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第36話 直し屋

 匂いは、朝にいちばん正直だ。

 木くずと油と、濡れた布の端。

 その混ざり具合で「今日は忙しい」を先に言ってくる。


 路地の奥の作業台は、いつもより音が多かった。


 こり、こり。

 すっ。

 きゅっ。

 とん。


 直す音が増えると、人も増える。

 増えた人は、だいたい顔が「直したい」でできている。

 直したい顔は、順番より先に手が出る。そこが今日のパニック。


「……来てる」

 ハルが小さく言った。


 作業台の前に、すでに列ができていた。

 列、と言っても、線はない。線がないと、列は息を吸って膨らむ。

 膨らむと、横に広がる。横に広がると、台に寄る。寄ると、手が出る。


「直し屋、初稼働、って感じだね」

 コトが笑う。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「え、でも今日からだって、噂で」

「噂で来るな。来るのは勝手だが、増やすな」


 レンカが列の端で、うずうずしていた。

 泣かせない係のうずうずは、だいたい善意で危ない。


「私、並べる! 順番、作る!」

「作るな」

 ユリネが即座に刺す。

「えええ、でも……ほら、みんな、直したい顔!」

「直したい顔は、直せない」

「えっ」

「直すのは物だ」


 台の向こう側。直す人は、手を止めていなかった。

 止めないのに、奪わない。

 差し出された壊れ物を、引っ張らない。

 指の間から、そっと受け取って、そっと返す方向へ置く。

 置く場所が小さいから、置く前に詰まる。


 そして、今日の新顔が見えた。

 手元の脇に、小さな札束。

 厚めの紙。角が丸い。穴が空いている。

 数字だけがでかい。


 1

 2

 3

 4


 それだけ。


「……番号札」

 タケルが真顔で言った。

「数字だけなら増えにくい」

 コトが頷く。

「増えないじゃない。増えにくい」

 ユリネが釘を刺す。


 増えにくい、の直後に増えるのがミナギだ。


「俺、直すやつ小さいから、1でいい?」

「1は取るな」

 ユリネが刺す。

「えっ、でも小さいし、すぐ終わるし!」

「小さいは免罪符じゃない」

「免罪符! かっこいい!」

「かっこよくするな」


 列の真ん中で、先走りが起きた。

 若い人が、壊れた金具を台の上へ置いてしまう。

 置いた瞬間、隣の人も置く。置くと、置き場が増える。増えた置き場は混ざる。


「待って、これ……」

 直す人が小さく言った。声が小さい。小さいから届かない。

 届かないと、手が動く。


「先に置いとけば、楽でしょ?」

「これも、ここに」

「落としたくないから、預ける」


 預ける。

 その言葉が出ると、空気が一段硬くなる。

 硬くなると、奪い合いみたいに見えてしまう。見えるだけで嫌だ。


「置くな」

 ユリネが短く言った。

 短いから刺さらない。刺さらないのに止まる。

 止まった瞬間、レンカが息を吸った。動くな。


 ユリネは、作業台の手前に指を二本立てた。


「渡す順」

 指を一本折る。

「受け取る順」


 それだけ。


「……え?」

 列の人が首を傾げる。

「渡すのは番号の順。受け取るのは呼ばれた順」

 ユリネはそれ以上言わない。言うと増える。


 タケルが真顔で補助する。

「台に置くな。番号札を取れ。札を取ったら持ち主が持つ」

「持ったまま?」

「持ったまま。落とすなら戻る。預けるな」


 預けるな。

 その一言で、半分の手が引っ込む。

 引っ込むと、台が息をする。


 直す人が、手を止めずに、札を一枚つまんで前に出した。

 数字は「1」。


 列の先頭の人が、札を受け取ろうとして、手を止めた。

 止めたのは偉い止め方だ。奪わない。


「……受け取る順?」

 その人が訊く。

「今は渡す順」

 コトが笑って頷く。

「札を受け取って、渡す。終わったら返す。返す順は呼ばれた順」


 呼ばれた順。

 言葉が短いと、場が軽い。

 軽いと、泣かない。泣かないと、手が落ち着く。


 1の札を持った人が、壊れた皿を抱えたまま一歩前へ出る。

 台の端に、皿を置く。

