第5話 結び家へ紛れる
霞根町は、音が多い。
多いのに、昨日の山頂みたいに刺さらない。
刺さらない音は、生活の音だ。
桶に水を注ぐ音。
荷車の車輪の音。
誰かの笑い声。
誰かのため息。
店先の呼び込み。
背中を叩く音。
腹の鳴る音。
「……ぐぅ」
ハルのお腹は、今日も正直だった。正直なのに、町の音に紛れると、ちっとも恥ずかしくない。恥ずかしくないのが、少しだけ嬉しい。
ミナギは町の入口で足を止めた。止めた場所が絶妙で、邪魔にならないのに全体が見える。回収担当は、立ち位置が仕事だ。
「まず、結び家」
短い。結論が早い。噂が燃える前に水をかけるタイプの人だ。
スズが後ろから追いついて、肩で息をしていた。
「はぁ……はぁ……。降りるって、ほんとに降りるんだね……」
「降りた。もう山頂じゃない」
カナメが淡々と言う。
「現物も降りたって言い方、まだ気になる……」
「噂に勝つには、現物を出す」
「現物って言い方が……!」
スズが抗議したところで、通りの人がこちらを見た。見られると噂が育つ。噂は目で育つ。育つな。
ミナギが視線で二人を止めた。視線だけで止まるのが怖い。怖いけど助かる。
「騒ぐなら、結び家で」
その一言で、スズが口を押さえた。
騒ぐ場所が指定されると、人は落ち着く。落ち着きすぎない程度に。
シノは荷物の端を持ったまま、町の人の視線を避けるように少しだけ後ろへ下がった。下がるのが癖だ。癖がある人は、生活の中でやっと呼吸ができる。
ハルは、きょろきょろしていた。きょろきょろが忙しい。忙しいのに、泣かない。泣けないほど目に入るものが多い。
ミナギはハルの頭の上に手を置いた。置き方が乱暴じゃない。乱暴じゃないのに、逃がさない。
「ここからは、紛れる」
紛れる、の意味は分からない。
でも、ミナギの声が“怖い方へ行かない”声だったので、ハルは頷いた。頷き方が小さい。小さい頷きは、十分な返事だ。
結び家は、町の中でも少しだけ外れにあった。外れといっても寂しくない。人の気配が絶えない場所だ。孤児院的な共同保護の家。人が集まる場所は、生活が濃い。濃い生活は、泣く暇を減らす。
門の代わりに、木の柵がある。柵の端に、欠けた木の桶が置いてある。
角が欠けている。
欠けているのに、目立つ。
目立つのに、威張らない。
威張らないのに、「ここだよ」と言っている。
スズが小声で言った。
「……あの桶、なんか……かわいい……」
「かわいいは噂になる」
カナメが即座に言う。
「言うな!」
スズが自分で止めた。えらい。学習が早い。
ミナギが柵を軽く叩いた。
「ユリネ。回収」
回収、という言葉が、結び家の門を叩く音としては妙に強い。
でも、ミナギは仕事の言葉で生きている。仕事の言葉は、生活の言葉に変換される必要がある。
扉が開いた。
開いた瞬間に、熱と匂いが出てきた。
湯じゃない。飯の匂いだ。
「おう!」
声が飛んできた。声が、強い。強い声は、生活の柱だ。
声の主は、豪快な女だった。背が高いわけじゃないのに、場が広がる。場が広がる人は、家長だ。
「ミナギか! 山頂の後片付け担当が、今日は何を拾ってきた!」
拾ってきた、という言い方が、受け入れの言い方になっている。
結び家の受け入れは、質問から始まらない。声から始まる。
ユリネが腕を組んで、全員を見た。
見る目が、怖くない。怖くないのに、逃がさない。ミナギと似ている。似ている人が二人いると、現場が回る。
「でっかい声で言っとくぞ!」
ユリネが言う。
「生きてるなら飯! 飯の次に湯!」
その言葉が、結び家の空気を一斉に整えた。整え方が暴力じゃない。暴力じゃないのに、従ってしまう。従うのが気持ちいい。気持ちいい従いは、生活の特権だ。
ハルの腹が、また鳴った。
「よし!」
ユリネが即座に言った。
「生きてる!」
生きてるなら飯。理屈が強い。理屈が強いと人は泣かない。
