第39話【欄】(第三波)
織帳院の朝は、だいたい「増えてるもの」から始まる。
今日は、欄が増えている。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
「……いや……もう……いや……」
泣き崩れている。
悲しい泣きじゃない。業務の泣きだ。
机の上には申請書が積まれている。積まれているのに、積みが合っていない。
角を揃えたい。
でも揃えた瞬間に、揃わなくなる。
チヨが紙束の側面を、とん、とん、と机に当てる。
角が揃う。揃った。よし。
……その瞬間。
紙の中で、罫線が、ふわっと増えた。
横線が一本。
縦線が一本。
「記入欄」が一段だけ増えた。
増えた分、用紙の横腹が気持ちだけ広がって、
さっき揃えた角が、やさしくズレる。
「……角が……角がぁ……!」
チヨは顔を上げて泣き叫びかけ、すぐ自分の口を押さえた。
泣き声が増えると、周りが余計に動く。動くと、欄も動く。
欄は、動くのが好きだ。
背後の壁が、今日も壁をしていた。
張り紙。張り紙。張り紙。
端から端まで、隙間なく。
貼り方だけ、無駄に綺麗。そこだけ誇らしげ。最悪。
いちばん上の列のいちばん太い字は、もう定型だ。
『欄の増殖は申請では止まらない』
止まらないくせに、毎朝貼る。
貼るのは主任級持ち回り。
そしてそれが、地味にいちばん嫌だ。
昨日の当番主任は、右端をぴしっと揃える派。
今日の当番主任は、中央揃え派。
先週の当番主任は、上から二ミリ空ける派。
その前は、なぜか下を空ける派。
チヨの目が死ぬ。
「……欄より先に……貼り位置が……」
泣きの種類が変わった。
欄の泣きと、位置の泣き。AとB。今日も両方だ。
そこへ、扉が勢いよく開いた。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。無自覚に現場を燃やすタイプの元気。
「……おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた結果がこれですぅ……!」
チヨが机に突っ伏し直す。二回目。
二回目は、崩れ方が上手い。崩れ方だけ。
アマネは壁を見て、きらきらした目で言った。
「わぁ……欄、いっぱい!」
「いっぱいじゃない。増え続けてる」
入口の外から、乾いた声。マドカだ。入ってこない距離で刺すのが上手い。
アマネは机の申請書を一枚つまんだ。
つまんだ瞬間、罫線が、増える気配を見せる。
「ほら、ここ! ここ、空白が足りない!」
「足りないって言うな」
ナギが入ってきた。眉が半分疲れている。残り半分は諦め。
「じゃあさ、足りないなら」
アマネが両手を合わせる。やめろ、その手は盛る手だ。
「欄が足りないなら、欄を足す!」
言い切った。堂々と。賢くない笑顔で。
チヨの肩がぴくっと跳ねた。トラウマ単語。
「足すな」
「足すな」
「足すなぁ……!」
マドカ(外)・ナギ(中)・チヨ(机)が三重に言った。
「えー? でもさ、欄が増えたら書けるじゃん?」
「書くところが増えるから泣いてるんだ」
ナギが淡々と言う。淡々がいちばん刺さる。
アマネは定規を取り出した。
定規が出ると、現象が喜ぶ。現象は道具が大好きだ。
「ほら、ここに線を引けば、綺麗に整うでしょ?」
「整えるな」
マドカがようやく部屋に入ってきて言った。入って来た時点で負け。
アマネが線を引く。
しゃっ。
その音は気持ちいい。気持ちいいのが一番危ない。
線を一本引いた瞬間。
引いた線の隣に、線がもう一本、生えた。
さらにその隣にも、もう一本。
欄が、増えた。
「見て! 欄、増えた!」
「喜ぶな」
ナギが刺す。
「でも増えた!」
「増えたって言うな」
チヨが泣き声で突っ込んで、また自分で口を押さえた。今日は声も崩れやすい。
壁の張り紙が、ぴら、と揺れた。
揺れたのは風じゃない。
ゆれりんが鳴ったのだ。
りん。
職員室の空気が一斉に固まる。
外に漏れる前に処理しろ、の合図。
漏れてから処理するのは一段面倒。面倒が増えると、欄も増える。
「……第三波」
ナギがぼそり。
「波にするな」
マドカが刺す。
「波は波だ」
ナギは引かない。今日は引かない日だ。
チヨが涙目でスタンプ台を抱きしめた。
机の隅に固定されている現象スタンプ【欄】が、やけに元気に待機している。
「押していいですかぁ……」
「押すな」
マドカ即答。
「押さないと報告がぁ……」
「押すと欄が喜ぶ」
「もう喜んでますぅ……!」
アマネが「じゃあ私が押す!」と言いかけて、三人が同時に言った。
「押すな」
アマネが口を尖らせる。尖らせたまま、視線が壁へ飛ぶ。
「じゃあ貼る! 貼って整理する!」
「貼るな」
「主任の当番が貼ってるじゃん!」
「貼ってるのは“止まってない”報告だ!」
会話が増えかけた、その瞬間。
「おはようございます」
院代が来た。
にこにこ怖い、にこちゃん先生。
にこにこしたまま、壁と机とアマネの定規を一度に見て、短く言った。
「……増えていますね」
一言だけ。
一言だけなのに、全員が姿勢を正す。
姿勢が正しいと、余計な手が止まる。止まると、欄の増え方が少しだけ遅くなる。気がするだけでも救い。
院代はにこにこしたまま、もう一言。
「触らないでください」
短い。やさしい。怖い。
怖いけど暗くならない。職員室はそういう怖さだけで回ってほしい。
そこへ、朱肉の匂いが入ってきた。
ゲンだ。
「まだ終わってない顔だな」
「終わってません……!」
チヨが即答する。今日は泣き声じゃなくて、半分だけ怒り声だ。怒れるなら勝ち。
ゲンは机の紙束を一枚だけ見た。
見た瞬間、欄が増えた。増えるな。
増えてもゲンは眉ひとつ動かさない。
「角は揃わない日だ」
雑。雑なのに優しい。
雑な優しさは、現場を救う時がある。
ゲンは朱肉を開け、印を構えた。
ゲン印【幸】。
押すと終わるやつ。雑に終わるやつ。気持ちいいやつ。
どん。
赤が綺麗に乗った。
欄が増えても、赤は増えない。
増えないものが一つあるだけで、人は立て直せる。
ゲンが、職員室に向けて言った。
「終いが良ければそれでよし!」
雑だ。
雑なのに、空気がふっと軽くなる。
軽くなると、チヨの肩が落ちる。落ちると泣きが止まりかける。止まりかけるとアマネが言いたくなる。最悪。
「ほら! おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた範囲を覚えてください!」
チヨが机から顔を上げた。目は赤い。でも声が生きてる。生きてるなら勝ち。
院代がにこにこしたまま頷く。
「……よし。生きていますね」
その一言で、第三波は一旦“波”のまま収まった。
欄は止まってない。止まってないけど、今日は終結判定が出た。
主任当番の貼り位置も、今日だけはどうでもよくなった。どうでもよくなるのが、いちばん効く。
ゲンが朱肉を閉めて、最後にもう一度だけ言った。
「よし。次」
次。
職員室の次は、だいたいまた増える。
増えるけど、増えすぎる前に雑に終わらせればいい。
それが神界の生活だ。




