第33話 秤屋
朝市は、音で目が覚める。
声が先、つぎに袋の擦れる音、最後に小銭の跳ねる音。
そして今日だけ、もう一つ。
カチン。
硬いのに小さい音が、一定の間隔で鳴っていた。
一定は安心だ。安心は人を寄せる。寄ると列が伸びる。伸びると作法が揺れる。
「……音、気持ちいい」
レンカが言いかけた。
「気持ちよくするな」
ユリネが即座に刺す。
「えええ、でも、カチンって! 勝った音!」
「勝ち負けにするな。数だ」
「数?」
「数は増える。列が」
結び家が朝市に着いた時点で、列はもう一本できていた。
列の先には台。台の上には小さな皿が二つ。皿の間に棒。棒の真ん中に支点。
片方に袋、片方に分銅みたいな小石。
釣り合うと、ほんの少しだけ棒が落ちて、そこで鳴る。
角の秤屋の台から、カチンと音がした。
ミナギが顔を輝かせる。
「これ、量ってるやつだ! 便利! これで揉めない!」
「便利って言うな」
ユリネが刺す。
「でも揉めないって!」
「揉めないは嘘だ。揉め方が変わるだけ」
「えええ」
「揉め方が変わると、列が揺れる」
コトが列の横を見た。
列の横には、列に入りたい人が溜まっている。
溜まっている人の手には、袋がある。小さい袋、大きい袋、ちょっと濡れた袋、乾いた袋。
袋は生活だ。生活は優しい。優しいと譲る。譲ると列が崩れる。
「……あ、来た」
ハルが小さく言った。
列の中ほどで、年配の人が後ろを振り向いて、手を上げた。
「うちは少しだけだから、先にどうぞ」
先にどうぞ、は善意だ。善意は好きだ。でも今日は危ない。
「ありがとうございます!」
小さい袋を抱えた人が、列の横からすっと入る。
入った瞬間、後ろの人も同じ顔になる。
同じ顔は連鎖する。連鎖すると、列の線が消える。
「えっ、私も少しだけで……」
「いや、うちも、ほんの少し……」
「じゃあ、うちも……」
少しだけ、が増える。
少しだけが増えると、少しじゃなくなる。
少しじゃなくなると、誰も少しを守れない。
守れないと、言い方が刺さる。
「それ、横入りじゃない?」
誰かが言った。
横入り、は刺さる。刺さると空気が固くなる。固くなると、音が聞こえなくなる。
カチン。
台の上は落ち着いているのに、列だけが揺れていた。
揺れる列は、台に寄りたくなる。寄ると肩がぶつかる。ぶつかると台が揺れる。揺れるとカチンが消える。
消えると不安が増える。不安が増えると、また寄る。悪循環。
「寄るな」
ユリネが短く言った。
寄ってないのに言う。予防の言葉は増えない。助かる。
レンカが一歩出かけた。
泣かせない係の足だ。止めろ。
「並べる! 私、並べる!」
「並べるな」
「えええ、でも列が! 泣きそうな顔が!」
「泣きそうなのは列だ」
シノが、ぼそりと言った。
「……困ってるの、列」
列が困ってる。言い方が静かなのに刺さる。
刺さると、手が引っ込む。引っ込むと、線が戻る。
戻りかけたところへ、今度は別の善意が来る。
小さい子を抱えた人が、列の外から声を上げた。
「すみません、すぐ終わるなら先に……この子、重くて」
重い。重いは本当だ。本当だと譲りたくなる。譲ると、また崩れる。
レンカが息を吸った。
「先にどうぞ!」
と言いかけて、自分の口を押さえた。えらい。えらいが、目が苦しい。
ユリネの胸の奥で、別の言葉が立ち上がりかける。
所定人数。
紙の上に並ぶ、小さな枠。
数だけが先にある枠。
枠の数に合わせて、人を数えるやつ。
数えれば整う気がする。
整う気がすると、枠を増やしたくなる。
増やすと、また足りなくなる。
「……」
ユリネは息を吐いた。
ここは紙じゃない。ここは朝市だ。
枠で勝つんじゃない。生活で勝つ。
ユリネは口を開きかけた。
「札、回せ」
と言いそうになって、飲み込む。
