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第40話 地上リセット

 朝の角は、静かだ。静かなのに、動いている。

 鐘楼の影が石畳に落ちて、その影の端っこで、箱がいつも通りの顔をしていた。板も、釘も、欠けの石も。誰も説明しないのに、もう「ここ」がある。


 木片が一枚、釘に掛かっている。

 かたん、と鳴ったのは昨日だろう。今朝は鳴ってないのに、木片はちゃんと仕事をしている。


 拾いました。小さな鈴。


 字は太くない。けど短い。短いから、見落とされない。

 見落とされないから、声を出さなくていい。声を出さないと、角が詰まらない。角が詰まらないと、箱が箱のままだ。


 通りを歩いてきた女の人が、板の前で足を止めた。止め方が軽い。軽い止まりは増えない。

 女の人は木片を一度見て、箱を一度見て、欠けの石を一度見て、それから自分の耳元を触った。


「……あ」


 声は小さい。小さい声は、勝手に広がらない。

 女の人は木片の下を覗いて、箱のふたを開けた。開け方がそっとだ。そっと開けると、誰も覗き込まない。


 中から、鈴が一つ。

 女の人は鈴を取り、木片を外して折り、懐に入れた。剥がしたら終わり。終わりが先にあると増えない。

 板は板のままで、釘が一つ空く。空くと板が息をする。息をすると、次が置ける。


 その横で、男の人が紙を手にしていた。紙の角がぴんとしている。ぴんは危ない。貼りたがる顔になる。


「これ、貼っていい?」

 紙の上に、太い字で「探しています」。

 探していますは、助けたい顔を呼ぶ。助けたい顔が集まると、角が死ぬ。


 男の人が貼る前に、別の子が横から来た。走り手の子だ。足が早いのに止まれる子。止まれる速さは、ほんとに強い。


 子は板を一瞬見て、紙を一瞬見て、男の人の手を見た。

 見たあとで、声を増やさない顔で言う。


「声、一回で回す?」

「……一回」

 男の人が言い直す。言い直せるなら勝ち。


 走り手の子が、通りに向けて一回だけ声を出した。

「探してる人、板、見て!」


 それだけ。

 それだけで、角が止まりきらない。止まりきらないのが、いちばん助かる。

 少し先の露店から、店の人が顔を出して、指で耳の横を示した。

 耳の横に、同じ紐がぶら下がっている。探していたのはそれだ。


「あー! これ、落としかけてたやつ!」

 店の人は笑って、男の人に親指を立てた。親指は声じゃない。増えない。

 男の人は紙を折って懐に入れた。貼らないで終わった。終わったなら勝ち。


 角は今日も、説明ゼロで回っている。

 見て、動いて、終わる。

 終わるから、次が混ざらない。


 結び家も、その角を一度だけ通って、朝市へ向かった。

 レンカは板を見て、口をむずむずさせたけど、手で自分の口を押さえた。止まれるのがえらい。


「……今日は、貼らないで回ってる」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、すごい」

「すごいとか言うな」

「……助かる」

 レンカが言い直した。言い直しは増えない。


 朝市は、いつも通りの騒がしさだった。

 秤屋の台から、カチンが鳴る。

 鐘楼は鳴らない。鳴らないのが、今日の勝ち筋だ。


 列は長い。長いのに、崩れてない。

 誰かが「先にどうぞ」を言いかけて、言い直す。


「……一人だけ」


 一人だけ、が口に出た瞬間、列が一段落ち着く。

 落ち着くとカチンがよく聞こえる。カチンが聞こえると、肩が下がる。肩が下がると、袋が落ちない。落ちないと拾わない。拾わないと声が増えない。


 買い物を終えて帰るころ、結び家の中はもう「洗」の気配になっていた。

 桶が並ぶ。欠け桶がいつもの場所にいる。

 札が揺れる。数字がでかい。でかい数字は、だいたい人を静かにする。


 干し場で、小さな詰まりが起きた。

 干し紐が一本、変な結び目で固まっている。固まると、ほどく手が増える。手が増えると、肩が当たる。肩が当たると、濡れ布が落ちる。落ちるとまた濡れる。濡れると、気持ちが焦る。


「……紐、死んでる」

 ハルが小さく言った。

「死ぬって言うな」

 ユリネが刺す。

「……止まってる」

 ハルが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 レンカが「私がほどく!」と言いかけて、口を押さえた。えらい。

 代わりにコトが、干の札を指でちょん、と弾いた。紙がぱちんと鳴る。小さい音だから、呼び笛にならない。


「ほどくのは一人」

 コトが言った。

「一人」

 レンカが復唱して、自分の手を背中に回した。背中に回せるなら勝ち。


 タケルが真顔で、紐の結び目を見た。

 見て、触らない。

 触らないで、位置だけ示す。


「ここ、結び目の頭」


 言葉が短い。短いと、ほどく人が焦らない。

 ほどく人は近所のおばさんだった。おばさんは笑って、指先だけで結び目の頭をつまんだ。


「はいはい、ここね」


 きゅ、とほどける音。

 ほどけた瞬間、干し場の空気が戻る。

 誰も責めない。責めないから、次が詰まらない。


「……戻った」

 ハルが小さく言った。

「戻った」

 シノがぼそりと復唱した。復唱が小さいと、場が丸い。


 夕方、湯屋へ向かう。

 湯屋の入口は、湯気の匂いで足が止まる。止まるけど、詰まらない止まり方がある。


「出ます」

「どうぞ」

「ありがとう」


 三つで終わる。

 終わるから、次が入れる。


 今日は湯屋も、説明ゼロで回っていた。

 誰かが湯札を掛け、誰かが取る。取ったら中へ入る。上がったら戻す。戻す音が、かたん、と小さく鳴る。

 小さな音があると、見なくても分かる。分かると、覗かない。覗かないと、湯屋が湯屋のままだ。


 それでも、小さな詰まりは起きる。

 脱衣の間で、桶が一つだけ、通り道に出た。


「……そこ、通る」

 知らない人が小さく言った。

 言い方が尖ってない。尖ってないと、刺さらない。


 桶を置いた本人が、はっとして桶を引く。

「ごめん」

「大丈夫」

 それで終わる。終わるから、湯気が逃げない。


 レンカが湯の縁で、息を吐いた。

「今日、みんな、勝手に順番してる」

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、すごい」

「すごいとか言うな」

「……助かる」

 レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 湯から上がるころ、入口の釘に掛かった札が、揺れている。

 数字が並ぶと、急がなくていい。

 急がないと、譲り合い無限が起きない。

 起きないなら、今日は勝ちだ。


 家に戻ると、鍋が鳴っていた。

 湯屋の湯気とは違う、飯の湯気。

 湯気は増えていい。増える湯気は、生活の勝利だ。


 ミナギが椀を取ろうとして、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 ミナギが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 コトが椀を並べ、ハルが匙を置き、シノが湯気を小さく吸う。

 誰も説明しない。

 説明しないのに、全部回っている。

 それが今日の確認だ。


 レンカが小さく宣言した。

「今日、泣かせなかった!」

「泣かせないのはいい。増やすな」

「増やさない!」

 笑いは増えない笑いで収まった。収まる笑いが、いちばん強い。


 窓の外で、足音が二つ、すぱっと短く走っていく気配がした。

 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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