第28話 湯屋で桶が迷子
湯屋は、湯気で顔が見えなくなる場所だ。
顔が見えなくなると、だいたい安心する。
安心すると、油断する。油断すると、迷子が増える。
「今日は、ご褒美だ」
タケルが真顔で言った。
「ご褒美って言うな」
ユリネが即座に刺す。
「でも湯屋はご褒美だろ」
「ご褒美に浮かれて順番を溶かすな」
結び家は、夕方の仕事を片づけてから湯屋へ向かった。
空はまだ明るい。明るいのに、湯屋の入口だけがいつも少し夜みたいだ。
湯気の匂いが、外まで染み出している。
「……あったかい匂い」
シノが小さく言った。
匂いを褒める時のシノは、声がさらに小さくなる。
入口の木戸を開ける。
きい、と鳴る。鳴り方が生活。
中から、わちゃっとした笑い声と、ぱしゃぱしゃの水音が混ざって出てきた。
「混んでる?」
レンカが目を輝かせる。
目が輝くと、善意が走る。善意が走ると、桶が動く。
「走るな」
ユリネが言った。
「走らない! でも、置きに行く!」
「置くな」
「えええ」
湯屋の棚には、桶が並ぶ。
並ぶが、並び方は人の数だけ違う。
違うと、探す。探すと、迷う。迷うと、声が増える。声が増えると、湯気が濃くなる。
「湯気って、増えるんだな」
タケルが真顔で言った。
「増やすな」
ユリネが刺す。
結び家がいつも持っていくのは、欠け桶だ。
角が欠けた木の桶。
目印で、助けで、生活の道具。
そして、今日は湯屋でも目印になるはずだった。
ユリネが欠け桶を棚に置いた。
置き方が迷いない。
迷いがないと、周りが安心する。安心すると、みんな勝手に動き出す。
「私、洗う札!」
レンカが言いかけた。
「札は濡らすな」
ユリネが即答した。
順番札は紙だ。紙は湯に弱い。湯は優しいのに紙には厳しい。
「じゃあ、札は外に掛ける!」
レンカが言い切った。
入口脇の釘に、結び家の札が一列で掛かる。
生成りの紙。丸い角。穴あけ。
大きい数字と一語タグ。
湯。
その一枚が揺れる。
揺れるだけで、今日の順番が「ちゃんとある」気がする。
「……よし」
ユリネが頷いた。
頷いたところで、レンカがまた動く。
「桶、いっぱいある! 貸せる!」
「貸すな」
「でも困ってる人が!」
レンカの視線の先。
小さい子が、棚の前で立ち尽くしている。
家の人は奥で笑ってる。笑ってるから気づかない。
子は桶を探している顔だ。
探している顔は、すぐ泣く。
泣く前に手を出すのが、レンカの癖。泣かせない係が勝手に発動する。
「貸す!」
「貸すな」
ユリネの声が飛ぶのと同時に、レンカの手が欠け桶へ伸びた。
伸びた手は止まらない。止まらない手は、善意の暴走だ。
「待て!」
ユリネが言った。
言った時には、もう遅い。
レンカが欠け桶を持ち上げて、子の方へ向けた。
湯気の向こうで、子の顔がぱっと明るくなる。
明るくなる顔は、刺さる。止められない。
「これ、使う? 欠けてるけど、使える!」
「欠けてる!」
子が目を輝かせた。
輝くな。輝くと、次が起きる。
「欠けてるの、かっこいい!」
「かっこよくするな」
ユリネが刺した。
刺したが、子はもう欠け桶を受け取っている。
欠け桶が、結び家の手から離れた。
離れた瞬間、目印が消える。
目印が消えると、結び家の動きが一瞬だけ止まる。
「……欠け桶、いった」
ハルが小さく言った。
ハルの一言はいつも、事故の見出しだ。
「貸すなって言っただろ」
ユリネが言う。
怒ってない。怒ると湯屋が冷える。湯屋は冷やさない。
「だって泣きそうだった!」
「泣かせない係、発動しても、順番は守れ」
「順番!」
レンカが復唱して、少しだけしゅんとなる。
しゅんとなると、湯気が優しくなる。
