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第57話 湯屋の順番が“呼ばれる”必要

 湯屋は、湯気が合図のはずだった。

 湯気が出ている。中が温い。開いている。

 それで足りる、はずだった。


 今日は足りない。

 足りないって言うな。胸の中で足りない。


 夕方、湯屋の前。

 入口の釘に、湯札が揺れている。でかい数字。短い字。いつものやつ。

 それなのに、入口が詰まっていた。


「……止まってる」

 ハルが小さく言った。

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で止まってる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 詰まりの正体は、列じゃない。

 “待ち方”だ。

 湯札を取った人が、入口から離れない。

 離れないから、次の人も離れない。

 離れない背中が三つ重なると、入口が入口じゃなくなる。


「いま、四だったよね?」

「いや、五が先じゃない?」

「え、でも五、どこ?」

「見えない」


 見えない。

 湯気のせいで、釘の札が見えにくい。

 見えにくいと、不安になる。

 不安になると近づく。近づくと見えない。最悪の循環。


 レンカが息を吸って、口を押さえた。えらい。

「……呼んだ方がいいのかな」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、呼びたい」

「胸の中なら勝手にしろ」


 呼びたい、は危ない。

 呼ぶと声が増える。

 声が増えると、湯屋は湯屋じゃなくなる。

 でも今日は、呼ばないと戻らない。ここが詰まりの芯だ。


 入口の端で、湯屋番のおばさんが腕を組んでいた。

 顔が「分かってる」。分かってる顔は強い。強いけど刺さらないとき、すごく助かる。


「近い近い」

 おばさんが短く言った。

「すみません、札が見えなくて」

 若い人が言う。言い方が確認。断定じゃない。助かる。


「見えないなら、呼べばいいんだよ」

 おばさんが言った。

 呼べばいい。

 簡単な言葉ほど、増える入口になる。


 案の定、別の人が食いついた。

「じゃあ呼んでください! 番号で!」

「番号ならいいよね」

「名前はやめてね」

「じゃあ、鐘みたいなの鳴らせば」

「鳴らすな」

 ユリネが反射で刺した。


 鳴らす、は効きすぎる。

 効きすぎる合図は、人を丸ごと動かす。

 丸ごと動くと、また詰まる。


 タケルが真顔で言った。

「呼ぶのは一回」

「一回」

 ハルが小さく復唱する。復唱は作法になる。

「呼ぶ人は一人」

「一人」

 レンカが口を押さえながら復唱した。言えるなら止まれる。


 おばさんがにやっと笑った。

「そうそう。呼ぶのは一人。呼び声は一回。返事は……」

 返事、が出ると増える。返事が増えると、また湯屋が口だらけになる。


「返事は、手」

 ユリネが短く言った。

「手?」

「手を上げる。声は増やすな」


 おばさんが頷いた。

「よし。じゃあ私が呼ぶ」

 呼ぶ人が決まると、背中が少し離れた。

 離れると入口が息をする。息をすると、湯気が逃げない。逃げない湯気は勝ちだ。


 おばさんは釘の札を見て、短く言った。

「次、五」


 一回。

 一語。

 それだけ。


 五の札を持っていた人が、黙って手を上げた。

 声は出ない。出ないから、湯気の中でも刺さらない。

 おばさんが顎で示す。

「どうぞ」


 五が入る。

 入口が一歩空く。

 空いた入口に、四が寄りかける。寄るとまた詰まる。ここで止める。


「近い」

 おばさんが短く言った。

 四が一歩下がる。下がれるなら勝ち。


 次。

「次、六」

 六が手を上げる。

 声は出ない。

 それだけで、入口の背中が一本になる。


 ……一本になった瞬間に、別の混線が来た。

 “呼ばれたい”が増えると、“呼ばれたくない”も出る。


 脱衣所の奥から、ひそひそ声。

「番号呼ばれるの、恥ずかしい」

「分かる」

「でも見えないし」


 恥ずかしい、は刺さる。

 刺さると、呼ぶ声が強くなる。強くなると増える。

 だから、恥ずかしいは増やさないで沈める。


 コトが小さく言った。

「呼ぶのは番号だけ。誰かは言わない」

「番号でも誰かだよ」

 ひそひそが返る。

「だから返事は手。声を出さないと、誰か分かりにくい」

 コトの言い方が、生活の逃がし方だ。刺さらない。


 シノがぼそり。

「……湯気、味方」

「味方にするな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、隠れる」

 シノが言い直す。言い直せるなら勝ち。

 湯気は隠してくれる。隠れるなら恥が減る。減ったって言うな。胸の中で減る。


 湯屋の中は、いつも通りの湯だった。

 ふわ、と熱い。

 熱いと、肩が落ちる。

 肩が落ちると、早い顔が抜ける。

 抜けた顔は、呼ばれても慌てない。慌てないと詰まらない。


