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第53話 井戸の水で“秤らず足りる”が増える

 井戸の朝は、音が先だ。

 ぎい。

 きゅ。

 ぽちゃん。

 桶の縁に水が当たる音がすると、胸が勝手に落ち着く。落ち着くと、人は欲張らない。欲張らないと、足りる。


 ……のはずだった。


 水場に着いた瞬間、レンカが鼻をひくっとさせた。

「……今日、音が多い」

「言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「……胸の中で、音が多い」

「胸の中なら勝手にしろ」


 音が多いのは、桶が多いからだ。

 桶が多いのは、人が多いからだ。

 人が多いのは、風がいいからだ。乾く風。洗濯が前に出る風。朝市も早くなる風。

 風がいい日は、なぜか「ついで」が増える。


 水場の端に、見慣れない道具が置かれていた。

 木の升。

 しかも、いくつか。大きいのと小さいの。

 升の隣に、粉がついた布。

 ……秤屋の余韻が、ここまで来ている。


「……升?」

 タケルが真顔で言った。

「秤らないで済むのに、秤りたくなる」

 コトが笑う。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で秤りたくなる」

「胸の中でも増やすな」


 誰かが声を上げた。

「この桶、どこまで入れる?」

 どこまで。

 その言葉は、悪くない。悪くないのに、次の単語を呼ぶ。


 足りない。


 呼ばれた瞬間、現場はややこしくなる。

 ややこしくなる前に止めたいのに、止め方を間違えると“決まり”が増える。決まりが増えると守れない。守れないと揉める。揉めると、朝が重くなる。


 水場の真ん中で、年配の人が腕を組んで言った。

「今日は人が多い。公平にしよう」

 公平。

 危ない単語。

 公平は、正しさの衣を着て増える。


 ミナギが「公平!」って言いかけて、

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で公平!」

「胸の中でも言うな」


 公平の隣に、升が出てくる。

 升の隣に、数が出てくる。

 数の隣に、順番じゃない順番が出てくる。

 出てくると、井戸は井戸じゃなくなる。測り場になる。測り場になると、誰かが泣きそうになる。今日は泣かせない係がいる。いるけど、増やさない係も兼任するのはしんどい。


 案の定、若い人が升を持ち上げた。

「一升ずつって決めれば早いよね」

 決める。

 危ない。

 決めると「外」が出る。外が出ると、外の人が困る。


 レンカの肩が上がった。上がると走る。走ると増える。

 レンカは息を吸って止めた。えらい。

 止めたまま、口を押さえる。止まれる口は、今日の勝ち筋。


 ユリネが短く言った。

「見る」


 え? って空気になる。

 でも見るは増えない。見るはまず落ち着く。


 タケルが真顔で続けた。

「聞く前に、見る」

 昨日の“確認”が、今日の水場にも刺さる。


 ユリネは井戸の縁を、とん、と叩いた。

 欠けた石じゃない。井戸の縁の、少し摩耗した角。

 ここにも、線がある。目が覚えてる線がある。


「水、足りるかどうかは、見れば分かる」

「……足りる」

 ハルが小さく復唱した。

 復唱は作法になる。作法になると、口が落ち着く。


 そこへ、シノがぼそり。

「……足りないって言うと、増える」

「言うな」

 ユリネが反射で刺して、すぐ言い直した。

「……足りるで止めろ」


 足りる。

 言い換えは、場を軽くする。

 軽くなると、桶が桶のままで済む。


 でも、足りるで止めるには、手順が要る。

 手順がないと、足りるがただの気合いになる。気合いは増える。増えた気合いは空回る。


 コトが、井戸の横に置かれた欠け桶を指でとん、と叩いた。

 欠け桶は、結び家の目印だ。欠けてるから、勝手に目が拾う。


「欠けまで。今日の“ここまで”は欠け」

「欠けまで!」

 レンカが復唱して口を押さえた。復唱して止まれるのは偉い。


 欠け桶の縁には、小さな欠けがある。

 欠けの位置まで水を入れると、誰の目でも同じになる。

 同じになると、数えなくていい。

 数えなくていいと、升がいらない。


 ……いらないのに、升はそこにある。

 升を置いた人が困った顔をした。

「でも、欠け桶持ってない人は?」

 困った顔は刺さる。刺さると助けたくなる。助けたくなると増える。


 ユリネが短く言った。

「貸すな」

「えっ」

「貸すと、返すが増える」

 増えると、朝が増える。朝は増やさない。


 タケルが真顔で言い換えた。

「真似ればいい」

「真似?」

「欠け桶じゃなくても、欠けの位置を見て、同じ高さまで」


 高さ。

 高さは“秤”じゃない。目で分かる高さだ。

 目で分かる高さは、揉めにくい。


 年配の人が腕を組んだまま、ふっと笑った。

「なるほどね。升で測るより、目で合わせるほうが早いか」

