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第44話 湯屋が“早い人”で渋滞

 湯屋は、だいたい「遅いほうが勝つ」。

 遅いほうが勝つ、って言うと変だけど、湯屋は急ぐと負ける場所だ。急ぐと滑る。滑ると慌てる。慌てると周りを見る。見ると気まずくなる。気まずいと譲る。譲ると無限が始まる。

 無限は、だいたい入口で起きる。


 夕方、結び家の台所で、ミナギが鍋の湯気を見ながら言った。

「今日、湯屋、早い人が多いってさ」

「早い人って言うな」

 ユリネが即座に刺す。

「えっ、でも早い人は早いだろ」

「早いを言うと、早いが増える」

「増えるのはいいじゃん」

「増えると詰まる」

「詰まるのも湯屋っぽいじゃん」

「っぽいで肯定するな」


 レンカが箸を止めて、目を丸くした。

「早い人が増えると、何が起きるの?」

「早く入ろうとして、遅くなる」

 ユリネの言い切りが、妙に現実だった。


 タケルが真顔で頷いた。

「早い人が早い顔で集まると、入口が詰まる」

「入口が詰まると、湯気が逃げない」

 コトが笑って言う。

「逃げない湯気はいい」

「いいって言うな」

「……助かる」

 コトが言い直す。言い直しは増えない。


 ハルが小さく言った。

「……今日、風が冷たい」

 冷たい風は、湯屋を呼ぶ。湯屋を呼ぶと、人も呼ぶ。

 呼ぶと、「早く行けば空いてる」が走る。走ると、全員が早く行く。全員が早く行くと、空かない。

 最悪の算数だ。


 結び家は、いつもの時間より少しだけ早く湯屋へ向かった。

 少しだけ、が危ないのに、今日は様子を見るための少しだけだ。

 道中、すでに“早い顔”が何人も同じ方向へ歩いていた。


「……増えてる」

 レンカが小さく言いかけて、口を押さえた。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、増えてる」

「胸の中なら勝手にしろ」


 湯屋の木戸が見えた。

 きい、と鳴る前に、人の気配が鳴っている。

 入口の前に、すでに列があった。


「早い」

 ミナギが言いかけて、

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、早い」

「胸の中でも言うな」

「えええ」


 列の先頭は、腕を組んだおじさんだった。顔が「勝った」だ。

 勝った顔の隣に、顔が「負けたくない」おばさん。

 その後ろに、顔が「急ぐ」若い人。

 さらにその後ろに、顔が「子どもが冷える」親。

 顔が混ざると、列が揺れる。列が揺れると、入口で詰まる。


 入口の戸が開いた。

 中から、湯気がふわっと出る。

 湯気が出ると、全員の肩が下がる。

 肩が下がると、前へ出る。前へ出ると、詰まる。


「どうぞ」

「いえいえ」

「いやいや」


 出た。譲り合い無限。

 無限は優しい。優しいのに、湯屋では最悪だ。


 レンカが息を吸って、

「……出るときだけ」

 小さく言った。

 言い方が震えてない。最近のレンカは、止める言葉を持てる。


 列の先頭のおじさんが、ふっと笑った。

「そうだな。出るときだけだ」

 無限が、すっと消えた。消えると、入口が息をする。


 ……息をした瞬間に、次の混線が来る。

 “早い人”は、息をした入口に飛び込みたくなる。


「先、いい?」

 若い人が一歩出た。

「え、順番……」

 親が困る顔をする。困る顔は刺さる。刺さると声が増える。声が増えると、子どもが不安になる。不安になると、泣く。今日は泣かせない係が仕事をする。


「声は一回」

 ユリネが短く言った。

 短いと、喧嘩にならない。喧嘩にならないと、湯が湯のままだ。


 タケルが真顔で、入口の前に手のひらを向けた。

「動くのは一人ずつ」

 一人ずつ。

 それだけで、足が止まる。止まれるなら勝ちだ。


 だが、列の中の“早い顔”が、別の方向へ漏れ始めた。

 漏れる方向は、脱衣所だ。

 脱衣所は狭い。狭いと詰まる。詰まると焦る。焦ると服が落ちる。落ちた服を拾うと、また詰まる。