 置く、のはここで初めて。

 置く場所が決まると、置き方も決まる。


 きゅっ。

 直す人が布で拭く。

 こり、こり。

 木べらみたいな道具が動く。

 とん。

 軽く叩く。


 その間に、直す人は札をもう一枚、指先で弾いた。

 数字は「2」。

 弾かれた紙が、ぱちんと鳴る。小さい音なのに、列の背中がそろって動く。


 2の札を持った人は、鞄の口を必死に押さえていた。

 鞄の口が開くと、中身が見える。見えると「ついで」が増える。


「これもついでに……」

「ついで、するな」

 ユリネが先に刺す。

「まだ言ってないのに!」

「顔が言ってる」


 その人は笑って、でもちゃんと一つだけ取り出した。

 革の紐の先、金具が取れている。

 直す人は、受け取る前に、布の上を指で二回叩いた。

 ここ、の合図だ。言葉じゃない。増えない。


 受け取ると同時に、返す場所が生まれる。

 台の端に、空の木椀が二つ置かれた。

 片方は“直す前”、片方は“直った後”。

 誰も説明しないのに、置かれ方で分かる。

 分かった気になる速度が、生活にはちょうどいい。


 ところが、その“分かった気”に乗って、混線が来る。


 3の札を持った人が、直った後の椀に手を伸ばした。

「それ、私のじゃ……?」

 似ている。似ていると、心が先に掴む。掴むと間違える。


「触るな」

 ユリネが短く言う。

 短いから、手が止まる。


 タケルが真顔で、椀の縁を指でちょんと叩いた。

「受け取る順。呼ばれてから」

「……はい」

 3の人が引っ込める。引っ込められるなら勝ち。


 直す人は、顔を上げずに、完成した金具を椀へ置いた。

 かち、と小さい音。

 その音で、持ち主が分かる。

 分かる音は強い。強いけど増やさない。助かる。


 数字の大きさが、安心になる。安心は増える入口でもある。今日は入口を閉める。


 入口を閉めるのが、シノだ。


 シノは列の横に立って、ただ、見ていた。

 見ているだけなのに、指先が小さく震える。

 糸の端、金具の端、割れ目の端。

 端が呼ぶ。呼ばれると触りたくなる。触ると仕事が増える。増えると照れる。


「……シノ」

 コトが小さく呼ぶ。

 シノは小さく首を振った。行かない、じゃない。耐える、の首振り。


 その耐えが、いちばん危ないところで役に立つ。


 3番の札を取った人が、焦ってしまった。

「すみません、これ、すぐ直るなら、先に渡して……」

 札を持ったまま、壊れた紐を台に伸ばす。

 伸ばすと、2番の人が身を乗り出す。身を乗り出すと、1番の手元に影が落ちる。


 影が落ちると、直す人の手が一瞬止まる。

 止まると、皿がずれる。ずれると、割れ目が笑う。笑うと終わらない。


「……待つ」

 ハルが小さく言った。

 その一語が、列の肩を少しだけ戻す。


「渡す順」

 ユリネがもう一度言った。短い。短いから効く。

「……はい」

 3番の人が引っ込める。引っ込められるなら勝ち。


 ところが、勝ちの直後に「先回収」が来る。


 2番の札を持った人が、1番の皿を見て不安になった。

「それ、私のと似てて……混ざらない?」

 不安は正直だ。不安は増える入口だ。


 その人は、台の端に置かれていた自分の小箱を、反射で引っ張ってしまう。

 引っ張ると、隣の人の布が一緒に動く。

 動くと、誰のものか分からなくなる。

 分からなくなると、声が増える。


「ちょっ……!」

「それ、私のじゃ……」

「いや、触ってない!」

「触った!」


 刺さる言葉が出る前に、ユリネが言った。


「受け取る順」


 渡す順と受け取る順。

 今日は、その二本だけで押さえる。


 タケルが真顔で、台の手前に手のひらを向ける。

「手、引け」

 命令じゃない。指示だ。指示は生活だ。


 手が引っ込む。

 引っ込むと、台の上が静かになる。

 静かになると、誰のものかが戻る。戻ると、泣かない。


 直す人が、言葉を増やさずに動いた。

 台の上に、小さな布を一枚敷く。

 布の上に、いま触っていいものだけ置く。

 触っていい、の線ができると、触らない手が増える。良い増え方だ。


 シノが、そこで動いた。


 布の端が、ふわっと浮く。

 風じゃない。列の息だ。

