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第55話 【欄】(第五波)

 織帳院の朝は、だいたい「増えた」で始まる。

 今日は、欄が増えた。


 申請受付審査室。

 はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。


「……いや……いやぁ……」


 悲劇の泣きじゃない。業務の泣きだ。

 机の上には申請書が積まれている。積まれているのに、積みの角が揃いそうで揃わない顔をしている。


 チヨは角を揃える儀式を始めた。

 束の側面を机に、とん、とん、とん。

 よし。揃った。今日は勝てる。勝つとか言うな。胸の中で勝つ。


 その瞬間。


 紙の中で、罫線が一拍だけ増えた。

 縦が一本。横が一本。

 欄が、しれっと増えた。


 増えた分だけ、さっき揃えた角が、やさしくズレる。


「……角が……角がぁ……!」


 チヨは叫びかけて、すぐ自分の口を押さえた。

 声を増やすと、周りが動く。周りが動くと、欄が喜ぶ。

 欄は、動くのが好きだ。最悪。


 背後の壁は、今日も壁だった。

 張り紙。張り紙。張り紙。

 主任級持ち回りの癖だけが、無駄に元気に混ざっている。


 右端ぴし派。

 中央揃え派。

 上を二ミリ空け派。

 下に余白残し派。


「……欄より先に……貼り癖がぁ……」


 チヨの泣きがA(角)からB(貼り癖)へ移った。

 二系統泣きは、脳が熱い。


 その熱に反応するみたいに、ゆれりんが鳴った。


 りん。


 職員室の空気が一斉に固まる。

 固まると、余計な手が止まる。止まると、欄の増え方が一拍遅くなる。気がするだけでも救い。


「……第五波」

 ナギがぼそり。

「波にするな」

 廊下からマドカの乾いた声。入ってこない距離で刺すのが上手い。


 チヨは机に額を当てて、深呼吸をひとつだけした。

 立て直しの合図は、胸の中で十分だ。

 十分のはずだった。


 机の端で、紙束の一枚が、ふわっとめくれた。

 めくれた紙の上に、欄が増えていく。

 増えた欄が、紙の外へはみ出すみたいに、空中に薄い格子が見え始めた。


「……いや……目に見えるのやめて……」


 格子はゆっくり、机の縁を越えて、床へ降りていく。

 床の上に、薄い縦横線が走る。

 線が走ると、人はつい踏みたくなる。踏むと増える。増やすな。


 格子は、迷わず廊下へ向かった。

 向かった先は、技術室の出入口だった。


 技術室の扉の前で、格子がぴたりと止まる。

 止まったと思った瞬間、扉のガラス部分に、きっちり罫線が生えた。

 扉が、紙になった。


「……侵食してるぅ……!」


 チヨの声が漏れかけて、また口が押さえられる。

 声を増やすと、欄が増える。

 欄が増えると、扉が増える。増やすな。


 そこへ、最悪の元気が来た。


「チヨー! おはよー!」


 主犯神アマネだった。

 元気。明るい。現場の酸素を吸って欄を吐くタイプの元気。


「……おねぇちゃんに、まかせて!」


「任せた結果がこれですぅ……!」


 チヨが机に突っ伏し直す。泣きがAに戻って、すぐBに行こうとして忙しい。


 アマネは壁を見て、きらきら言った。


「わぁ……欄、いっぱい!」

「いっぱいじゃない。止まってない」

 ナギが淡々と刺す。淡々は冷たくないのに刺さる。


 アマネは技術室の扉を見て、さらに目を輝かせた。


「見て見て! 扉まで欄になってる!」

「喜ぶな」

 マドカがついに部屋へ入って言った。入った時点で負け。


 技術室の中から、コン、と音がした。

 中にいる技術室の人が、扉を押したのだろう。

 でも扉は開かない。開くと欄が崩れる。欄は崩れるのが嫌いだ。


「開かないなら、分類すればいいよ!」

 アマネが言った。

 分類。

 危ない単語。

 分類は、欄の親友だ。


「分類するな」

 ナギが即答。

「えー? でもさ、欄って混ざってるから増えるんでしょ?」

「混ざってなくても増える」

 マドカが乾く。乾くのに正しい。正しいのに救わない。


 アマネは懐から色ペンを出した。

 色ペンが出ると、欄が笑う。音がしない笑いで。


「じゃあ色分け! 赤は角、青は貼り位置、緑は…えっと…欄そのもの!」

「欄そのものを分類するな」

 チヨが机から顔を上げて泣き声で突っ込んだ。

 泣き声のくせに、言葉が正しいのがさらに悲しい。


 アマネが壁の張り紙に、色の小さな丸を付け始めた。

 丸を付けた瞬間、張り紙の紙面に、欄が増えた。

 丸の横に、丸を説明する欄。

 説明欄の横に、説明欄の分類欄。

 分類欄の横に、分類欄の分類欄。


「見て! 分類が増えた!」

「喜ぶな」

 ナギが刺す。

「増えたら分かりやすいじゃん!」

「分かりやすくなる前に増えるんだ!」

 チヨがAで泣いて、Bで泣いて、またAに戻った。


 壁の張り紙が、ぴら、と揺れた。

 揺れたのは風じゃない。

 張り紙の隙間が消えたのだ。

 消えると、壁が完全に埋まる。埋まると、貼る場所がなくなる。貼る場所がなくなると、貼りたくなる。貼りたくなると…増える。


「……貼る場所がないって、最高!」

 アマネが言った。

「最高って言うな」

 マドカが刺した。

「じゃあ床に貼る!」

「貼るな」

 三人同時に言って、三人とも疲れた顔になった。疲れは増やさないでほしい。


 その時、技術室の扉の前の格子が、じわ、と太くなった。

