第47話 量りが怖くない
朝市の音は、いつも通りだった。
袋が擦れる音。小銭が細く鳴る音。遠くで笑い声。
そこに、今日も硬いのに小さい音が混ざる。
カチン。
秤屋の台から、一定の間隔で鳴っている。
一定は安心だ。安心は人を寄せる。寄ると列が伸びる。
伸びるけど、今日は“嫌な伸び方”じゃない。顔が固くない。足が怒ってない。
「……列、静か」
ハルが小さく言った。
「言うな」
ユリネが即座に刺す。
「……胸の中で静か」
「胸の中なら勝手にしろ」
結び家が列の端に並んだ時、前のほうで、違う種類の静かさが生まれた。
静かすぎて、逆に重い静かさ。
若い女の人が、袋を抱えたまま、台の前で固まっていた。
袋は粉っぽい。抱え方が怖がっている。
怖がっている人は、言葉より先に手が動く。動くと混ざる。混ざると、台が揺れる。
「……怖い顔」
レンカが言いかけて、口を押さえた。えらい。
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、怖い顔」
「胸の中でも、増やすな」
秤屋の人が、袋の口を指でとん、と叩いた。
結べ、の合図だ。言葉じゃない。増えない。助かる。
女の人は慌てて袋の紐を結び直す。
結ぶ手が震える。震えると紐がほどける。ほどけると、また結ぶ。結ぶと、後ろが詰まる。詰まると、周りが見てしまう。
見てしまうと、善意が出る。善意は危ない。
「手伝いましょうか?」
後ろの誰かが言いかけた。
言いかけの時点で、女の人の肩が上がる。
肩が上がると、手が余計に動く。
「声は一回」
ユリネが短く言った。
言ったのは誰にでもない。場に向けた釘だ。
釘が刺さると、言いかけた声が飲み込まれる。飲み込めるなら勝ち。
女の人は結び終えて、袋を差し出した。
差し出し方が、遠い。遠い差し出しは怖い差し出しだ。奪われる気がする。
秤屋の人は、奪わない。
袋を引っ張らない。
女の人の指が離れたのを見てから、そっと受け取る。
受け取ったら、台の端の布をさっと払って、袋を皿に置き直す。
すっ。
カチン。
その音に、女の人の肩が少し下がった。
下がったのに、目がまだ固い。
「……合ってます?」
女の人が小さく言った。
合ってます、は怖い。
怖い質問は増える入口だ。増えると、説明が長くなる。長い説明は、周りの口を呼ぶ。
秤屋の人は言葉を増やさない。
分銅を一つ置いて、棒が落ち着くのを待つ。
落ち着いたところで、指を一本だけ立てた。
ここ。
視線の位置だけを教える。
“見れば分かる場所”を渡す。
それは説明じゃない。道だ。
女の人はその位置を見る。
棒が真ん中。
揺れてない。
揺れてないと、胸が息をする。
「……真ん中」
女の人が言った。
言い方が少しだけ柔らかくなる。柔らかくなると、次が混ざりにくい。
ところが、柔らかくなった瞬間に、別の恐さが出る。
女の人が、分銅へ手を伸ばしてしまったのだ。
触れば確かめられると思ったのだろう。
確かめたいのは分かる。
でも触ると、台が揺れる。揺れると、また怖くなる。怖くなると、また触る。最悪の循環。
「触るな」
ユリネが短く言った。
短いから刺さらない。刺さらないのに、手が止まる。
女の人がはっとして、手を引っ込める。
「ごめんなさい……」
「終わり」
ユリネが短く返した。
終わりがあると、謝りが増えない。増えないと場が軽い。
軽くなりかけたところで、後ろの列から、別の声が出た。
今度は、善意の声だ。善意は油断すると増える。
「大丈夫ですよ、ほら、こうやって……」
善意の人が身を乗り出した。
身を乗り出すと、肩が当たる。肩が当たると台が揺れる。
揺れると、さっきの“真ん中”が逃げる。逃げると、怖いが戻る。
カチン、が来ない。
来ないと、列の背中がざわっとする。
ざわっとは紙を呼ぶ。紙は増える。増えると、秤屋が掲示板になる。嫌だ。
「寄るな」
タケルが真顔で言った。
言い方が命令じゃない。線だ。
線が立つと、足が一歩下がる。下がれるなら勝ち。
秤屋の人が、袋を皿から一度降ろした。
降ろすだけで、台が息をする。
息をした台の上で、布をもう一度払う。すっ。
それから、袋を“ひとつだけ”置き直す。
女の人の袋は、実は小袋が二つ重ねだった。
重ねると早い気がする。早い気がするのが危ない。
早い気がすると、揺れる。揺れると、怖くなる。
「ひとつずつ」
秤屋の人が小さく言った。
小さいのに届く声だ。届く小ささは強い。
「ひとつずつ」
タケルが真顔で復唱した。復唱は作法になる。
列の背中が、ふっと落ちる。落ちると、息が戻る。
