第3話 回収線を引く神
山頂の朝は、きれいだ。
きれいなのに。
「……ぐぅ」
ハルの腹は今日も正直で、今日も遠慮がない。昨日みたいに山じゅうへ拡声されないだけ、腹の無礼がだいぶマシに見えるのだから不思議だ。
火守の小屋の周りだけ、いい匂いが残っている。
残っているのに、山頂全体には広がらない。
広がらないのが、ありがたい。
ありがたいのに、匂いは主張する。
主張の仕方が礼儀正しいのが、またややこしい。
火守は小屋の前で薪を一本だけ割っていた。一本だけ。ほどほど。一本でも火は生きる。火が生きると人も生きる。山頂の生活は、だいたいそれで成立する。
「昨日の匂い、残したままだな」
火守がぽつりと言った。
ハルは答えない。答えられない。答える語彙がない。
かわりに芋の干し物をぎゅっと握り、もう一口かじる。
かじる音は小さい。小さい音が小さいまま終わる。
それだけで今日は、だいぶ勝ちだ。
小屋の外で、スズが一度だけ大きくくしゃみをした。
「へくしゅんっ!」
くしゃみの音も、今日は増殖しなかった。
増殖しないくしゃみは、ちょっと笑える。
「よかったねスズ。くしゃみが山に反撃されてない」
カナメが淡々と言う。
「よくないよ! くしゃみが山に反撃される世界、普通に怖いよ!」
「昨日はそうだった」
「昨日が異常だったんだよ!」
スズは叫んでから、はっとして口を押さえた。叫ぶと響く。響くと嫌。嫌なのに、叫びたい。山頂は人の声の扱いが難しい。
カナメは昨日と同じ場所に立っていた。見張り番の立ち方だ。背中がまっすぐで、視線が遠い。遠い視線は噂を見つける。噂は見つけた時点で、もう半分燃えている。
「匂いの残り香は小屋周辺だけ。音の過剰は畳まれた。つまり」
「つまり?」
「噂になる」
「それ、結論がいつも同じじゃない?」
「噂はいつも同じ」
カナメは言い切った。見張り番は、言い切ることで生活を守る。言い切らないと、全部がふわふわしてしまう。ふわふわしたものは、アマネが盛りやすい。
そして、山頂にもう一つの影がある。
小屋の影で、通りすがりの大人が、今日も名乗らない顔で座っていた。
奪わない、耐える、照れる。
その三つを、今日もきちんと持っている。
火守がわざとらしく咳払いをして言った。
「いつまでも通りすがりで居座るつもりかい」
「……居座るつもりは」
通りすがりの大人は、言いかけて言葉を畳んだ。畳むのが上手い。
畳みすぎて、人生が小さくなりそうで怖い。
「匂いで来たんなら、匂いで帰るのかい」
「……帰り道を、探してます」
「探す暇があるなら名を出しな」
火守は、山頂の火の番のくせに、妙に現場の人間関係の勘がいい。火の番は、人の温度の番でもあるらしい。
通りすがりは、目を伏せた。
その仕草が、照れの仕草に見えてしまうのが、また腹立たしいほど優しい。
ハルは、通りすがりの大人を見て、首をかしげる。
大人なのに、肩が小さい。
小さいのに、目の奥がちゃんと大人だ。
スズが小声で言った。
「……ねえ、あの人、今日もいるの?」
「いる」
「居座ってない?」
「居座ってない顔でいる」
「それ、いちばん居座るやつ!」
「言うな。噂になる」
「もう噂になるって言った!」
「噂の種類が増える」
スズは口を押さえた。噂の種類は増える。増えた噂は、町の人の口で勝手に完成する。完成した噂は、現場に戻ってきて、現場を困らせる。
困らせる前に。
山頂の空気が、ひとつだけ変わった。
風が、軽くなる。
風が軽いと、人が来る気配がする。
足音が、普通に一回ずつ聞こえる。
普通に聞こえる、というのが、妙に怖い。
カナメが双眼鏡を覗いた。
「来た」
