第37話 秤屋(行列)
朝市は、声が太い。袋が擦れる音も太い。小銭の音だけが細い。細い音が混じると、空気が少しだけ軽くなる。
今日はそこに、もう一つ。硬いのに小さい音が混ざっていた。
カチン。
秤屋の台から鳴る。一定の間隔で鳴る。一定は安心だ。安心は人を寄せる。寄ると列が伸びる。
伸びるのに、今日は笑っている。
「長いねえ」
「長いけど、今日は風がいい」
「風がいいと粉が舞う」
「粉が舞うとくしゃみが増える」
「増やすな」
列の前の方から、誰かが冗談めかして言って、みんなが笑った。笑いは増えない笑いだ。刺さらない笑いは、生活の勝利。
結び家が列の端に並ぶと、レンカが目を輝かせた。輝くな。
「見て! 列、長いのに、みんな笑ってる! 強い!」
「強いとか言うな」
ユリネが即座に刺す。
「でも、怒ってない!」
「怒らないのは偉い。褒めるな。増える」
「増やさない!」
レンカが自分で口を押さえた。最近のレンカは、止まれる。止まれた分だけ、事故が減る。事故が減ると、朝の肩が軽い。
タケルは真顔で、秤屋の台を見た。皿が二つ。棒が一本。支点がひとつ。分銅みたいな小石がきちんと並んでいる。
並んでいると、並びたくなる。だから列が長い。
「でもさ、これ、列の途中で混ざったら終わる」
「終わりにするな」
「……推測で、終わりっぽい」
「推測の使い方が雑だ」
コトが笑って、ミナギが笑いそうになって、ユリネに見られて飲み込んだ。飲み込めるなら勝ち。
列はゆっくり進む。ゆっくりなのに、退屈じゃない。退屈じゃないのは、前の方から笑いが流れてくるからだ。
秤屋の人が、袋を受け取り、ひとつずつ皿に置き直すたび、カチンが鳴る。鳴るたびに、後ろの肩がふっと落ちる。
「カチン、いいねえ」
「いいって言うな」
「……助かる」
誰かが言い直す。言い直しが増えると、空気が丸くなる。
秤屋の人は、言葉が少ない。少ないのに、指が的確だ。
袋の口をとん、と叩いて「結べ」の合図。結んだら受け取る。受け取ったらすぐ置く。置く前に、台の端の布をさっと払う。
すっ、という布の音のあとに、カチン。
台の上は静かなのに、列の背中はにぎやかだ。にぎやかの中身が「困り」じゃないのが、いい。
「今日はね、量りが忙しいんだよ」
前に並んでいたおばさんが、後ろを振り向かずに言った。
「忙しい?」
「粉の日。みんな焼く」
「焼くと腹が鳴る」
「それはいつもだよ」
列の笑いが一段、丸くなる。
ハルが小さく頷いた。
「……長いのに、息できる」
シノがぼそり。
「……音、落ち着く」
「落ち着くは増える入口だ」
ユリネが言って、シノは小さく言い直した。
「……胸の中で、落ち着く」
言い直せるなら勝ち。
ところが、長い列には、長い列の優しさがある。
優しさはだいたい、並びの途中で発火する。
列の中ほどで、年配の人が後ろを振り向いて、手を上げた。
「うちは少しだけだから、先にどうぞ」
先にどうぞ。善意。善意は好きだが、列では危ない。
「いえいえ、うちも少しだけで」
「じゃあ私も少しだけ」
「私も、ほんの少し」
少しだけが増える。増えると少しじゃなくなる。少しじゃなくなると、誰も少しを守れなくなる。
守れなくなると、言葉が刺さる。
「それ、横入りじゃない?」
誰かが言いかけた。言いかけた時点で、空気が一段固くなる。
レンカの足が一歩出かける。泣かせない係が動く足だ。動くな。
ユリネが短く言った。
「並び直し」
たった四文字で、列の背中が戻る。
コトがすぐ拾う。
「いまの位置、覚えて。先にどうぞは一人だけ。次は戻る」
戻るがあると、譲れる。譲れると暴走しない。
タケルが列の端に立つ。腕を広げる。道を一本にする。走らないで線を作る。走らない線は強い。
「横からは入らない。困ったら言って。声は一回」
「一回!」
レンカが復唱して口を押さえた。復唱で止まれるのは偉い。
空気が戻る。戻ると、カチンがまたよく聞こえる。