女の人が小袋を一つずつ分ける。
分ける手が、さっきより落ち着いている。
落ち着いている手は、怖くない。
秤屋の人が、ひとつ目の小袋を置く。
分銅を置く。
棒が落ち着く。
カチン。
鳴った。
鳴ると、列の肩がまた一段落ちる。
落ちると、声が増えない。
女の人の顔が、ようやく“確かめたい”から“見れば分かる”に変わった。
変わると、目が落ち着く。
落ち着くと、次の言葉が短くなる。
「……これなら、分かる」
女の人が言った。
分かる、は強い。
強いけど、強いと言わない。言うと増える。ここは胸の中で勝つ。
ところが、胸の中の勝ちは、外の勝ちを呼ぶ。
外の勝ちを見た人が、次を持ってくるからだ。
次が来ると、列がまた伸びる。伸びる列は、また怖くなる人を運んでくる。
列の横から、年配の男の人が言った。
「量りってのはな、揉めるんだよ」
揉める、は危ない。
危ないけど、経験がある声は刺さりにくい。
「昔はな、手を出して分銅を動かして、余計に揉めて」
男の人は笑っている。笑いが刺さらない笑いだ。
「だからな、手は出すな。見るだけ」
見るだけ。
その言葉が、列の背中にもう一枚だけ薄く貼られる。紙じゃない貼り方で。
レンカが小さく頷いて、口を押さえた。
言いたい。褒めたい。「えらい」って言いたい。
でも褒めると、また誰かが手を出す。
だから胸の中でやる。
ミナギは我慢できずに、ぼそっと言った。
「でもカチン、気持ちいいよな」
「気持ちよくするな」
ユリネが刺す。
「……助かる」
ミナギが言い直して、なぜか自分で頷いた。言い直せるなら勝ち。
秤屋の人は、量った袋を女の人へ返した。
返し方が奪わない。
女の人が受け取って、深く息を吐く。
「……怖くなかった」
小さい声。
小さい勝ちは、増えない。増えないから長持ちする。
女の人は一歩引いて、列の外へ出た。
出方が綺麗だ。綺麗な出方は、列を守る。
その後ろで、善意の人が小さく言った。
「さっき、手を出してごめん」
「終わり」
ユリネが短く返した。
終わりがあると、謝りが増えない。増えないと、次が進む。
列は、進んだ。
進み方が、さっきより静かだ。
静かだと、カチンがよく聞こえる。
よく聞こえると、みんなが“触らない”を守れる。
結び家の番になった。
今日は粉を量る。
粉は軽い。軽いから袋が揺れる。揺れると散る。散ると拾う。拾うと声が増える。
だから先に結ぶ。二回結ぶ。増やすじゃない。事故を減らすだけ。
秤屋の人が袋の口をとん、と叩く。
タケルが真顔で結び目を確認する。
レンカが結び直したい顔をして、でも止まる。
止まれるなら勝ち。
袋が皿へ。
分銅が置かれる。
棒が落ち着く。
カチン。
レンカの肩がほどけた。
「……胸の中で、安心」
「胸の中なら勝手にしろ」
ユリネがいつもの調子で返して、コトが笑った。
笑いは増えない笑いだ。
買い物を終えて帰る途中、箱と板の角を通る。
今日は木片が一枚だけ。
短い字。
箱は閉じている。
欠けの石がいつもの線。
角が軽い日だ。軽い日は、朝市の後ろが静かだ。
結び家に戻ると、粉の袋が台所に並ぶ。
量ってあると、分け方が楽になる。
楽、は危ないから言い換える。
「……助かる」
コトが言って、ユリネが頷く。頷きは増えない。
レンカが粉を見て、目を輝かせかけて、止めた。
止めて、言い直す。
「平焼きパン、焼ける」
「焼けるなら焼け」
ユリネが短く言う。
焼けるのは生活だ。生活は増えていい。
鍋も鳴る。湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は、今日が回った証拠だ。
ミナギが椀を取ろうとして、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日の量り、怖くなかったな」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、怖くない」
「胸の中なら勝手にしろ」
ハルが小さく頷いた。
「……音が、道」
シノがぼそり。
「……触らないのも、道」
レンカが小さく宣言した。
「今日、手を出さなかった!」
「出しかけた」
タケルが真顔で言う。
「未遂って言うな」
ユリネが刺す。
「……胸の中で、未遂」
「胸の中でも言うな」
笑いが起きる。
笑いが起きると、朝市の緊張がほどける。
ほどけたら、湯が待っている。湯は逃げない。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




