第4話 麓へ降りる前に噂が降りる
山頂から麓へ降りる準備は、思ったより地味だ。
地味なのに、やることが多い。
多いのに、順番が決まると回り始める。
回り始めると、急に「生活」になる。
ミナギは朝から、線を引いた紙を広げていた。昨日の生活圏の線に、今日は「降りる線」が増えている。線が増えると、世界が広がる。広がるのに、怖くない。線があるからだ。
「まず水」
ミナギが言う。
火守が小鍋を指差す。山頂の水は貴重だ。貴重だからこそ、丁寧に使う。丁寧は怖い。でもこの丁寧は、怖くない丁寧だ。
「次、火」
火守が頷いた。火は守る。守るのは火守の仕事。
ミナギは火守の仕事を奪わない。奪わないのが回収担当の礼儀だ。
「次、寝具」
寝具というほど立派なものじゃない。布と、藁と、ちょっとした毛皮。
それでも「夜を越す道具」だ。夜を越す道具があると、泣かなくて済む。泣かないと神界が盛りにくい。盛られにくいと山は静かになる。静かだと噂が増える。増えるな。
スズが毛布を抱えたまま、ぶつぶつ言っていた。
「降りるのって、さ、なんかこう……ドキドキするよね……。山頂って、ずっと上じゃん……。上って、降りるって言うと、落ちるみたいで……」
「落ちない。歩く」
カナメが即答した。見張り番は言葉を整える。言葉が整うと足が整う。
「歩くのも落ちるのも、結果として下に行く」
「カナメ、そういう言い方やめて!」
スズは抗議した。抗議の声も今日は増殖しない。増殖しない抗議は、少しだけ可愛い。
ハルは小屋の中で、芋の干し物を持ったまま座っていた。
芋はもう半分しかない。半分しかないと不安になる。
でも半分しかないと、次を考える。次を考えると、生活が回る。
ハルは、ミナギの線を見ていた。
線の意味は分からない。
でも線があると、指が迷わない。
迷わない指を見ると、心が落ち着く。
シノは、荷物の端を持っていた。端だけ。真ん中を持たない。
奪わない人は、真ん中を持たない。
でも端を持つと、持っていることになる。持っていると、役に立つ。役に立つと居場所ができる。居場所ができると照れる。今日も照れている。
「……重いですか」
シノが小声で聞いた。
「重いのは仕事。重くない仕事は油断する」
ミナギが淡々と返す。
シノが「なるほど」と頷き、また照れた。理解が早い照れは危険だ。照れが増えると噂になる。噂は増える。
そして、噂はもう降りていた。
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霞根町。
朝の市場は、人の声でできている。
野菜の声。魚の声。布の声。値段の声。
声が混ざって、町の呼吸になる。
そこへ一粒、妙に「きれい」な噂が落ちた。
「聞いた? 真昼山の山頂が、うるさいって」
「うるさい山ってなんだよ」
「うるさいのに、きれいなんだってさ」
「きれいでうるさいって、嫌だな……」
嫌だな、と言いながら、耳がそっちへ向く。
噂は嫌だなを栄養にして育つ。
「あとさ、匂いが良すぎるって」
「良すぎる匂い?」
「腹が勝手に寄ってくる匂いだって」
「それ、怖いな……」
「怖いけど、ちょっと嗅ぎたいな……」
嗅ぎたいな、で噂は完成する。
完成した噂は、目的地を持つ。
目的地はだいたい、役所だ。
「山頂が騒がしいって噂、また来たぞ」
霞根町の小さな役所で、役人がため息をついた。ため息は町の潤滑油だ。ため息がないと仕事が詰まる。詰まると怒る人が出る。怒ると噂が増える。噂は増える。
「また? 先週も『雲が甘い』とか言ってたじゃない」
「今週は『音がきれいに響く』だと」
「音がきれいって、褒めてんの? 困ってんの?」
「困ってるんだろ。褒めて困るのが一番面倒」
役所の会話はだいたいそうだ。
褒めて困る。丁寧で困る。善意で困る。
困るの種類が増えると書類が増える。書類が増えると誰かが角を揃える。角を揃える神が危ない。ここは神界じゃない。だが仕組みは似ている。世界はどこかで韻を踏む。
役人は紙を一枚取り出し、雲見台の名を書いた。
「見張りのカナメに確認を出すか」
「出すなら、今日中だな。噂が燃える前に水をかける」