タケルが真顔で言った。
「でも、欠け桶が無いと、俺らが迷子になる」
「迷子になる前に、戻す」
ユリネが短く言った。
「返してって言う?」
レンカが小さく言う。
「言うな」
「えええ」
「言うと、湯屋が止まる。止まると、みんなが入れ替わる。入れ替わると、もっと迷子が増える」
ユリネは指を二本立てた。
「一、入る。二、出る。欠け桶は出る時に戻す」
「出る時!」
レンカが復唱する。
復唱があると、手順になる。手順になると、泣かない。
結び家は、欠け桶なしで湯へ向かった。
湯屋は、桶がなくても湯気はある。
だが桶がないと、人は手が落ち着かない。落ち着かないと、洗い方が雑になる。雑になると、湯が濁る。濁ると、また声が増える。
「……桶、貸してもらう?」
シノが小さく言った。
言い方が遠慮深い。遠慮深いのに、周りは優しい。
「どうぞ」
隣の人が、普通に桶を差し出した。
普通に差し出す優しさは、湯屋の作法だ。
しかし、普通は混ざる。
混ざると、入れ替わる。
入れ替わると、誰の桶か分からなくなる。
「……これ、誰の?」
タケルが真顔で言った。
手に持ってる桶を見ている。
見ているのに、答えが出ない顔。
「お前のじゃない」
ユリネが即答した。
「即答だ」
「湯屋で迷う顔をしてる桶は、だいたい借り物だ」
湯気の向こうで、子どもたちが走っている。
走ると桶が動く。桶が動くと棚が揺れる。棚が揺れると、置いた桶がずれる。
ずれると、目印が消える。
「目印、欲しい」
レンカがぽつりと言った。
言い方が、箱の時と同じだ。欲しいは危ない。
「欲しいで止めろ」
ユリネが言った。
「……目印、欲しい」
レンカが言い直した。言い直せるのは偉い。
湯の中で、ハルが小さく息を吐いた。
「……欠け桶、あると、探さない」
探さない、は勝利だ。
探さないと、湯が湯のままで終わる。
その時だった。
「ねえ、これ、欠けてる!」
子どもの声が響いた。
欠けてる、が響くと、欠け桶が波になる。
「欠けてるの、いいよね!」
「いいって言うな」
ユリネが湯の中から刺した。
刺したのに、声は湯気で丸くなって、怒ってないように聞こえる。湯屋はそういう場所だ。
欠け桶は、子どもたちの間で回り始めていた。
回すな。
回すと、順番が溶ける。溶けると、最後に泣く。
レンカが立ち上がりかけた。
立ち上がると水が跳ねる。跳ねると周りが見る。見ると止まる。止まると入れ替わる。
止まれ。
「座れ」
ユリネが言った。短い。
「でも!」
「湯は逃げない。順番」
ユリネの口調型が出た。
出ると、レンカが座る。座れるなら勝ちだ。
代わりに、コトが小さく動いた。
立たない。叫ばない。
湯の縁まで、すっと寄る。
「それ、欠けてる桶、いいね」
コトがにこっと言った。
褒めるのに、煽ってない。コトの褒めは、止める褒めだ。
子が顔を上げる。
「ね、かっこいいでしょ!」
「うん。かっこいい。だからね」
コトが指を一本立てる。
「返す時は、欠けを見せて返す」
「欠けを見せて?」
「欠けを、こっち」
コトが棚の方を顎で示した。
指差さない。湯屋の礼儀。
「返す場所、ここ」
棚の端。
入口に近いところ。
人が通るけど、ぶつからない場所。
コトは一言だけ付け足した。
「欠けは、目印」
目印。
その一語で、子の顔が「役目」になる。
役目があると、子は真面目になる。真面目な子は泣かない。
「わかった! 目印!」
子が復唱して、欠け桶を抱えたまま棚へ向かった。
走らない。
走らないのが、今日いちばんえらい。
欠け桶が棚に戻る。
戻るだけで終わるはずだった。
戻った瞬間、別の大人が言った。
「あ、これ、うちの?」