笑いも戻る。戻る笑いは、刺さらない笑いだ。
列が進む途中、前の方で小さな「ころころ」が起きた。
紙袋の口がほどけて、豆が二、三粒、石畳を転がったのだ。
ころん。
ころん。
音が小さいほど、焦りが増える。焦るとしゃがむ。しゃがむと後ろが詰まる。詰まると、また肩が当たる。
「拾う!」
誰かが言いかけた。
「拾うな」
秤屋の人が、台の向こうから小さく言った。届く小ささだ。小さいのに刺さる。
豆を落とした本人が、青い顔で手を止める。
「すみません、今……」
「本人が拾え。周りは動くな」
ユリネが短く言った。言い方が固いのに、刺さらない固さ。
タケルが腕で道を作る。豆の横に一歩だけ空間を作る。空間があると、踏まない。
コトは声を増やさず、指だけで「ここ」と示す。豆が転がって止まった場所。止まった豆は、拾える。
本人がしゃがんで拾い、紙袋の口を結び直す。
結ぶと、ころころが終わる。終わると、列がまた息をする。
「助かったぁ」
本人が小さく言って、後ろの人が小さく笑った。
「豆も順番だねえ」
「順番にするな」
ユリネが刺して、また笑いが起きた。笑いが起きると、焦りがほどける。ほどけたら、またカチンが聞こえる。
ここで、子どもが来る。
子どもは列が嫌いだ。列が嫌いだから、短くしたくなる。短くしたくなるのは善意だ。善意が一番混ぜる。
「ねえ! 長いのやだ!」
小さい子が、列の前を走りそうな勢いで、両手を広げた。
「ぼくが短くする!」
「走るな」
ユリネが言う。子どもは止まらない。止まらない時は言葉を増やさない方がいいのに、子どもは言葉を増やす。
「こっちが少ない! こっちが多い! 少ない人はこっち!」
子どもは地面に小石を並べ始めた。一本、二本、三本。列を二つに割ろうとしている。
二つに割ると早い気がする。早い気がするのが危ない。早い気がすると、人が動く。動くと混ざる。
列の横にいた人が、思わず一歩動いた。
「少ないなら……」
その一歩に、隣の人も釣られる。
「じゃあ私も」
釣られた足が、別の足とぶつかる。ぶつかると袋が揺れる。揺れると中身が傾く。傾くと心が焦る。焦ると声が出る。
「ちょ、どっち!」
「え、私先だったよね?」
「いや、こっちだよ」
「小石、どれが自分?」
混ざる。
混ざった瞬間、ユリネの胸の奥で、嫌なものがふっと立ち上がる。
所定人数。
枠。枠の中の数字。枠の外の人。
頭の中でだけ、紙の上の四角が並ぶ。並んだ四角が、今の小石の並びと重なる。
重なった瞬間、背筋が冷える。冷えたら危ない。ここで冷えると、言葉が固くなる。固い言葉は刺さる。刺さると泣く。泣かせない係が増える。
「……すー」
ユリネが一度だけ深呼吸をした。誰にも見せない深呼吸。見せると説明になる。説明は増える。
吐いて、胸の中の四角を押し戻す。
ここは紙じゃない。ここは朝市だ。枠で勝つんじゃない。生活で戻す。
ユリネは子どもの前にしゃがまず、声も大きくしないまま、短く言った。
「並ぶ順」
たった三文字。短い。短いから刺さらない。
コトが続ける。
「短くするなら、混ぜない。混ぜたら長くなる」
子どもが目を丸くする。
「えっ」
「混ざると、カチンが消える」
タケルが真顔で言った。真顔の説明は怖いが、子どもには効く。カチンは魅力だからだ。
子どもが秤屋の方を見た。ちょうど、カチンが鳴った。鳴ると嬉しい顔になる。
「カチン、好き!」
「好きとか言うな」
ユリネが反射で刺して、すぐ言い直した。
「……助かる。カチンが助かるなら、列を助けろ」
言い直せるなら勝ち。
子どもは小石を拾い集め始めた。拾うのが早い。早いのに、今は良い早さだ。
「じゃあ、元に戻す」
「戻す」
ハルが小さく復唱する。小さい復唱は、場を丸くする。
ただ、戻す前に、もう一つだけ善意が走る。
子どもが拾った小石を、手のひらに集めて、列の人へ配ろうとしたのだ。
「これ、持って! これがあなたの!」
