第56話 朝市の早出しが“合図欲しい”に変わる
朝市は、匂いが先に来る。
声はその後。小銭は最後。
その順番が崩れると、だいたい“混ざる”が来る。
今日は、匂いが来ないのに声が来た。
「開いてるって!」
「え、もう?」
「どこが?」
結び家の戸を出た瞬間から、通りが少しだけ速い。速いと言うな。胸の中で速い。
速い足は、たいてい善意だ。善意は、たいてい迷子だ。
レンカが息を吸って、口を押さえた。えらい。
「……声、多い」
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で多い」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルは真顔で、通りの先を見た。
朝市の方向へ、いつもより人が流れている。
でも、匂いが薄い。焼きの匂いも、煮の匂いも、まだ立っていない。
匂いが薄い朝市は、だいたい“始まってない”朝市だ。
なのに、人は動く。
動くと、早出しが早出しじゃなくなる。混線になる。
「……確認」
タケルがぼそりと言った。
「確認って言うな」
ユリネが刺す。
「……見る」
タケルが言い直した。言い直せるなら勝ち。
朝市の入口に着くと、案の定、入口が入口じゃなくなっていた。
列が一本じゃない。背中が斜めに生えている。
声だけが先に並んで、足があとから追いつこうとしている。
「開いてるって聞いたんだけど!」
「まだだよ!」
「いや、あっちの端は出てた!」
「出てたって何が!」
出てた、が危ない。出てたは曖昧で、曖昧は増える。増えると揉め方が増える。
揉め方が増えると、朝市が朝市じゃなくなる。嫌だ。
ミナギが口を開けかけた。
「じゃあ俺、叫ぶ!」
「叫ぶな」
ユリネが刺す。
「えっ、でも教えないと!」
「教えると増える」
「……胸の中で教えたい」
「胸の中でも言うな」
コトが、入口の端でしゃがみ込んでいる売り子を見つけた。
布の口を結んでいる。結び目が真剣だ。真剣はまだ開いてない顔だ。
その横に、籠が一つだけ置いてある。籠は空。空は準備中の顔だ。
「……まだ」
ハルが小さく言った。
小さい声が刺さらないと、場が落ちる。落ちると、人は止まれる。
でも止まれない人がいる。止まれない人が増えると、次の欲が出る。
「合図が欲しいよね」
誰かが言った。
合図。
言葉は軽いのに、行き先が重い。合図は便利に見える。便利は増える。増えると詰まる。
「そうそう、いつから“開いてる”なのか分かんない」
「鐘、鳴らせばいいじゃん」
「鐘はやめて」
「なんで」
「鳴ると全員来る」
全員来る、は正しい。正しいのに危ない。正しいは“決まり”を呼ぶからだ。
決まりが増えると守れない。守れないとまた揉める。揉めると、次の日も揉める。
ユリネは、短く言った。
「合図を増やすな」
短いから刺さらない。刺さらないのに、空気が一段だけ止まる。
止まったところで、コトが笑って拾う。
「欲しいのは“合図”じゃなくて、“見る場所”かも」
「見る場所?」
「開いてるのか、まだか、見れば分かる場所」
見れば分かる場所。
それは、朝市の匂いと同じ種類の合図だ。音や匂いは増えない。増えないから長持ちする。
タケルが真顔で、売り子の前へ一歩だけ出た。
一歩だけ。
一歩だけなら、背中は詰まらない。
「今、開いてる?」
声は一回。
売り子が顔を上げた。汗がない。まだ戦ってない顔。
「……まだ。袋の口、結べてない」
言い方が生活だ。生活の“まだ”は刺さらない。
その返事を、タケルは増やさなかった。
叫ばない。煽らない。
代わりに、入口へ戻って、短く言った。
「まだ」
一語。
一語で足りる時は、一語で終わらせる。
一語で終わると、背中が戻る。戻ると、列が一本に近づく。
「じゃあ並ばない?」
「並ぶならどこ?」
「ここで待つ?」
待つ、が増えると、待ち方が増える。
待ち方が増えると、また混ざる。
だから順番が要る。順番は生活だ。
ユリネが地面を、さらさら、と棒でなぞった。
線を一本。入口の端から端まで。
説明はしない。線だけ。線は人を静かにする。
「線より前に行くな」
短い。短いから刺さらない。
刺さらないのに、足が止まる。止まれるなら勝ち。
その横で、売り子が籠を一つ置いた。
籠の中に、白い布を一枚だけ敷く。
布の上に、木の札を一枚だけ置いた。字は小さい。角ばってる。
準備中
それだけ。
それだけなのに、入口のざわつきが一段減る。
文字は増える入口になりやすいのに、今日は増えなかった。
増えなかった理由は一つだ。
短いからだ。
「……あ、見える」
誰かが言った。
「見えるって言うな」