ミナギが短く説明した。
「山頂で拾った。朝日盛りすぎと音の反響と匂いが良すぎる件。噂が先に降りた。現物も降ろした」
「現物って言うな!」
スズが反射で叫んだ。
ユリネが目だけでスズを見た。
目が「その口は飯のために使え」と言っている。
スズが口を押さえた。
カナメが小さく咳払いをして、真面目な顔で言った。
「噂が燃えてます。町の役所も確認を出した」
「役所?」
ユリネが鼻で笑った。
「役所が燃えたら水を出す。それでいい。ここは結び家だ。燃えたら飯を出す」
燃えたら飯。強い。
ハルは意味が分からない。でも声の勢いで「大丈夫」が伝わる。
ユリネがハルへ屈んだ。屈むのに、豪快さが減らない。豪快な人は屈んでも豪快だ。
「おまえ、名前は」
ハルは少し迷って、でも昨日言えたのを思い出して、言った。
「……はる」
「よし、ハル!」
ユリネは一発で受け取る。
受け取る速さが、結び家の速さだ。速いのに雑じゃない。雑じゃないのに止まらない。止まらない生活は強い。
「ここは結び家だ。紛れろ。分からなくてもいい。分からないなら、手を出せ。手を出したら、勝手に回る」
手を出したら回る。
その言葉が、なんだか胸に落ちる。ハルは自分の手を見る。小さい手。小さいのに、出せる。
その時、奥から子どもたちが飛び出してきた。
「ミナギさんだ!」
声が元気だ。元気な声は、家の余裕だ。
一人目、コト。ハルと同じくらいの背丈。目がきらきらしている。きらきらの質がハルの「ぴか」と似ている。
二人目、レンカ。少し年上。手が早い。手が早い子は生活がうまい。
三人目、タケル。少し年上で、足が落ち着かない。落ち着かない足は、走り手の足だ。走り手は、家の外と中を繋ぐ。
「誰!? 誰拾ったの!? 拾ったって言うな! でも拾ったの!? かわいい!」
レンカが矢継ぎ早に言う。
「落ち着け」
タケルが言う。言いながら自分も落ち着いてない。
コトがハルの前に来て、にへっと笑った。
「いっしょ?」
いっしょ。
短い言葉が、すごく助かる。
ハルは、頷いた。
頷くと、コトが手を差し出した。手を差し出すのが自然だ。自然な手は強い。
ハルも、手を出した。
出せた。
出せたことが、今日のご褒美みたいだった。
ユリネが子どもたちへ声を飛ばす。
「コト! レンカ! タケル! 順番!」
「順番ってなに!」
レンカが反射で返す。
「順番は順番だ!」
ユリネが即答する。即答が強い。
結び家は、細かい説明で回さない。言葉の太さで回す。
タケルが腕まくりをして言った。
「俺、水!」
走り手は水を担当する。走り手は運ぶのが得意だ。
レンカが言った。
「じゃあ私、皿!」
手が早い子は皿を持つ。皿は割れる。割れると大人が困る。困ると空気が重くなる。重くなると泣く。泣くと神界が盛る。盛るな。
コトが言った。
「じゃあ、ハル、いっしょに、ちぎる!」
ちぎる。
ちぎるって何。
でも、コトの手がパンの方を指している。
卓の上に、平焼きパンが並んでいた。手でちぎれるパン。結び家の朝食の定番。
パンの匂いが、山頂の匂いと違う。山頂の匂いは「よすぎる匂い」だった。結び家の匂いは「回る匂い」だ。
ハルの腹が、もう一度鳴った。
ユリネが笑う。
「いいねぇ! 泣く前に鳴く腹は、強い!」
「鳴くって言うな!」
レンカがツッコミを入れた。
ユリネが豪快に笑った。
「笑えるなら勝ちだ! 飯!」
その声で、結び家の朝が始まる。
噂は外で燃えているかもしれない。役所が確認を出しているかもしれない。
でもここは、まず飯だ。飯の次に湯だ。
ハルは、コトに手を引かれて、パンの前へ座った。
コトがパンをちぎる。
ちぎる音が、生活の音だ。
生活の音が、ちゃんとここにある。
ハルも、パンに手を伸ばした。
紛れる、ってこういうことかもしれない。
外の噂がどれだけ速くても、結び家の順番はもっと強い。