朝市で札を振り回したら札が増える。増えた札は紙になる。紙は増える。負ける。
代わりに、ユリネは短く言った。
「並び直し」
たった四文字。
短いのに線になる。
コトが、すぐに線を拾った。
「はい、いまの位置、覚えて。先にどうぞは一人だけ。次は戻る」
戻る、があると譲れる。譲れると暴走しない。
タケルが真顔で列の端に立った。
立ち方が「道」だ。道があると、横から入れない。
「今いる人は、そのまま一列。横からは入らない。困ったら俺に言う」
真顔の短文は強い。強いけど刺さらない。
ミナギがやらかす。
「じゃあ俺、二つ持ってきたけど軽いから先で!」
「先にするな」
ユリネが即答する。
「えー」
「軽い重いで順番を変えると、次から全員が軽いって言う」
「言わない!」
「言う」
ミナギが口を尖らせた。
尖らせたまま、ちゃんと後ろへ下がった。下がれるなら勝ち。
子を抱えた人は、列の横で困った顔をした。
困った顔は刺さる。刺さるとレンカが動く。止めろ。
コトがにこっとして、でも声は増やさず言う。
「先にするのは一人だけ。代わりに、場所を作ります。ここ、壁じゃない」
壁じゃない、と言われると呼吸が戻る。
タケルが一歩ずれて、道を少し広げた。
広げるのは増やすじゃない。通る場所を作るだけ。これは大丈夫。
「……ありがとうございます」
抱えていた人は頭を下げて、そのまま列の外側で待つ形になった。
待つ形ができると、譲らなくて済む。譲らなくて済むと列が保つ。
列が保つと、音が戻る。
カチン。
カチン。
量りに置かれる袋が、少しずつ変わる。
乾いたもの、粉っぽいもの、硬いもの、ふわっと軽いもの。
説明はいらない。皿の傾きと手の動きだけで生活が見える。
レンカが我慢できずに小さく言ってしまう。
「カチン……落ち着く」
「落ち着くはいい」
ユリネが珍しく刺さずに言った。
刺さないと、レンカの肩がぱっと軽くなる。軽くなると手が動く。危ない。
「でも、落ち着くって言ったら増える?」
「増える」
「えええ」
「落ち着く人が増えると、みんな来る」
「……じゃあ、胸の中で落ち着く」
レンカが言い直した。言い直せるなら勝ち。
しかし、勝ちの直後に事故は来る。
列の前の方で、誰かが袋を二つまとめて皿に置いた。
ぐらっ。
棒が揺れる。皿が揺れる。支点が鳴らない。
鳴らないと、みんなが息を止める。
息を止めると、覗く。覗くと寄る。寄るとまた揺れる。
「まとめるな」
量り手が小さく言った。声は小さい。小さいから届かない。
「早くしたかっただけで……」
置いた人が慌てる。慌てると手が滑る。
カチン、が来ない。
来ないと、レンカの顔が泣きそうになる。
泣かせない係が、泣きそうになるのが一番危ない。
「触るな!」
ユリネが言った。強めの短さ。強い短さは許される。
タケルが真顔で、列の背中に手のひらを向ける。
「後ろ、一歩下がれ」
言い方が命令じゃない。指示だ。指示は生活だ。
みんなが一歩下がる。
一歩下がるだけで、台が息をする。
息をした台の上で、量り手が袋をひとつずつ置き直す。
すっ。
手が滑らない音。
カチン。
戻った。
戻った瞬間、列の空気がふわっと緩む。
緩むと、誰かが拍手しそうになる。拍手は増える。増やすな。
レンカが両手を握って耐えた。偉い。
ミナギが口を開けかけて耐えた。えらい。
コトが笑って耐えた。耐えるのが今日は勝ち。
「ひとつずつ」
ユリネが言った。
「ひとつずつ」
タケルが真顔で復唱した。
復唱は作法になる。作法になると、説明が要らない。
列の中ほどで、さっき「横入りじゃない?」と言った人が、隣に小さく囁いた。
「……さっき、ごめん。言い方、強かった」
言い方を戻すのは、生活の勝ちだ。
勝ちが増えると、列は勝手に静かになる。静かになるとカチンがよく聞こえる。
