第48話 直し屋の札が足りない
直し屋の朝は、音が先に起きる。
こり、こり。
すっ。
きゅっ。
とん。
音が増えると、人も増える。人が増えると、札が足りなくなる。
「……足りない」
レンカが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で、足りない」
「胸の中でも増やすな」
路地の奥、作業台の前。
数字札はいつもの四枚。1、2、3、4。
札は札で揺れているのに、列の背中が揺れている。
揺れている背中の正体は、五人目だ。
五人目がいる。
五人目がいるのに札が四枚。
四枚は悪じゃない。悪じゃないが、五人目の顔が「じゃあどうすんの」になっている。
その顔は、次の単語を呼ぶ。
預け。
「じゃあ、置いていっていいですか」
五人目が言った。
言い方が柔らかいのに、意味は預けだ。
預けは危ない。預けは責任が生える。責任が生えると、直し屋が止まる。止まると、列が硬くなる。硬い列は折れる。
「置くな」
ユリネが短く言った。
短いから刺さらない。刺さらないのに止まる。
五人目の手が止まった。止まれるなら勝ち。
「でも札が……」
五人目が言いかけた。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で札が」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルが真顔で札を見た。
「四つまで、ってことか」
「そう」
ユリネが言い切る。
「じゃあ五人目は?」
「明日だ」
ユリネは即答した。
明日があると言えると、今が軽い。
軽いと、預けない。
だが、明日が刺さる日もある。
五人目は抱えているものが大きい。
大きい布包み。中身は割れた器らしい。
抱えている腕が少し震えている。震えるのは重いから。重いのは本当だ。
「……明日まで抱えて帰るの、つらいです」
つらいは刺さる。
刺さると善意が動く。善意が動くと増える。増えるとまた札が足りない。
ここで増やすな。
レンカが一歩出かけた。
泣かせない係の足だ。
でも最近のレンカは止まれる。止まれ。
「……」
レンカは息を吸って、止めた。えらい。
コトがすっと前へ出た。
声を増やさない笑顔で、言い換える。
「預けないで軽くする方法にしましょう。抱え方を変える」
「抱え方?」
「足元に置く。でも手は離さない」
離さない。
この一語が今日の鍵だ。
ユリネが指を二本立てた。
「一、足元は一人一袋」
「一袋」
タケルが真顔で復唱する。復唱は作法になる。
「二、置いたら紐を握る。握ったまま待つ」
「握る」
レンカが復唱して口を押さえた。復唱して止まれるのは偉い。
五人目は、壁際にしゃがんで布包みを足元に置いた。
置いた。
でも紐は握ったまま。
握ったままなら預けじゃない。
預けじゃないなら、直し屋が止まらない。
……ところが、これで終わらない。
終わらないのが朝の直し屋だ。
六人目が来た。
七人目も来た。
みんな、札を見て、目を泳がせて、同じ言葉を飲み込む。
飲み込めない人が、言ってしまう。
「札、増やせばよくない?」
増やす。
危ない単語。
増やすと、札が紙になる。紙になると、貼りたがる。貼りたがると掲示になる。掲示になると欄みたいになる。
やめろ、別世界を呼ぶな。
「増やすな」
ユリネが即答した。
「えっ、でも五とか六とか書けば」
言った人が、懐から木炭を出しかける。
木炭は危ない。線が増える。枠が増える。番号が増える。増えると外が出る。外が出ると揉める。
「書くな」
ユリネが短く言った。
短いから、木炭の手が止まる。止まれるなら勝ち。
タケルが真顔で補助する。
「番号を足すと、番号の外が出る。外が出ると“今来た人”が泣く」
「泣く?」
「泣く。順番の外になるから」
真顔の列挙は怖い。怖いけど、想像できる怖さは止まる。
止まったところで、別の提案が飛ぶ。
「じゃあ鐘、鳴らして呼べば?」
鐘。
効きすぎるやつ。
鳴らしたら全員が来る。来たら詰まる。詰まったら預けが増える。
やめろ、詰まりを呼ぶな。
「鳴らすな」
ユリネが即答。
「鳴らしてない! 提案!」
「提案が増えると、決め事が増える」
「決め事が増えるのはいいじゃん」
「増えると守れない」
守れない決め事ほど、現場を折る。
折ると泣く。泣かせない係が増える。増やすな(二回目)。
直し屋の人が、作業台の向こうで小さく息を吐いた。
息を吐いて、でも手は止めない。
