第50話 回収
噂は、昨日より今日のほうがやっかいだ。
昨日は鳴った。今日は残る。残ると、勝手に形が固まる。固まると「確定っぽい」が「確定」に化ける。化けると、口が増える。
だから朝の角は、いつもより静かで、いつもより目が多かった。
鐘楼の影の下。板と釘と木片と箱と欠けの石。
木片が一枚だけ、かたん、とぶら下がっている。
確認は板。声は一回。確定っぽいで止める。
字が太くない。けど短い。短いから、読める。読めるから、叫ばなくていい。
——板を見る人が増えて、口の噂が一段減った。
それが、朝いちばんの「結果」だった。
レンカが板を見て、口をむずむずさせて、手で自分の口を押さえた。止まれるのがえらい。
「……確認、板」
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で確認、板」
「胸の中なら勝手にしろ」
板の前で、荷ほどき通りの人が立ち止まった。昨日の話を聞いて、顔が固い。
「今日、締め出し……?」
と言いかけて、言い直す場所を探すみたいに板を見る。
板の字を読んで、口を閉じた。閉じられるなら勝ちだ。
代わりに、隣の人の袖を引いて、指で木片をとん、と示す。指先の合図は増えない。
「確定って言うな、って書いてあるね」
袖を引かれた人が小声で言って、すぐ自分で口を押さえた。
「……声、一回」
小声のまま、言い直す。言い直しがあると、噂が痩せる。
ミナギが元気に鼻息を出した。
「でもさ、これ、誰が書いたの?」
「増やすな」
「増やしてない、疑問!」
「疑問は増える」
「……胸の中で疑問!」
「胸の中でも言うな」
タケルは真顔だった。真顔のまま、板の字を二回読んで、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
反省の顔だ。反省は暗くしない。暗くしない反省は、一回で終わるのがいい。
「昨日、走り過ぎた」
タケルが言った。
それだけ。
それ以上は言わない。言うと重くなる。重くなると、また噂が増える。
コトがにこっとして、短く返した。
「一回でいい」
タケルが頷いた。頷きは増えない。
そこへ、角に“別の真顔”が来た。
背中が堅い。靴が堅い。息が堅い。
役所側の人だ。名乗らない。名乗ると増える。
胸元に、革の札入れ。腰に、木の板。板には印の跡。お堅い匂いがする。
「……確認に来ました」
声も堅い。
堅いけど、怒ってない。怒ってない堅さは、まだ助かる。
レンカの肩が上がりかけた。上がると泣かせない係が走る。走ると、昨日に戻る。
ユリネが短く言った。
「見る」
「えっ」
確認係の人が瞬きをした。
タケルが真顔で続ける。
「聞く前に、見る」
昨日の順番を、今日はそのまま渡す。
渡せるなら勝ちだ。
確認係の人は、板を見た。
次に箱を見た。次に欠けの石を見た。次に、朝市の方向を見た。
そして、口元がほんの少しだけ緩んだ。緩むと、声が増えない。
「……これ、最近の決まりですか」
言い方が確認だ。断定じゃない。助かる。
「決まりにするな」
ユリネが言った。短い。刺さらない短さ。
確認係の人は、言い返さなかった。言い返さないで、もう一度板を見る。
板を見ている間に、角の通り過ぎ方が変わっていく。
昨日は、誰かが「検査だ!」って叫ぶたびに、足が止まって、口が重なって、背中が詰まった。
今日は、止まる代わりに、目が寄って、読んで、すっと散る。
散り方が静かだと、鐘楼の影が影のままで済む。
「……助かる」
コトが言いかけて、
「助かるって言うな」
自分で刺して笑った。刺さらない笑いが一番いい。
確認係の人が、懐から紙を一枚出しかけた。
ぴん、とした紙。ぴんは危ない。貼りたがる顔になる。
レンカが息を吸って止めた。止まれるのがえらい。
ユリネが先に言った。
「貼るな」
「……貼りません。掲げるだけです」
確認係の人は、紙を広げかけて、やめた。広げると、人の目が集まる。目が集まると、口が増える。