スズがひゅっと息を吸う。吸った音は増殖しない。増殖しないのに息が詰まる。
「誰!? 誰が来るの!? 山頂に!? 朝から!?」
「仕事が来る」
「仕事!? 仕事が足音で来るの!?」
カナメは双眼鏡を下ろし、言葉を落とした。
「ミナギだ」
その名を聞いた瞬間、火守の顔が「やっと来た」に変わった。
スズの顔が「来てくれて助かる」に変わった。
カナメの顔は、変わらない。変わらないけど、肩だけが一ミリ軽くなった。
ミナギ。
巡礼の後片付け担当。回収担当。
山頂の厄介ごとを「仕事」として拾い、麓へ戻す神じゃない人だ。
神界の盛りがどれだけ暴れても、最後に現場を回すのは、こういう人だったりする。
小屋の前に、ミナギが現れた。
髪をひとつにまとめ、背に袋を負っている。袋は重そうなのに、足取りが軽い。
軽いのに、目が鋭い。鋭いのに、声が柔らかい。
柔らかいのに、言葉が短い。
現場が回る人の気配だ。
「火守」
ミナギが言った。挨拶が短い。
「遅かったね」
火守が返す。責めているようで、責めていない。
「遅れた。山頂が“良すぎる匂い”を出したって聞いてね」
ミナギの視線が、小屋の周りをぐるりと撫でた。匂いを目で見る人の目だ。
「……残ってる。小屋の周りだけ。畳み方がうまい。誰が畳んだ」
火守が肩をすくめる。
「上だろうさ。こっちは火しか守れない」
ミナギはうなずき、次にハルを見た。
視線が、刺さらない。
刺さらないのに、逃がさない。
「君が、原因じゃないのに原因扱いされる子?」
カナメが横で言う。
「言い方」
スズが止める。
「分かりやすいだろ」
「分かりやすいけど、優しくない!」
ミナギが口元だけで笑った。笑い方が、やさしい。
やさしいけど、仕事の笑い方だ。
「原因じゃない。震源に見えるだけ。そういうの、よくある」
よくある。
山頂でよくある、って何。
スズが目を見開いたが、ミナギは続ける。
「火守。雲見台。状況を一息で」
カナメが即答する。見張りの報告は短い。
「朝日盛りすぎで音が過剰になった。音は畳まれた。次に匂いが良すぎて人が寄る。匂いは小屋周辺だけに残った。子どもがひとり。通りすがりがひとり。噂になる」
「最後だけいつも通りだね」
ミナギが言う。
「いつも通りが怖い」
スズが言う。
「怖いから仕事にする」
ミナギが言った。
その言い方が、妙に頼もしい。怖いものは仕事にすると回る。回ると生活になる。
ミナギはハルの前にしゃがんだ。
しゃがむ動きが、普通の一回で終わる。
普通の動きが、普通に見える。
普通が戻ってきた証拠だ。
「名前、言える?」
ハルは芋を抱えたまま、目をぱちぱちする。
昨日の朝日みたいに響かないまばたきだ。まばたきが普通だと、少し落ち着く。
「……は……る」
言えた。
言えたことに、本人が一番驚いている顔をする。
ミナギは、驚かない。驚かないのが仕事だ。
「ハル。いいね。短い。呼びやすい」
スズがこっそり言った。
「呼びやすいのが最強だよね」
「噂になりやすいのも最強だ」
カナメが余計なことを言う。
「言うな!」
スズが止める。止めると噂になる。噂は最悪だ。
ミナギはハルの手の芋を見た。
「食べてる。よし。眠れてる?」
ハルは首をかしげた。眠れてる、が分からないのか、眠れたけど答え方が分からないのか。どっちでもいい。ミナギはどっちでも仕事を進める。
「じゃあ、聞き方を変える」
ミナギは指を一本立てた。
「夜、寒かった?」
ハルが頷いた。寒いは分かる。
「怖かった?」
ハルは少し迷って、頷きかけて、やめた。
怖い、という言葉に「また盛られる」がくっついている気がするのかもしれない。
ミナギはうなずいた。
「よし。ここは、長居する場所じゃない」