 太くなった線が、床に大きな枠を作る。

 枠の中に、文字が浮かぶ。


 合図はここ。


「……合図?」

 ナギが眉を寄せる。

「誰が書いた?」

 マドカが疑う。

「欄が勝手に書いてる!」

 アマネが元気に断定しかけて、マドカに睨まれて口を閉じた。閉じられるなら勝ち。


 チヨが顔を上げた。

 泣き目のまま、でも現場の目だ。


「……合図があると、声が減りますぅ……?」

 疑問形にしてるのが偉い。断定すると欄が喜ぶ。


 ナギが淡々と言った。

「声が減れば、欄は増えにくい」

「増えにくいって言い方、優しい」

 チヨが泣きながら言って、すぐ自分で口を押さえた。優しいを増やすと、また欄が増える。


 アマネが大きく頷いた。

「じゃあ“合図板”作ろう!」

「作るな」

 マドカ即答。

「えー! でもさ、鐘みたいにさ。りんって鳴ったら、これ見てねって!」

 アマネが扉の前の枠を指差す。

 枠はもう“板”みたいに見えている。見えると人は作りたくなる。作ると増える。増やすな。


 だが、今日の欄は意地が悪い。

 意地が悪いくせに、仕事が早い。


 扉の前の枠が、勝手に増えた。

 枠の上に、短い言葉が三つ浮かぶ。


 見る

 触るな

 押すな


「……それ、全部言われてる」

 ナギが淡々。

「全部言われてるから、全部必要なんだよ」

 アマネが元気に返して、また余計なことを言う。

「じゃあ項目を増やして、状況別に…!」


 状況別。

 分類。

 また危ない。


 アマネが枠の横に、さらに枠を描こうと指を動かした。

 指が動いた瞬間、枠が勝手に増えた。

 状況A。

 状況B。

 状況C。

 状況D。

 状況E。

 そして最後に、状況Fの横に、状況Fの説明欄が生えた。


「……いやぁ……」

 チヨが机に突っ伏した。A泣き。

 すぐ顔を上げて壁を見る。B泣き。

 また机を見る。A泣き。

 忙しい。忙しいと欄が増える。増やすな。


 ゆれりんが、もう一度鳴りかけた。

 り…

 鳴る前に止まった。止まったのが怖い。止まると、次が大きい。


 その時、にこにこが来た。


「おはようございます」


 院代。にこちゃん先生。

 にこにこ怖い。

 扉の罫線と、床の枠と、壁の張り紙と、アマネの色ペンを一度に見て、にこにこで一言だけ言った。


「分類しないでください」


 一言。

 一言だけで、空気が一段だけ整う。

 整うと、アマネの指が止まる。止まれるなら勝ち。


 そこへ、朱肉の匂いが入ってきた。

 ゲンだ。


「まだ終わってない顔だな」

「終わってません……!」

 チヨが即答する。今日は泣きより怒りが勝ってる。怒れるなら生きてる。


 ゲンは技術室の扉を見た。

 扉の罫線を見た。

 床の枠を見た。

 壁を見た。

 そして雑に言った。


「扉が紙なら、押す前に印だろ」


 意味が分からないのに、なぜか現場に効く。

 雑は、時々救命具だ。


 ゲンは朱肉を開け、判を構えた。

 ゲン印【幸】。

 どん。


 印を押したのは、床の枠のど真ん中だった。

 赤が、格子の中心にきっちり乗る。

 乗った瞬間、格子が「仕事終わり」の顔になる。


 壁の張り紙が、ぴた、と止まった。

 扉の罫線が、すう、と薄くなる。

 床の枠が、じわ、と消える。

 技術室の扉が、紙じゃなくなる。


 コン。

 中から、もう一度音。

 今度は、扉が開いた音だった。


「助かりました」

 技術室の人が顔だけ出して言いかけて、

「助かるって言うな」

 マドカが反射で刺した。

「……沈みました」

 技術室の人が言い直して、なぜか全員が一瞬だけ笑った。刺さらない笑いは、終結の合図だ。


 ゲンが雑に言い放つ。


「終いが良ければそれでよし!」


 雑なのに、終わる。

 終わると、欄は一拍だけ増えるのを諦める。諦める瞬間があるだけで、人は呼吸できる。


 アマネが口を尖らせた。

「えー。合図板、いい感じだったのに」

 言いかけて、にこちゃん先生を見て止まった。止まれるなら勝ち。

 代わりに、胸の前で小さく拳を握って言う。


「……胸の中で、合図板」


 チヨが机から顔を上げて、涙目のまま呟いた。

「……合図は、増やさないのが合図ですぅ……」

 言い方が雑で、でも正しい。雑な正しさは、現場を救う。


 ナギが淡々と頷く。

「今日の学び。分類は欄を育てる」

「育てるって言うな」

 チヨが泣き笑いで刺して、また口を押さえた。増やすな。


 終結判定が出た職員室は、次にやることが決まっている。

 立て直す。

 そして、生活へ戻す。


 チヨは机の端から、小さい湯呑みを引き寄せた。

 給湯室のほうから、誰かが急須を持ってきた。

 急須は増えていい。増える急須は平和の匂いがする。


 ゲンが言った。

「よし。生きた」

 チヨが即答した。

「生きましたぁ……!」


 アマネが最後に、にこちゃん先生の背中へ小声で言いかける。

「合図板…」

 にこちゃん先生は振り向かずに、にこにこしたまま去った。

 去り際のにこにこは、何も増やさない。

 それが一番怖くて、一番助かる。


 壁の張り紙は、埋まったまま。

 でも今日は、増えてない。

 増えてない日が、神界の勝利だ。勝ちとか言うな。胸の中で勝つ。


 ゲンが湯呑みを持ったまま、雑に言う。


「よし。次」

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