 今日の湯屋は、入口だけじゃなく中も詰まる。


 結び家が脱衣所へ入ると、すでに床が少し湿っていた。

 湿ってると滑る。滑ると心が早くなる。心が早くなると、手が雑になる。雑になると、桶が転がる。転がると、また湿る。

 増える。悪い循環で増える。


「……桶、出てる」

 ハルが小さく言った。

 通り道の真ん中に桶が一つ。

 誰の桶か分からない桶は、誰も動かせない。動かせないと、みんな避ける。避けると、狭さが増す。


「動かす!」

 ミナギが言いかけて、

「動かすな」

 ユリネが刺す。

「えっ、でも通れないじゃん」

「動かすと、持ち主が迷子になる」

「迷子になるのは桶だろ」

「桶も人も迷う」


 コトが、桶の縁を指先でちょん、と叩いた。

 音を出すのは一回。

 そして、声も一回。


「桶、どなたの?」


 一回。

 一回だけだと、全員は振り向かない。

 振り向かないのが、ここでは助かる。


 端のほうで、手がそっと上がった。

「あ、それ……私」

 持ち主が一歩だけ出て、桶を自分で引いた。

 自分で引くと終わる。終わると、道が戻る。


 ……戻った道へ、今度は“早い人”が押し寄せる。

 押し寄せるというより、同じタイミングで動く。

 同じタイミングで動くと、詰まる。詰まると、湯気が濃くなる。濃くなると、見えなくなる。見えなくなると、桶がまた迷子になる。

 湯屋は、迷子を産む。


「早く入りたい人が多いんだね」

 コトが言いかけて、

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、早く入りたい人」

「胸の中なら勝手にしろ」


 湯の縁に着くと、湯気が顔に触れた。

 触れると落ち着く。落ち着くと、ようやく「早い顔」が少し抜ける。

 抜けたところへ、抜けない人がいる。


 湯の入口で、若い人が小走りで来た。

 小走りは危ない。

 小走りは、湯屋で増える入口だ。


「すみません、先に入っていいですか。すぐ出ます」

 すぐ出ます、は危ない。

 すぐ出ますが増えると、全員がすぐ出ると言い出す。言い出すと、全員が急ぐ。急ぐと、全員が遅くなる。


「先にするな」

 ユリネが短く言った。

「えっ、でも……」

「出るのが早いなら、出るときだけ早くしろ」

 言い方が雑なのに、妙に正しい。湯屋は雑が効く時がある。


 若い人は口を開けかけて、閉じた。

 閉じられるなら勝ち。

 代わりに、湯の縁に腰掛けて、深呼吸をした。

 深呼吸ができると、急ぎが減る。減ると、湯が湯のままだ。


 その頃、脱衣所の外で小さな声が混ざった。

「早い人が多いって聞いたから……」

「だから早く来たのに……」

「結局待ってる……」


 待ってるのに、怒ってない。

 怒ってないけど、ざわっとしている。ざわっとは、紙を呼ぶ。紙を呼ぶと、掲示になる。掲示になると、増える。

 増やしたくない。


 ユリネは湯の縁に指を置いた。

 熱さを確かめる。

 確かめたら、短く言う。


「早い顔を捨てろ」


 捨てろ、は強い。

 強いけど、湯屋では強く言い切ると逆に楽になる。

 楽になると、早い顔が薄くなる。


 ここで、ふっと視界が切り替わる。

 地上の湯気じゃない、紙の匂いの方へ。


---


 申請受付審査室。

 机の上に、紙が積まれている。

 チヨは、今日だけ「早い」顔をしていた。


「今日は早く終わらせますぅ……!」

 言った瞬間、罫線が増えた。

 横が一本。縦が一本。

 欄が増えたのに、チヨの指だけは速い。速いのに、紙が遅い。


「……増えるのに早い……っ」

 チヨが机に額を当てた。

 その横で、アマネが元気に言う。


「早いなら欄を足す!」

「足すなぁ……!」


---


 湯屋に戻る。

 早い人が増えると詰まる。

 詰まると、みんなの顔が紙みたいになる。

 紙みたいな顔を、湯気で戻す。戻すのが湯屋だ。


 結び家が湯から上がるころ、脱衣所の入口で小さな渋滞が起きていた。