持たせたい善意。持たせたい善意は、番号札の顔をする。番号札は便利だが、増えやすい。
「持たせるな」
ユリネが短く止めた。
「えっ、でも忘れるでしょ!」
「忘れるなら、場所で覚えろ」
「場所?」
「いま立ってた場所。足元。そこが順」
足元。
子どもが自分の足元を見た。見た瞬間、納得した顔になった。納得は強い。
「……じゃあ、ぼく、動かない」
「動かないのが一番えらい」
コトが笑って言った。笑いは増えない笑いだ。
列が戻る。
戻ると、誰も責めない顔になる。責めない顔は、生活の勝利だ。
ミナギがぽつりと呟いた。
「子ども、善意で混ぜたな」
「混ぜるなって言うな」
「言ってない。胸の中で言った」
「胸の中は勝手にしろ」
笑いが起きる。笑いが起きると、混線の棘が抜ける。
棘が抜けたところで、秤屋の人がまた袋を受け取る。
すっ。
置き直す音。
カチン。
列の背中が、また一段落ちた。
「ひとつずつ」
秤屋の人が小さく言った。小さい声なのに、列の全員が聞いたみたいに動く。作法が伝染する。
「ひとつずつ、って、気持ちいいねえ」
前の人が言って、
「気持ちよくするな」
後ろの誰かが返して、また笑いが起きた。
笑いが起きると、列が軽い。軽い列は崩れにくい。
ようやく、結び家の番が見えてくる。見えてくると、欲が見えてくる。欲は増える入口だ。
レンカが言いかける。
「私、少ないから先……」
「言うな」
ユリネが刺す。
「……一人だけ」
レンカが言い直して、口を押さえた。偉い。自分で止まれる。
コトがレンカの肩を軽く叩いた。
「一人だけを言えるの、強い」
「強いとか言うな」
「……助かる」
コトが言い直して笑った。
ミナギが自分の袋を二つ持っているのに気づいて、慌てて一つにまとめた。
「ひとつずつ!」
「復唱が雑だ」
タケルが真顔で言う。
「雑でも言えたら勝ち!」
「勝ちとか言うな」
ユリネが刺して、ミナギが首をすくめた。首をすくめて止まる。止まれるなら勝ち。
いよいよ、結び家の番になる。
秤屋の人が袋を受け取る。受け取る前に袋の口をとん、と叩く。結べの合図だ。
レンカが結ぶ。結んだら渡す。渡すと、皿に置かれる。分銅がのる。棒が揺れて、落ち着く。
カチン。
レンカの肩がほどける。ほどけた肩は走らない。走らないと増えない。増えないと泣かない。
「……推測で、安心」
レンカが言って、すぐ自分で口を押さえた。
「推測の使い方が雑だ」
タケルが真顔で突っ込んで、コトが笑った。笑いは増えない笑いだ。
買い物を終えて帰り道、鐘楼の影が朝市の端に薄く落ちていた。影は大きいのに、今日は誰もそれを話題にしない。
合図は増やさない。列も増やさない。紙も増やさない。
増やさないで回る日が、一番きれいだ。
結び家に戻ると、買ったものを床に広げる。
粉。豆。乾いた果実。重い野菜。軽い葉物。
秤屋で量ってもらった袋は、どれも口がきちんと結ばれている。結ばれていると、散らない。散らないと、拾わない。拾わないと、余計な声が出ない。
「量ってあると、分けるのが楽だね」
コトが言いかけて、
「楽って言うな」
ユリネが刺した。
「……助かる」
コトが言い直す。言い直しは増えない。
レンカが粉の袋を抱えて、目を輝かせた。
「平焼きパン、増える!」
「増やすな」
「増やさない! でも、焼く!」
「焼くのはいい。先に飯だ」
「飯!」
鍋が鳴っていた。湯気が上がる。湯気は増えていい。増える湯気は、生活の勝ちだ。
レンカが椀を持ち上げかけて、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。
ハルが小さく頷く。
「……列、戻った」
シノがぼそり。
「……音も、戻った」
ミナギが箸を持ちかけて、
「順番」
ユリネが刺す。
「……はい」
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