代わりに紙を折った。折って、札入れに戻した。戻すのが早い。
タケルが真顔で言う。
「声、一回で言え」
「……一回」
確認係の人が復唱した。復唱できるなら勝ち。
確認係の人は、木の板から小さな木片を一枚外して、短く書いた。
紙じゃない。増えない。
確認中。確定って言うな。
それだけ足す。
角の空気が、もう一段だけ軽くなる。軽くなると、朝市が朝市のまま回る。
朝市の入口で、誰かが言いかけた。
「昨日の鐘って——」
その人は続けずに、角を指した。
指された先で、別の人が言う。
「板、見た?」
「……見た。確定っぽい」
「確定っぽいで止めろ」
言い直しが、当たり前みたいに返ってくる。
言い直しが増えると、噂が痩せる。痩せると、走らない。走らないと、列が崩れない。
秤屋の方から、カチンが戻ってきた。一定の音は安心だ。安心は、今日は増えない安心だった。
秤屋の列の端で、粉袋を抱えた人が固まっていた。昨日のざわつきが残っている顔。
前の人が肩越しに囁く。
「ひとつずつ」
その一語で、袋の口が結ばれる。結ばれると、粉が舞わない。舞わないと、誰も咳をしない。咳をしないと、また口が増えない。
確認係の人は、角から朝市へ一歩だけ出て、様子を見た。
見るだけ。言わない。叱らない。印を押さない。
印を押すと「確定」になる。確定になると、また増える。
ミナギがぼそっと言う。
「役所の人、怖くないね」
「怖くないって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で怖くない」
「胸の中なら勝手にしろ」
昼前、結び家の台所は、鍋の匂いが勝っていた。
ごっちゃ煮スープ。湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
確認係の人は、まだ角にいた。立ち続けている。立ち続けると、肩が固まる。
固まった肩は、良くない。良くないと、堅い声が出る。堅い声が出ると、また噂が固まる。
コトが、確認係の人に近づいた。声は増やさない笑顔で。
「……飯、どうぞ」
「仕事中です」
「仕事、沈めます」
コトの言い方が雑で、でも優しい。雑な優しさは、役所側にも効く時がある。
確認係の人は断ろうとして、腹が鳴った。
きゅる。
小さい音なのに、角より目立つ。目立つと恥ずかしい。恥ずかしいと、声が小さくなる。小さい声は助かる。
「……一杯だけ」
「一杯だけ」
タケルが真顔で復唱した。復唱は作法になる。作法になると、増えない。
結び家の卓に、確認係の人が座った。
座り方が堅い。背筋が直角。箸の持ち方が慎重。
ユリネが短く言った。
「食え」
「……はい」
一口。
二口。
三口。
湯気が、堅い背中に染みていく。染みると、肩が落ちる。肩が落ちると、堅い声が出ない。
出ない堅い声は、今日いちばんありがたい。
「……沈みますね」
確認係の人が、ぽつりと言った。
「沈むな」
ユリネが刺す。
「……沈みそう、です」
「推測の使い方が雑だ」
タケルが真顔で言って、コトが笑った。刺さらない笑いが湯気に混ざる。
確認係の人は、二杯目を断ろうとして、断れなかった。
「おかわり、どうぞ」
「……一杯だけのはずが」
「確定って言うな」
ミナギが反射で言って、自分で口を押さえた。
「……確定っぽい」
確認係の人が言い直して、なぜか自分で笑った。笑えるなら勝ち。
沈む、はここからだった。
背筋が少し丸くなる。
目尻が少し下がる。
堅い靴が、椅子の脚をきゅっと鳴らして、位置がずれる。
ずれた位置のまま、確認係の人はもう一口すくう。
すくうたびに、肩から堅さが落ちていく。落ちる堅さは、噂を落とす堅さだ。
沈んだ確認係の人は、角の石段に腰を下ろした。
腰を下ろすと、役所の人が“通りの人”になる。
札入れの口が少し開いて、硬い紙の端が見える。見ると「報告書だ」と分かる。分かると、口が動きそうになる。