「早いって言うな」

 ユリネが刺す。

「……助かる」

 年配の人が言い直して、周りが少し笑った。刺さらない笑いは、水場に効く。


 ところが、目で合わせるにも“事故”がある。

 事故はだいたい、善意で起きる。


「じゃあ私、みんなの桶、揃えてあげる!」

 誰かが言った。

 揃える。

 危ない。

 揃えると、他人の桶に手が入る。手が入ると、責任が生える。責任が生えると、預けが生える。預けが生えると、直し屋の二の舞だ。


「触るな」

 ユリネが短く言った。

「えっ、でも揃えたら早いのに」

「早いって言うな」

「……助かる?」

「助かるのは、自分で汲むことだ」


 コトが柔らかく補助する。

「本人の手だけ。押すのも引くのも本人」

「本人」

 ハルが小さく復唱する。

 本人が復唱されると、手が引っ込む。引っ込められるなら勝ち。


 水場の真ん中で、ロープがぎい、と鳴った。

 井戸の滑車が、ちょっとだけ軋む。

 軋むと、人は手を止める。手を止めると、後ろが詰まる。詰まると、また「公平」が出そうになる。

 出そうになる前に、シノが鼻をひくひくさせた。


「……油」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で油」

 シノが言い直して、でも指先は動かない。動かないのが偉い。

 直し屋で学んだ“奪わない”が、ここでも効く。


 ミナギが我慢できずに言う。

「じゃあ俺、油さしてくる!」

「するな」

 ユリネが刺す。

「えっ、でも軋むと危ないじゃん」

「危ないを増やすな。壊れてない」

「……推測で壊れてない」

「推測の使い方が雑だ」

 タケルが真顔で突っ込んで、コトが笑った。刺さらない笑いは、軋みを軽くする。


 年配の人が、ロープを引く手を一度止めて言った。

「今日は“欠けまで”で十分だ。急がない」

 急がない。

 その一言で、列の背中が落ちる。背中が落ちると、軋みが目立たなくなる。

 目立たなくなると、油を差したくならない。油を差したくならないと、余計な道具が増えない。


 水が桶に落ちる。

 ぽちゃん。

 ぽちゃん。

 欠けまで。

 そこで止める。止めたら、次へ。


 次へ、が口に出ると、人は動ける。

 動けると、詰まらない。


 途中で、ひとつだけ“足りない顔”が出た。

 小さい子を連れた親が、桶を見下ろして眉を寄せたのだ。

「これで……足りる?」

 言い方が確認だ。断定じゃない。助かる。


 レンカが息を吸って止めた。

 代わりに、コトが短く言った。

「足りるかどうかは、使ってから。今は欠けまで」

 使ってから。

 その言い方が、生活だ。

 今ここで結論を出さない。結論を出すと“確定”になる。確定になると、口が増える。


 親は頷いて、欠けまで汲んで、子の手を引いて去った。

 去り方が軽い。軽い去り方は、噂を運ばない。


 升は、いつの間にか誰も触らなくなっていた。

 触らなくなると、升はただの木だ。

 ただの木は、増えない。

 増えない木の隣で、欠けの線だけが働く。

 それが今日の“秤らず足りる”だ。


 水場を離れるころ、レンカが小さく言った。

「足りる、って言うと、焦らないね」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、焦らない」

「胸の中なら勝手にしろ」


 朝市はいつも通りだった。

 秤屋のカチンが鳴る。

 でも今日は、カチンが“呼び笛”になっていない。

 水場で足りるが増えた分、秤で確かめたいが減っている。

 減ったって言うな。胸の中で減った。


 家に戻ると、汲んだ水が台所の隅で待っている。

 鍋に入れる。

 野菜を入れる。

 豆を入れる。

 ぐつ、ぐつ。

 湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「今日、水、秤らなかったな」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、秤らない」

「胸の中なら勝手にしろ」


 ハルが小さく頷いた。

「……目で足りた」

 シノがぼそり。

「……手、増えなかった」

 コトが笑う。

「足りるって、便利」

「便利って言うな」

「……助かる」

 コトが言い直して、刺さらない笑いが湯気に混ざった。


 レンカが小さく宣言した。

「今日、足りないって言わなかった!」

「言いかけた」

 ミナギが真顔で言いかけて、

「未遂って言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で未遂」

「胸の中でも言うな」


 笑いが起きる。

 刺さらない笑いが起きると、水場の軋みまで軽くなる。

 軽くなるなら、今日は足りた日だ。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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