 ところが、呼び方の作法は、入口だけじゃ足りない。

 上がり湯の桶が、通路の真ん中に出た。

 誰の桶か分からない。分からないと触れない。触れないと避ける。避けると狭い。狭いとまた詰まる。


「桶、どなたの」

 おばさんが一回だけ声を出した。

 一回で止まる声。

 端のほうで手が上がる。声は出ない。

 持ち主が自分で桶を引く。

 終わり。終わると増えない。


 レンカが湯の縁で、息を吐いた。

「……呼ばれると、離れられるね」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、離れられる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 離れられる、は大きい。

 入口から離れられる。

 釘から離れられる。

 離れられるから、湯屋が湯屋のまま。


 でも、作法は油断すると崩れる。

 “呼ばれる”が便利に見えてしまうからだ。便利って言うな。


 若い人が、湯の縁で言いかけた。

「じゃあさ、札じゃなくて、最初から呼び順を……」

「増やすな」

 ユリネが短く切った。

「えっ」

「決め事が増えると守れない」

「……胸の中で、守れない」

 若い人が言い直して、湯に沈んだ。沈むのは増えていい。湯の沈みは生活だ。


 おばさんが、湯気の向こうで笑った。

「札は札。呼びは“見えないときだけ”」

 見えないときだけ。

 それくらいの雑さが、湯屋にはちょうどいい。


 その頃、別の場所でも“呼びたさ”が芽を出していた。


---


 申請受付審査室。

 チヨが机に突っ伏している。

 突っ伏しているのに、今日は泣いてない。泣いてないのが怖い。


「……呼び出しが欲しい」

 チヨが言った。

「何を」

 ナギが淡々。

「欄が増えそうになったら、呼び出し……」

「増やすな」

 マドカが廊下から刺す。

「呼び出すと、人が集まる」

 ナギが淡々。

「集まると、欄が増える」

 チヨが机に額を当てた。

「……呼ばれるの、便利なのに……」

「便利って言うな」

 三人同時に言って、なぜか少し笑った。刺さらない笑いだけが救命具。


---


 湯屋に戻る。

 上がり口の釘に札が戻される、かたん、の音がする。

 音がすると、次が分かる。

 分かるのに、湯気で見えない時がある。

 見えない時だけ、呼ぶ。

 それで足りる。足りるって言うな。胸の中で足りる。


 ところが、最後のひと詰まりが来る。

 “出るときだけ”が、脱衣所の手前で渋滞を作る日がある。

 今日はその日だった。


 脱衣所の入口で、みんなが同じタイミングで動いてしまう。

 同時は詰まる。詰まると湯気が濡れ布に落ちる。濡れ布が床を湿らせる。湿ると滑る。滑ると焦る。焦ると声が増える。


「すみません!」

「ごめん!」

「ちょっと!」


 声が増えかけた瞬間、レンカが息を吸った。

 止まれる呼吸。最近の救命具。


「……出るときだけ」

 レンカが小さく言った。

 言い方が震えてない。強い。


 おばさんがすぐ拾う。

「出るときだけ。呼ぶのも一回」

「呼ぶ?」

「“出ます”は一回でいい」


 出ます、が一回。

 返事は手。

 それだけで、人の足が半歩ずれる。

 半歩ずれると道が太る。太ると出られる。出られると渋滞がほどける。


 タケルが真顔で壁際を指した。

「止まるなら壁。道は一本」

 一本。

 一本と言われると、人は勝手に一本になる。不思議だが、生活はそういうものだ。


 結び家が湯屋を出るころ、入口の空気はもう柔らかかった。

 呼ぶ声は一回。

 手が上がる。

 札が戻る。

 湯気が逃げない。


 レンカが夜風を吸って、ぽつり。

「呼ばれるって、助かるね」

「助かるって言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で助かる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 家に戻ると、鍋が鳴っていた。

 湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「今日、呼ぶのが必要だった」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で必要」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ハルが小さく頷く。

「……見えないときだけ、で止まった」

 シノがぼそり。

「……湯気、隠れた」

 コトが笑う。

「合図欲しい、って言うより、呼ばれたい、ってこともあるんだね」

「言うな」

「……胸の中で、呼ばれたい」

 コトが言い直して、刺さらない笑いが湯気に混ざった。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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