「それ、書くんですか」
ミナギが言いかけて、口を押さえた。
「言うな」
ユリネが刺す。
確認係の人は、頷きだけで返した。
それから、紙に何かを書きかけて、やめた。
書くと“確定”の匂いが出るのを、飯で学んだ顔。
「……記録は、胸の中で」
確認係の人が言って、自分で首を横に振った。
「……違う。胸の中じゃ、忘れる」
コトが笑った。
「じゃあ、短く」
確認係の人は、紙の端に小さく一行だけ書いた。
見た。聞いた。まだ、鳴らしてない。
それだけ。
“まだ”が入っているのが、優しい。
優しいと、噂が居座れない。
「……角、静かですね」
確認係の人が言った。言い方が、もう“役所の人”じゃない。生活の人の言い方だ。
「静かって言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で静か」
確認係の人が言い直した。言い直せるなら、もうこの人は味方だ。
タケルが真顔で、短く頭を下げた。
「昨日、俺が増やした」
「増やしたって言うな」
ユリネが刺す。
「……困らせた」
タケルが言い直す。暗くしない反省は、ここで終わるのがちょうどいい。
次の瞬間、タケルの目がもう善意に戻る。
「今日は、見る係する」
「言うな」
「……胸の中で、見る係」
「胸の中なら勝手にしろ」
午後、角へ戻ると、板を見る人の足が途切れない。途切れないのに詰まらない。
みんな、読むだけで行く。読むだけで行くと、声が減る。
——板を見る足が増えて、口の確定が減った。
結果が、もう一段沈んだ。
午後の角で、もう一つだけ、小さな山場が来た。
縄だ。
鐘楼の縄を、見上げる人が一人いる。
顔が「鳴らせば安心」になっている。安心の取り方が雑だと、また効きすぎる。
「鳴らしたら、分かるよね?」
その人が言いかけて、角の木片を見る。
“鳴らすのは最後”の字は無い。けれど「確認は板」が刺さっている。
タケルが真顔で、声を増やさずに言った。
「見る」
それだけ。
縄に伸びかけた手が止まる。止まれるなら勝ち。
止まった手の隣で、確認係の人が、まだ湯気の匂いをまとったまま、ぼそっと言った。
「……鳴らさないでください」
堅いはずの声が、柔らかい。
柔らかい命令は、刺さらない。
「……はい」
縄の人が言い直す。
「……鳴らしません」
言い直しが二段になって、周りが少し笑った。刺さらない笑いは、角を守る。
帰り際、確認係の人は角に向かって小さく頭を下げた。
「……板、助かりました」
「助かるって言うな」
ユリネが刺して、確認係の人が言い直す。
「……沈みました」
言い直しが雑で、みんなが笑った。
走り手の子が角を通りかかって、昨日みたいに叫ばずに、板を指でとん、と叩いた。
叩いて、去る。去るのが早いと、角が軽い。
軽い角は、噂が居座れない。
夕方、湯屋の入口で、昨日の残り火が出た。
「さっき鐘が鳴ったって……」
誰かが言いかけて、
「確定って言うな」
知らない人が返した。
「……確定っぽい、だね」
言い直しが返ってくる。
それだけで、譲り合い無限が起きなかった。起きないなら勝ちだ。
夜。鍋の蓋が軽く鳴った。
湯屋へ行く前の、飯の時間。飯のあとは湯。順番はいつも通り。
レンカが椀を持ち上げかけて、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日は、走らなかった」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、えらい」
「褒めるな。増える」
「……胸の中で褒める」
タケルが言い直して、すぐ善意の顔に戻った。戻るのがタケルだ。暗くならない。
確認係の人が昼の飯で沈んだ顔は、まだ今日の角みたいに柔らかかった。
生活が強い。強いとか言うな。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




