第45話【欄】(第四波)
織帳院の朝は、だいたい「増えた」から始まる。
今日は、欄が増えた。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
「……いや……いやぁ……」
悲劇の泣きじゃない。業務の泣きだ。
机の上で、紙束の角が、揃いそうで揃わない顔をしている。
チヨは、角を揃える儀式を始めた。
束の側面を、机に、とん、とん、とん。
よし。揃った。いける。今日は勝てる。
……その瞬間。
欄が増えた。
増え方が静かすぎて、逆に腹が立つ。
縦が一本、横が一本、しれっと。
増えた分だけ、揃ったはずの角が、やさしくズレる。
「……角が……角がぁ……!」
チヨは顔を上げて叫びかけて、すぐ口を押さえた。
声を増やすと、周りが動く。周りが動くと、欄も動く。
欄は動くのが好きだ。最悪。
背後の壁は、今日も壁だった。
張り紙【欄】が、増殖している。
貼り方だけが、無駄に綺麗で、無駄に癖がある。
昨日の当番主任は「右端ぴし派」。
一昨日は「中央揃え派」。
先週は「上を二ミリ空け派」。
そして今朝は、なぜか「下に余白を残す派」。
「……欄より先に……貼り癖がぁ……」
チヨの泣きが、A(角)からB(貼り癖)へ移った。
二系統泣きは、脳が疲れる。疲れると、また欄が増える。やめろ。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。現場の酸素を吸って欄を吐くタイプの元気。
「……おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた結果がこれですぅ……!」
チヨが机に突っ伏し直す。二回目の崩落。
二回目は崩れが上手い。上手くならなくていい。
アマネは壁を見て、きらきら言った。
「わぁ……欄、いっぱい!」
「いっぱいじゃない。止まってない」
廊下から乾いた声。マドカだ。入る前に刺すのが上手い。
アマネは、机の束を一枚つまんだ。
つまんだ指先で、欄の増え方を確かめるみたいに、目が泳ぐ。
「ねえ、ここ! 足りない!」
足りない、が出た。
出た瞬間に、チヨの肩が跳ねた。トラウマ単語。
「足りないって言うな」
ナギが入ってきた。眉が半分疲れている。残り半分は諦め。
「でも足りないんだよ? ほら、書くとこ!」
「書くとこが増えるから泣いてるんだ」
ナギの淡々は強い。強いのに救わない。今日は救ってほしい。
アマネは両手を合わせた。
やめろ。その手は世界を盛る手だ。盛ると欄が増える。
「じゃあさ! 足りないなら、足す!」
言い切った。
堂々と。
賢くない笑顔で。
「足すな」
「足すな」
「足すなぁ……!」
マドカ(入室)・ナギ(中)・チヨ(机)が三重で言った。
三重の即答は強い。なのにアマネは折れない。折れないから主犯だ。
アマネは定規を出した。
定規が出ると、欄は笑う。音がしない笑いで。
「線、引けば整うでしょ?」
「整えるな」
マドカが即答する。
「整えたら角も揃う!」
「角は揃わない」
チヨが泣き声で言って、また口を押さえた。
アマネが定規を当てる。
しゃっ。
その一本の線の隣に、欄がもう一本生えた。
さらにその隣にも生えた。
足りないが、足りないを呼んで、足りないが増殖する。
「見て! 欄、増えた!」
「喜ぶな」
ナギが刺す。
「増えたら書けるじゃん!」
「書けるから泣くんだ!」
チヨの泣きが、AとBを行ったり来たりして忙しい。
そこへ、にこにこが来た。
「おはようございます」
院代。にこちゃん先生。
にこにこ怖い。
壁と机と定規とチヨの顔を一度に見て、にこにこで“一言”だけ。
「触らないでください」
短い。
短いのに、部屋の空気が一段だけ整う。
整うと、欄の増え方が一拍遅くなる。気がするだけでも助かる。
そして、朱肉の匂いが入ってきた。
ゲンだ。
「まだ終わってない顔だな」
「終わってません……!」
チヨが即答する。今日は泣きより怒りが勝ってる。怒れるなら生きてる。
ゲンは束を一枚だけ見た。
見た瞬間に欄が増えようとしたが、ゲンの眉は動かない。眉が動かないのが一番怖い。
「角は揃わない日だ」
雑。
雑なのに、現場に効く雑。
ゲンは朱肉を開けて、判を構えた。
ゲン印【幸】。
どん。
赤が綺麗に乗った。
欄が増えても、赤は増えない。
増えないものが一つあるだけで、人は呼吸できる。
ゲンが雑に言い放つ。
「終いが良ければそれでよし!」
雑だ。
雑なのに、チヨの肩がふっと落ちる。
アマネが口を開けかけて、マドカに睨まれて閉じた。閉じられるなら勝ち。
チヨが机から顔を上げて、涙目のまま言った。
「……今日も、生きましたぁ……」
にこちゃん先生がにこにこしたまま頷いて、何も増やさずに去っていった。
欄は止まってない。
でも今日は終結判定が出た。
それで回すのが、職員室の生活だ。