「水をかけると余計に蒸気が立たないか」
「蒸気が立つと、また噂になる」
「……もう噂、嫌い」
「嫌いでも、噂は来る。噂は仕事だ」
役人が苦い顔で言った。
噂が仕事になると、人は少しだけ安心する。
仕事は順番にできる。順番があると生活が回る。
回ると、風呂に入れる。風呂に入れると、だいたい勝ちだ。
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山頂。
ミナギが袋の口を締める。袋が重い。重いのに、締める手が迷わない。
「よし。降りる」
スズがわっと顔を上げた。
「い、いま!? いま降りるの!? 心の準備は!? 心の準備って荷物に入れた!? 入れてないよね!?」
「心の準備は歩きながらする」
ミナギが言い切った。現場はだいたいそうだ。
心の準備は荷物にならない。だから歩きながら拾う。
カナメが先に立つ。見張り番は道を知っている。道を知っている人が先に立つと、後ろの人が泣かない。
火守は小屋の前で腕を組み、頷いた。
「火は守る。帰ってこいとは言わない。降りた先で回せ」
ミナギが頷く。
その頷きは「了解」じゃなくて「引き継ぎ」だ。
ハルは、袋の紐を握る。握る手が小さい。
小さいのに、握れている。握れているのが偉い。偉いと大人が褒めたくなる。褒めると神界が盛る。盛るな。
シノが、荷物の端を持ち直した。端だけ。端だけでも、歩くと力がいる。力がいると顔が真剣になる。真剣になると照れが消える。照れが消えると大人に見える。大人に見えると、また照れる。忙しい人だ。
「……降りる道、怖いですか」
シノがハルに聞いた。聞き方が、奪わない人の聞き方だ。
答えを強制しない。答えが出るまで待てる。待てる人は優しい。優しい人は疲れる。疲れた優しさは、盛られると壊れる。
ハルは少し迷って、首を振った。
怖いかどうかより、分からない。分からないの方が多い。
でも歩く。歩ける。歩けることが、ご褒美だ。
山頂の匂いの残り香が、背中に薄くついてくる。
小屋の周りだけの、いい匂い。
それが、今日の「持ち帰り」だ。
ミナギが言った。
「噂は先に麓に降りてる。だから、急ぐ」
「噂、足が速い……」
スズが泣きそうな顔で言う。泣くな。泣くと上が盛る。盛られると道がうるさくなる。
「噂は足が速い。だから現場はもっと速く動く」
ミナギは淡々と言った。淡々が強い。淡々があるとパニックが生活に編み込まれる。
坂道を降りる。
石が転がる。転がる音は普通に一回だけ鳴る。
普通の一回が続くと、足が落ち着く。
足が落ち着くと、心が少しだけ「次」を考える。
その頃。
雲見台に、ひとりの走り手が登ってきていた。町の役所の伝言を背負っている走り手だ。息を切らしながら、カナメの背中へ声を投げる。
「カナメ! 町から! 噂が燃えてる! 確認出せって!」
カナメは振り返らず、手だけ上げた。
手の上げ方が「了解」だ。手の上げ方が「回す」だ。
「了解。現物、降ろす」
「現物って……人!?」
「人だ」
「やば……!」
走り手が目を見開く。その目が噂を食べる。噂は目で育つ。
スズが小声で言う。
「現物って、言い方……なんか……」
「仕事の言い方だ」
ミナギが言った。
仕事の言い方は、世界を落ち着かせる。落ち着かせるけど、完全に静かにはしない。静かにすると、今度は怖い。ここは派手に騒ぐ世界だ。派手に騒いで、最後は生活に戻す。
麓が見えた。
霞根町の屋根が、朝日を受けて光っている。
光っているけど、昨日みたいに刺さらない。
刺さらない光は、生活の光だ。
ハルは、屋根の群れを見て、ぽつりと笑った。
「……いっぱ……」
いっぱい。
人がいっぱいいる。
怖いかもしれない。
でも、湯があるかもしれない。
ミナギは、ハルのその声を拾って、短く言った。
「うん。いっぱいいる。だから、紛れる」
紛れる。
その言葉はまだ分からないはずなのに、ハルの胸のどこかが「それがいい」と頷いた。
背中に、山頂のいい匂いが薄く残っている。
噂は先に降りた。
でも現物も、ちゃんと降りた。
ここからは、霞根町の生活の番だ。




