。
止めたまま、目がきらきらしてる。危ない。善意は走る。
「拭くな」
ユリネが短く言った。
「えっ、でも滑る」
「滑るのは分かる。だから順だ」
タケルが真顔で、道を一本だけ作る。
濡れた石畳の端を避ける線。
避ける線があると、踏まない。踏まないと、拭き手が増えない。
「通るのは外。汲むのは中。しゃがむのは本人だけ」
真顔の短文は強い。強いのに刺さらない。
人が半歩ずつずれて、濡れた場所が“ただの端”に戻る。
当番の人が汗を拭いて言った。
「ごめん、今日、どこまで入れてたっけ」
どこまで。
その言葉が出ると、次が来る。
「足りない?」
「多い?」
「公平にしないと」
「升で量る?」
公平。升。量る。
全部、増える入口だ。入口が開くと、井戸が“秤屋”になる。
秤屋は秤屋でいい。井戸は井戸でいてほしい。
ミナギが口を開けかけた。
「公平ってさ」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で公平」
「胸の中でも言うな」
コトが一歩だけ前に出て、当番の人の目線を井戸へ戻す。
声は増やさない笑顔で、短く。
「見る場所がないから、口が増えるんだね」
「見る場所?」
当番の人が眉を寄せる。確認の顔だ。助かる。
ユリネが短く言った。
「見る」
それだけ。
言うだけで、周りの口が一瞬止まる。止まると、次の一手が置ける。
タケルが真顔で、水面の位置を指で示した。指先だけ。増えない。
「ここまで、って目が欲しい」
「目?」
「欠け桶」
ハルが小さく言った。
欠け桶。言い切りじゃない。探すための単語。これがちょうどいい。
レンカが息を吸って止めて、言い直した。
「……探す。走らないで探す」
「よし」
ユリネが短く頷く。止まれるなら勝ち。
欠け桶は、すぐ近くにいた。
子どもが、ひっくり返して椅子にしていたのだ。
椅子にした子どもは悪くない。目印は座り心地がいい顔をしているのが悪い。
「それ、ここまでのやつ」
コトが優しく言う。
「ここまで?」
子どもが首を傾げる。
「水の高さ、これ」
タケルが真顔で欠けを指した。
子どもはぱっと顔を明るくして、桶を抱え直した。
「じゃあ返す!」
「返すのはいい。走るな」
ユリネが短く言った。
「走らない!」
子どもが言い直して、てくてく戻ってくる。言い直せるなら勝ち。子どもの勝ちは早い。
欠け桶が井戸の横に戻る。
戻った瞬間、空気が一段だけ静かになる。
見えるものが一つあるだけで、口が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
……なのに、当番の人が、まだ迷っている顔をしていた。
「ごめん、今日、誰が最後に欠けまでやった?」
当番の人が言った。
見落としは欠け桶だけじゃない。
当番の“引き継ぎ”も、見落としている。
引き継ぎが薄いと、当番は当番で泣く。
泣く前に止める。止めるのは責めじゃない。生活の手順だ。
「聞く前に、見る」
タケルが真顔で言った。
昨日の言葉が、井戸にも刺さる。
当番の人が、欠け桶の欠けを見た。
欠けの位置まで水が入っている桶と、入っていない桶がある。
見れば分かる。分かると、声が増えない。
「……欠けまで、やってない人がいる」
当番の人が小さく言った。
責めの言い方じゃない。確認の言い方。助かる。
ユリネが短く言った。
「じゃあ、欠けまで」
「はい」
当番の人が頷く。
ここで、また善意が割り込む。
「私、揃えてあげようか?」
揃える。危ない。
他人の桶に手が入ると、責任が増える。責任が増えると、預けが生える。預けは直し屋で懲りた。
「触るな」
ユリネが短く言った。
「えっ、でも早い」
「早いって言うな」
「……胸の中で早い」
「胸の中でも言うな」
コトが柔らかく言い換える。
「本人の手だけ。欠けは見るだけ。声は一回」
「一回」
当番の人が復唱して、口をきゅっと結んだ。復唱できるなら勝ち。
当番の人は、やり方を変えた。
大声で呼ばない。
番号も作らない。
ただ、欠け桶を指でとん、と叩く。小さい音。呼び笛にならない音。
そのあと、短く言う。
「欠けまで」
一語。
一語で足りると、井戸が井戸に戻る。
人が自分の桶を見て、自分の手で引いて、自分の桶を欠けまでにする。
欠けまでになったら、次へ行く。
次へ行く背中が増えると、列が細くなる。細くなると、濡れが増えない。
さっきこぼれた水の端を、当番の人が自分で足の裏で確かめた。
滑りそうな場所だけ、避ける線の外へ誘導する。
拭かない。増やさない。
それで十分になる。十分って言うな。胸の中で十分。
しばらくして、井戸の音が揃ってきた。
ぎい。きゅ。ぽちゃん。
揃うと、当番の人の肩が落ちる。
落ちると、見落としが減る。減ったって言うな。胸の中で減る。
レンカが小さく言った。
「……欠け桶、いないと怖いね」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で怖い」
「胸の中なら勝手にしろ」
当番の人が苦笑いした。
「ごめん、見落としてた。次から、最初に欠け桶を置く」
「決まりにするな」
ユリネが即座に刺す。
「えっ」
「決まりが増えると守れない。今日は“思い出す”でいい」
刺さらない硬さ。生活向き。
当番の人は頷いて、言い直した。
「……胸の中で、思い出す」
周りが少し笑った。刺さらない笑いが水場を丸くする。
帰り道、レンカがぽつりと漏らす。
「あの角の板みたいに、井戸にも“見える一言”欲しいね」
合図欲しいが、形を変えて出た。
欲しいは危ない。増やしたくなる。増やすと、また守れなくなる。
でも“必要”は、今日の見落としが教えてしまった。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、見える一言」
レンカが言い直して、口を押さえた。えらい。
まだ作らない。まだ説明しない。
でも胸の中に芽が立つ。芽は、今は胸の中で十分。
家に戻ると、汲んだ水が台所の隅で待っていた。
鍋に入れる。野菜を入れる。豆を入れる。
ぐつ、ぐつ。
湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日の井戸、線が無いと混ざるな」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で混ざる」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……欠け、見えると戻る」
シノがぼそり。
「……手、増えなかった」
レンカが小さく宣言して、すぐ自分で口を押さえた。
「今日、走らなかった!」
「言うな」
「……胸の中で、えらい」
「褒めるな。増える」
「……胸の中で褒める」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
見落としはあった。
でも順番で戻した。
戻したなら、明日も回る。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