ところが、静かになると、別の“良いこと”が増える。
今度は誰かが言い出した。
「番号、ふった方が早いんじゃない?」
番号。
提案した人が、懐から短い木炭を取り出した。
取り出した瞬間、レンカの目がぎくっとする。
木炭は紙を呼ぶ。紙は札を呼ぶ。札は増える。
「書くな」
ユリネが即座に言った。
「えっ、でも地面にちょっとだけ……」
「ちょっとだけが増える」
「増えるって言いすぎじゃない?」
「言いすぎるくらいで止まる」
タケルが真顔で補助する。
「番号を作ると、番号の外が出る。外が出ると揉める」
「外?」
「並べなかった人。あとから来た人。たまたま迷った人」
真顔の列挙は怖い。怖いけど、想像しやすい怖さは止まる。
木炭を持っていた人は、ぽりぽり頭を掻いて引っ込めた。
「……じゃあ、どうやって覚える?」
「覚えない」
ユリネが言う。
「えっ」
「覚えないで回る形にする。並び直し、って言ったら戻る」
「戻れるの?」
「戻れる範囲で戻る」
戻れる範囲。
その言い方が生活だ。
完璧を捨てると、列が息をする。
列の端で、抱えていた人が小さく笑った。
「番号つけると、うちの子、数字言いたがって増えるかも」
増える、が今日の合言葉みたいになって、周りが少し笑う。
笑いは刺さらない。刺さらないから助かる。
ユリネの胸の奥で、また枠が光りかけた。
所定人数。
所定人数分。
所定人数の、外。
ユリネは、量りの音を聞いた。
カチン。
数は、ここにある。
ここでいい。
枠はいらない。
列が枠だ。列が生きてる方が強い。
「番号は要らない」
ユリネが言った。短い。短いから刺さらない。
「でも、覚えられないかも」
「覚えられないなら、並び直し」
また四文字。四文字で戻れるなら勝ちだ。
コトがにこっとする。
「番号じゃなくて、場所。ここに立ってた、でいい」
「……場所、か」
提案した人が頷いた。頷けるなら助かる。
レンカが列の端で、欠け桶の縁を指でくるっと回した。
癖が出ると危ない。けど今日は静かな癖だ。
静かな癖は、気持ちを落ち着かせるだけで増やさない。
「……並び直し、効いたね」
コトが小さく言った。
「効いたのは短さだ」
ユリネが返す。
「短いの、好き」
「好きとか言うな」
「……助かる」
コトが言い直して笑った。
朝市の用事が終わる頃、列は一本のままだった。
崩れそうになっても戻る。戻るなら勝ちだ。
抱えていた人も、最後はきちんと量ってもらえて、子を揺らしながら笑った。
笑いは増えない笑いだった。助かる。
帰り道、ミナギが悔しそうに言う。
「でもさ、横入り、譲ってあげたいじゃん」
「譲るなら一人」
ユリネが言う。
「一人だけ?」
「一人だけ。譲るのは優しい。増やすのは違う」
「……難しい」
「難しいから順番だ」
家に着くと、鍋の蓋が軽く鳴った。
湯気が上がる。
湯気は増えていい。増える湯気は、生活の勝ちだ。
レンカが椀を持ち上げかけて、
「順番」
ユリネが一言。
「……はい」
レンカが言い直す。言い直せるなら勝ち。
タケルが真顔で言った。
「今日のカチン、良かったな」
「良くするな」
「でも安心した」
「安心はいい。枠にするな」
「枠?」
「……なんでもない」
ハルが小さく頷いた。
「……線、戻った」
シノがぼそり。
「……音も、戻った」
ミナギが箸を持ちかけて、
「順番」
ユリネが刺す。
「……はい」
戻る。
戻るなら勝ちだ。
鍋の縁に匙が当たって、こん、と鳴った。
カチンじゃない。柔らかい音。
けれどユリネは、朝のカチンを思い出して、ほんの少しだけ肩を下げた。
数は、外じゃなくて生活の中にある。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