ユリネが反射で刺して、すぐ言い直す。
「……見る」
言い直せるなら勝ち。
準備中の札は、声を減らす。
声が減ると、足が落ち着く。
足が落ち着くと、列が一本になる。
列が一本になると、朝市が朝市に戻る。
戻りかけたところで、次の善意が走る。
別の露店が、奥の方でこそっと開け始めたのだ。
こそっと開けると、見つけた人だけが勝つ顔になる。勝つ顔は危ない。勝つ顔は叫ぶ。
「あっち、先に出てる!」
出てる。
また出てた。
言った瞬間、線の後ろの背中が斜めに揺れる。揺れると、線が死ぬ。死ぬって言うな。止まる。
「動くな」
ユリネが短く言った。
「でも買えるなら!」
「買えるが増えると、混ざる」
「混ざるって言いすぎじゃ」
「言いすぎるくらいで止まる」
タケルが真顔で続けた。
「見る」
「えっ」
「見てから、動く」
見るが先。昨日の確認が、今日も効く。
コトが、線の端へ歩いた。歩き方が遅い。遅いは湯屋の勝ち方。朝市でも効く。
奥の露店を一度だけ見て、戻る。戻り方も遅い。遅い戻りは増やさない。
「奥は“出てる”けど、数が少ない」
「少ないって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で少ない」
コトが笑って言い直す。
「だから、行くなら一人だけ。行った人は戻る」
一人だけ。
また一人だけ。
一人だけを言えると、混線は小さくなる。小さくなると、朝市は明るいまま。
ミナギが手を挙げかけて、
「俺、速い!」
「言うな」
「……胸の中で速い」
「胸の中でも言うな」
結局、行ったのは近所のおばさんだった。
おばさんの「一人だけ」は、だいたい信用できる。おばさんは増やし方を知ってるからだ。
おばさんは奥へ行って、買って、戻ってきて、線の後ろへ戻った。
戻ると、背中が勝つ顔にならない。勝つ顔にならないのが本当に偉い。
「奥はね、今日は“並ぶ”じゃなくて“取る”だったよ」
「取るって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、取る」
おばさんが笑って言い直して、周りも笑った。刺さらない笑いが朝市に戻る。
準備中の札が、ふっと外された。
売り子が札を裏返して置き直す。
裏には短い字。
開けます
それだけ。
それだけで、線の後ろの背中が一段落ちる。
落ちると、並びが始まる。
始まるのに、声が増えない。声が増えないなら勝ちだ。
秤屋の方から、カチンが聞こえた。
一定の音が戻ると、朝市の人は勝手に呼吸する。
呼吸すると、合図が欲しい気持ちが少しだけ丸くなる。
「合図ってさ」
誰かが言いかけて、
「言うな」
自分で口を押さえた。えらい。
代わりに、札を見た。
準備中と開けます。
それだけで足りた顔になる。
レンカが小さく言った。
「合図欲しい、って言うより……見たい、だね」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、見たい」
「胸の中なら勝手にしろ」
朝市は、そのまま普通の朝市に戻った。
匂いが立つ。声が混ざらずに並ぶ。小銭が細く鳴る。
早出しは、早出しのまま。
合図欲しいは、欲しいのまま。
でも今日は、増やさなかった。増やさないのが、いちばん難しくて、いちばん効く。
家に戻ると、買ったものを床に広げる。
粉。豆。葉物。
袋の口は二回結ぶ。増やすんじゃない。転がさないため。
鍋が鳴る。湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日、鐘を鳴らさなくて済んだ」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、鳴らさない」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷く。
「……札、短いのが効く」
シノがぼそり。
「……声、減った」
「減ったって言うな」
「……胸の中で減った」
シノが言い直す。言い直しは増えない。えらい。
レンカが小さく宣言した。
「今日、合図を増やさなかった!」
「増やしかけた」
ミナギが真顔で言いかけて、
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で未遂」
「胸の中でも言うな」
刺さらない笑いが湯気に混ざって、台所が軽くなる。
合図欲しいは、明日も出る。
でも明日は、増やさないで見せればいい。
増やさない合図が、いちばん生活だ。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