その一言で、火守が大きく息を吐いた。
スズが「やっと言った」の顔をする。
カナメは最初からそう思っていた顔だ。
通りすがりの大人が、ぴくりと肩を揺らした。
肩が小さい人ほど「長居できない」に敏感だ。
ミナギは、通りすがりへ視線を向けた。
「そっちは」
「……通りすがりです」
通りすがりが言った。今日も通りすがりだ。
通りすがりのくせに、小屋の匂いの中にいる。
ミナギは首をかしげた。
「通りすがりが、匂いの中心に居座るのは、だいぶ面倒だね」
「居座ってないです」
通りすがりが反射で言った。言った音は普通。普通の反射は、ちょっと安心だ。
「じゃあ名を出せる?」
通りすがりは黙った。
黙ると、耐える。耐えると、照れる。
照れると、目が泳ぐ。目が泳ぐと、ミナギの仕事が増える。
ミナギはため息を吐かない。ため息は噂になる。噂は増える。増えると仕事が増える。増えると寝る暇がなくなる。寝る暇がなくなると、神界がまた盛る。
地獄の循環を、ミナギは嫌っている顔をしていた。
「じゃあ、仮の札をつける。奪わない顔、耐える顔、照れる顔。三つまとめて」
通りすがりが、顔を上げた。
その瞬間だけ、目が子どもみたいになった。
「……シノです」
ぽろっと出た。
出てしまった顔をして、すぐに口元を押さえた。
名を出すのは、居場所を作る行為だ。居場所を作るのが怖い人は、名を出すのが怖い。
スズが小さく言った。
「……名、出た……」
「噂になる」
カナメが即座に言う。
「言うな!」
スズが止める。止めると噂になる。噂はもう無理だ。
ミナギは、うなずいた。
「シノ。よし。これで仕事が減る」
「減るんですか」
シノが恐る恐る聞く。
「減る。名があると、呼べる。呼べると、順番が作れる。順番があると生活が回る」
ミナギは淡々と言った。
結び家の思想と似ている。順番が回ると人は泣かない。泣かないと神界が盛りにくい。盛りにくいと山が静かになる。静かだと噂が増える。増えるな。
ミナギは立ち上がった。
「火守。雲見台。回収線を引く」
火守が頷く。雲見台の二人も頷く。
ミナギは袋の口を開き、中から紙を一枚出した。紙だ。山頂に紙。紙はだいたい厄介の前触れだが、ミナギの紙は違う。現場の紙は、現場を救うためにある。
紙には、線が引いてある。まっすぐじゃない。山頂だから。山頂の線は、地形に合わせて曲がる。
「ここから先は、今日は使わない。ここからここまでが、今日の生活圏」
ミナギは指で示す。
線を引くと、世界が狭くなる。狭くなると、怖い。
でも狭くなると、守れる。守れると、安心する。
ハルは、線の意味は分からない。
でもミナギの指が落ち着いているから、なんとなく「これでいい」が分かる。
スズが口を尖らせた。
「えっ、山頂で生活圏って決めるの……? なんか……すごく……それっぽい……」
「それっぽいのが仕事だ」
カナメが言う。
「それっぽい仕事ってかっこいいね」
スズが一瞬だけ憧れた顔をした。
「噂になる」
「言うな!」
スズが自分で止めた。学習が早い。えらい。
ミナギは、次に、空を見た。
「上の盛りは、今日は落ち着いてる?」
カナメが言う。
「昨日よりは。音は畳まれた。匂いは畳まれた。残り香は小屋の周りだけ」
「残り香を残すのは、上のなおしが上手い」
ミナギは頷いた。
「でも残り香は、噂を呼ぶ。噂は麓に落ちる。麓に落ちる前に、こちらが先に落ちる」
落ちる、という言い方が豪快だ。
山頂から麓へ降りるのは、たしかに落ちるに近い。
火守が腕を組む。
「降りるのは、いつだい」
「今日じゃない。準備する。準備しない降りは怪我する」
ミナギが言い切った。怪我は暗くなる。暗いのはだめ。だから準備する。準備は明るい。