 息で布が浮くと、小さな金具が転ぶ。転ぶと、台の下へ落ちる。落ちると探す。探すと詰まる。


 シノは、落ちる前に、指を出した。

 奪わない角度。

 直す人の手を邪魔しない距離。

 金具の端だけを、そっと押さえる。


 すっ。


 止まった。


「……助かる」

 直す人が、ほとんど息だけで言った。


 シノの耳が、少しだけ赤くなる。

 赤くなっても、顔は無表情のまま。

 無表情のまま、指を引っ込めない。

 引っ込めないのは、奪ってないからだ。

 奪ってないのに、褒められると照れる。照れるのに耐える。耐えるのがシノ。


「すご……」

 レンカが言いかけた。

「言うな」

 ユリネが刺す。

「……胸の中で、すごい」

 レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 直す人は、シノに視線だけを送って、また手元へ戻った。

 視線だけ。言葉は増やさない。増やさないのが、ここでも作法になる。


 列は、少しずつ回り始めた。

 1が終わる。札が返る。2が進む。

 数字が移るだけで、場が落ち着く。

 落ち着くと、次の混線が起きる。起きないように、ユリネが短く釘を刺す。


「先渡し、するな」

「先回収、するな」


 言い方が少しだけ強い。

 強いけど短いから、刺さりきらない。

 刺さりきらない強さが、今日はちょうどいい。


 ミナギが、我慢できずに言う。

「でもさ、直したいじゃん! すぐ戻ってほしいじゃん!」

「だから順だ」

「順、好きだね!」

「好きとか言うな」

「……助かる」

 ミナギが言い直して、なぜか自分で頷いた。言い直せるなら勝ち。


 途中、子どもが列の横で、壊れた木の実の紐を掲げた。

「これも直して!」

 増える。

 増えるけど、可愛い増え方は危ない。


「今日は大人の困りが先」

 コトが柔らかく言った。

「えー」

「代わりに、結び直すのは教える」

 教える、は危ない。説明になる。だから一言だけ。


 シノが、黙って、子どもの紐を二回だけ結んで返した。

 きゅっ、きゅっ。

 音だけで分かる結び方。

 子どもが目を丸くして、すぐ笑う。

 笑いは増えない笑いだ。助かる。


 ユリネが刺す。

「今のは直しじゃない。結びだ」

 線引き。線引きがあると増えない。


 直し屋の列は、昼前には短くなった。

 短くなったのに、誰も急いでいない。

 札があると、急がなくていい。

 急がないと、手が滑らない。

 手が滑らないと、直る。


 最後に、2番の札を持っていた人が、直った小箱を受け取って、深く息を吐いた。

「……助かった。勝手に触って、ごめん」

「謝るのは増えない」

 ユリネが言う。

「増えない?」

「増えない。次を呼ばないから」

 短い返しで終わる。終わると、場が軽い。


 結び家は、直し屋を“預け先”にしないで、家へ戻る。

 道だけ。線だけ。順番だけ。


 帰り道、レンカが小さく言った。

「直す順と受け取る順、二本だけで回ったね」

「二本で足りるのが生活だ」

 ユリネが言う。

「足りるって、いい」

「いいって言うな」

「……助かる」

 レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 家に戻ると、鍋が鳴っていた。

 湯気が上がる。

 湯気は増えていい。増える湯気は、今日が回った証拠だ。


 レンカが椀を持ち上げかけて、

「順番」

 ユリネが一言。

「……はい」

 レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。


 タケルが真顔で言った。

「シノ、今日、耐えたな」

「言うな」

 ユリネが刺す。

 シノは顔を動かさずに、箸を動かした。

 耳だけが、少し赤い。


 コトが笑う。

「照れても、奪わないのがいちばんえらい」

「褒めるな」

「……胸の中で褒める」

 コトが言い直して、湯気の向こうで目を細めた。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」

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