 渋滞の正体は、“早く出たい人”の集合だ。

 集合すると、同時に動く。同時に動くと、ぶつかる。ぶつかると、湯気が濡れ布に落ちる。濡れ布が床に触れる。床が湿る。

 また滑る。最悪の循環が戻ってくる。


「出るの、順番だよね……?」

 親が小さく言った。

 言い方が、確認。確認は助かる。確認は喧嘩を呼ばない。


「出るときだけ」

 レンカが、さっきの合言葉をもう一度出した。

 今日は二回目でもいい。二回目は増えない。戻すための二回目だ。


 誰かが笑った。

「出るときだけ、って便利だね」

「便利って言うな」

 ユリネが刺す。

「……助かる」

 笑った人が言い直して、さらに笑った。

 笑いが刺さらない笑いだ。刺さらない笑いは、渋滞をほどく。


 タケルが真顔で、脱衣所の前に立った。

 立ち方が「道」だ。

「通る道、一本。止まるなら壁際。拭くのは本人だけ」

 拭くのは本人だけ。

 それだけで、タオルの手が勝手に出なくなる。

 手が出ないと、濡れが増えない。濡れが増えないと、滑らない。滑らないと、怒らない。


 ミナギが、渋滞の真ん中で言いかけた。

「俺、早いから先……」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で早い」

「胸の中でも言うな」

「えええ」

 ミナギは口を尖らせたまま、ちゃんと壁際に寄った。寄れるなら勝ち。

 寄ると道が太る。道が太ると、人が出られる。

 出られると、渋滞がほどける。


 脱衣所の床の真ん中に、小さな水たまりができていた。

 水たまりは、誰かが急いだ証拠だ。

 証拠を責めると増える。増えると次も急ぐ。だから、責めずに拭く。


 レンカが雑巾を取りに行きそうになって、止まった。

 止まれるのが偉い。

 タケルが真顔で言う。

「拭くのは本人だけ、だったな」

「……本人、分からない」

 レンカが小さく言った。

 分からないときは、増やさないで直す。


 コトが、雑巾を一枚だけ持ってきた。

 一枚だけ。増やさない。

「ここ、踏まない」

 言いながら、雑巾を水たまりの上に置いた。置くだけ。拭かない。

 置くと、踏まない。踏まないと滑らない。滑らないと、急がない。

 急がないと、本人が気づいて拭く。


 案の定、さっき小走りしていた若い人が「あっ」と言って、自分で雑巾を取り、拭いた。

「すみません……」

「終わり」

 ユリネが短く言う。

 終わりがあると、謝りが増えない。増えないと、空気が軽い。


 湯屋を出ると、夜風が冷たくて気持ちいい。

 冷たいのに、肩が軽い。

 軽い肩は走らない。走らないと、家までが早い。

 早いのに、急がない。これが一番いい早さ。


 帰り道、ミナギがぽつりと言った。

「早い人、集まると遅いんだな」

「言っただろ」

 ユリネが返す。

「言われたときは分かんなかった」

「分かんなくていい。生活で分かれ」

 雑なのに優しい。湯屋帰りは、雑が効く。


 家に戻ると、鍋の蓋が軽く鳴った。

 湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は、生活の勝利だ。


 レンカが椀を持ち上げかけて、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「今日の湯屋、口が増えかけたな」

「増えかけた」

 コトが頷く。

「でも戻した」

 ハルが小さく言う。

「……湯気、戻した」

 シノがぼそり。湯屋の匂いが、ちゃんと家の匂いに変わっている。


 ミナギが箸を持ちかけて、

「順番」

 ユリネが刺す。

「……はい」


 早い人が増えても、遅くならない方法はある。

 声を増やさない。

 動く順を決める。

 出るときだけ、を守る。

 それだけで、湯が湯のままだ。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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