「明日。麓へ降りる段取りを組む。ハルは、今日もここで寝る。シノも。火守も」
「私はずっとここだよ」
火守が言う。火守は山頂の人だ。山頂の人は動かない。
「火守は火守として。シノは」
ミナギがシノを見る。
シノが小さく肩をすくめた。奪わない人の肩だ。
「……俺は、通りすがりなので……」
「通りすがりは終わった。名が出た」
ミナギが淡々と言う。
「今日からは“手伝い”だ。手伝いは偉い。奪わないならなおさら」
シノの顔が赤くなった。照れが仕事に採用された顔だ。
「……はい」
短い返事。短い返事は回る。
ミナギは最後に、ハルへ視線を落とした。
「ハル。明日、歩ける?」
ハルは芋を握ったまま、足元を見て、もう一度自分の足を見た。
昨日より、足が自分のものに見える。
自分のものに見えると、歩ける気がする。
ハルは、小さく頷いた。
頷いた音が、普通に終わった。
普通が終わると、世界が回り出す。
---
神界。
ゆれりん。
鳴った。今日もかわいい。かわいいのに職員室が「やばい」の形に折り畳まれる。折り畳まれると紙が増える気がする。増えないのに増える気がするのが怖い。
「急案件です!」
チヨが走ってきた。走りながら角を揃えようとしている神の動きだ。角を揃えたい神は危ない。学習は遅い。今日も遅い。
「し、失礼、急案件です! 地上、真昼山! 回収担当が動きました!」
マドカが即座に言う。
「現場が動くなら、こっちは軽めでいい」
ナギがきれいな声で刺す。
「盛りは不要。汚れが増える」
アマネが扉から顔を出した。今日も盛れている。盛れているのに、今日は少しだけ慎重な顔だ。昨日の反省会が効いているのかもしれない。議事録の力は侮れない。
「えっ、回収担当って、ミナギ? ミナギが動いたなら、おねぇちゃんは応援に……」
「応援は禁止です」
院代のにこにこ怖い声が即座に落ちる。
「現場の生活が回り始めた時、神が応援すると盛りすぎます。今日は見るだけ。見るだけでも盛らないでね」
「見るだけで盛るって、どういう」
「あなたです」
院代がにこにこしたまま断言した。怖い。正しい。怖い。
ゲンたちが工具箱を閉めながら言う。
「匂いは小屋周辺だけ残す。音は畳んだ。あとは現場が回す。地上が生活に戻ったら【幸】」
掲示板の横に【幸】が、角ばった小さい字で待機している。
待機の仕方が勤勉だ。勤勉なスタンプは、押されるのが嬉しい。嬉しいスタンプは怖い。
マドカが短く言った。
「では朝礼終了。反省会は夕」
職員室の椅子が一斉に鳴った。鳴り方が揃っている。揃っているのが怖い。角が揃っている。
アマネが小さく拳を握って、でも言い直した。
「……ほどほどに、見守る」
その言い直しは、ちょっとだけ偉かった。
---
山頂。
火守の小屋の前で、ミナギが線を引いた紙を折りたたむ。
折りたたむ音が普通に終わる。
普通が終わると、今日が終われる気がする。
スズが、ハルを見て、にへっと笑った。
「ねえ、ハル。明日、降りるって。降りるって、すごいよ」
ハルは笑う。笑う音は増殖しない。笑いが普通だと、胸が少し軽い。
シノが、火のそばで、芋をもう一口かじった。照れた。照れは今日も健在だ。
ミナギが言った。
「今日は、寝よう。寝るのも仕事。山頂では特に」
火守が頷く。
「そうだね。生きてるなら寝ろ、ってやつだ」
その言い方が、どこか麓の声に似ていて、カナメが少しだけ眉を上げた。
麓には、別の生活がある。飯と湯と順番の生活がある。
そこへ向かう準備が、今、始まった。
小屋の周りだけ、いい匂いが残っている。
残り香は薄い。薄いけれど、確かにある。
それは「明日も回せる」の印みたいだった。