止めないのに、札をちらっと見る。
札の四枚が、今日の限界だと言っている。
ユリネは、作業台の前に“線”を作った。
棒で、さらさら、と。
説明はしない。線だけ。
線は二本。
札の線。
待つ線。
「札の線より前に出るな」
ユリネが短く言った。
「待つ線より前に置くな」
続けて言って、これ以上は増やさない。
コトがすぐ拾う。
「札を取れた人だけ、前。取れない人は待つ線。待つ線は“順番の外”じゃない。順番の前」
前。
外じゃない。
この言い換えが、五人目の肩を少し落とした。落ちると、預けないで待てる。
ミナギが不満そうに言う。
「でも待つ線って、結局並ぶじゃん」
「並ぶな」
ユリネが刺す。
「えええ」
「並ぶと札に見える。札に見えると増やしたくなる」
「……胸の中で並ぶ」
「胸の中でも言うな」
ミナギが口を尖らせたまま、ちゃんと線の後ろへ下がった。下がれるなら勝ち。
線ができると、手が落ち着く。
落ち着くと、直す音が戻る。
こり、こり。
すっ。
とん。
直し屋の人は、札1の人から順に、壊れ物を受け取って直す。
受け取る前に、布の上を指で二回叩く。ここ、の合図。
返す場所は木皿。直す前と直った後。
説明はないのに、手は迷わない。迷わない手は事故を増やさない。
……増やさないはずだった。
札2の人が焦った。
「すみません、これ、すぐ終わるなら先に……」
先に、が出る。
先に、は列を折る。
「先にするな」
ユリネが短く言った。
短いから刺さらない。刺さらないのに、先にの手が止まる。
タケルが真顔で復唱する。
「渡す順。受け取る順」
「渡す順、受け取る順」
レンカが口を押さえながら復唱した。復唱があると場が戻る。
場が戻った瞬間、五人目の布包みが、足元で少しずれた。
ずれると、紐が緩む。緩むと、手が離れそうになる。
離れると預けになる。預けになると、また言葉が増える。増えると、直し屋が止まる。
止めろ。
シノが、そこだけ動いた。
声は増やさない。
奪わない角度で、紐の端をそっと押さえる。
すっ。
止まった。
五人目が、息を吐いた。
「……ありがとうございます」
礼が増えそうになる。礼は増える入口だ。
「礼は小さく」
ユリネが言った。
「……ありがとう」
五人目が言って終わった。終わると増えない。
直し屋の人が、目だけでシノを見る。
ありがとうの目。
言葉じゃないありがとうは増えない。助かる。
そして、直し屋の人は小さく札を一枚、返す皿へ置いた。
札1が戻る。
戻る音が、ぱちん、と小さい。
その小さい音で、待つ線の先頭が一歩前へ出る。
一歩だけ。
一歩だけなら詰まらない。
待つ線は、札を欲しがらない。
札を欲しがると増やしたくなる。
待つ線は、ただ待つ。
待つだけで、今日は回る。
昼前には、四枚の札が何度も往復して、待つ線の人が二人ほど直してもらえた。
直せた人は「明日じゃなくて今日だった」と小さく笑って、でも声は増やさない。
増やさない笑いは、現場を軽くする。
結局、最後の一人は「明日」にした。
明日にした人は、布包みを足元に置いたままじゃなく、ちゃんと抱えて帰った。
抱えて帰るのはつらい。
でも預けないのが、今日の勝ちだ。
勝ちとか言うな。
帰り道、レンカがぽつりと言った。
「札が足りなくても、回ったね」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、回った」
「胸の中なら勝手にしろ」
タケルが真顔で言った。
「足りないって言わないのが、いちばん効いた」
「言うな」
「……噛む」
タケルが言い直して、コトが笑った。
家に戻ると、鍋が鳴っていた。
湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は生活の勝利だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
レンカが小さく宣言した。
「今日、預けを増やさなかった!」
「増やしかけた」
タケルが真顔で言う。
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で未遂」
「胸の中でも言うな」
笑いが起きる。
笑いが起きると、直し屋の密度がほどける。
ほどけたら、湯が待っている。湯は逃げない。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