言い方が半分疑いだ。
疑いは、湯屋で刺さる。刺さると空気が固くなる。固くなると、湯が冷える気がする。気がするだけでも嫌だ。
「違う」
ユリネが即答した。
「えっ」
「欠けてる。うちのだ」
ユリネは言い切る。
言い切りは強い。強いが、湯屋では強くしすぎない。
そこでレンカが、やらかす顔をした。
「じゃあ、うちのって書けば……」
「書くな」
ユリネが刺した。
「えええ」
「書くと、書けない桶が泣く」
「桶、泣く?」
「泣く。持ち主が困る」
ユリネは欠け桶の縁を、とん、と叩いた。
欠けている角。
欠けは説明じゃない。目で分かる。
分かるものは、増えない。
「欠けで十分」
ユリネが言った。
「欠けで十分」
ハルが小さく復唱した。
復唱が増えると、湯屋の作法になる。
大人は「そっか」と言って、手を引っ込めた。
引っ込め方が素直だ。素直は助かる。
欠け桶が戻った。
戻ったら、次は「迷子」を回収する番だ。
タケルが真顔で言った。
「でもさ、さっき俺ら、桶借りたよな」
「借りた」
「返す場所、分かんない」
「分かる」
ユリネが即答する。
ユリネは、入口の札を顎で示した。
湯。
揺れてる。
「出る時に、湯札の下へ戻す」
「札、濡れるじゃん」
「札は外だ。桶は乾く」
「なるほど」
タケルが真顔で頷いた。
レンカが目を輝かせた。
「じゃあ、湯札が目印だ!」
「増やすな」
ユリネが刺す。
「増やさない! でも、目印!」
「目印は一つでいい」
一つでいい。
一つでいい、が言えると、世界が静かになる。
静かになると、湯の音が戻る。ぱしゃぱしゃ。
湯屋の奥で、誰かが笑った。
笑いはいい。
笑いが「誰かの泣き」を押し流さない範囲なら、湯屋は勝つ。
しばらくして、結び家は順番に湯から上がった。
上がると、湯気が薄くなる。薄くなると、顔が見える。
顔が見えると、だいたい安心する。安心すると、また油断する。
油断しそうなレンカの手を、ユリネが見た。
見た瞬間、レンカが手を引っ込めた。
引っ込められるなら偉い。
「返す」
レンカが小さく言った。
「返す」
コトが頷いた。
「返す場所は?」
シノが小さく言う。
「湯札の下」
タケルが真顔で答えた。
「……欠けは入口」
ハルが小さく付け足した。
いい。
口で回る順番が、今日はちゃんと一本になっている。
借りた桶が、湯札の下に戻る。
戻したら終わり。
終わりがあるから、迷子が増えない。
最後に、欠け桶が棚から抱えられて結び家の手に戻った。
欠けた角が、湯気の中で一瞬だけ光った。
光るのは宝じゃない。目印だ。生活だ。
「欠け桶、かっこよかった!」
さっきの子が、満足そうに言った。
「かっこよくするな」
ユリネが刺す。
「でも、役目あった!」
子が胸を張る。
役目がある顔は泣かない。
レンカがそれを見て、少しだけ嬉しそうに笑った。泣かせない係が報われた顔だ。
結び家は帰り道、夜風に当たった。
湯のあとに風が来ると、体が「生きてる」って言い出す。
言い出すと腹が鳴る。腹が鳴ると、家が近い。
家に戻ると、ユリネが鍋の蓋を開けた。
湯屋の湯気とは違う、飯の湯気が上がる。
それだけで、今日が回収される。
レンカが小さく宣言した。
「今日、桶を迷子にしたけど、泣かせなかった!」
「迷子にしたのはお前だ」
ユリネが言う。
「でも泣かせなかった!」
「泣かせないのはいい。増やすな」
「増やさない!」
レンカが口を押さえて笑う。笑いは増えない笑いだ。
タケルが真顔で言った。
「欠け桶、今日めっちゃ働いたな」
「働いたのは順番だ」
ユリネが言い切る。
ハルが小さく頷いて、欠け桶に触れた。
「……目印、あると、迷わない」
迷わない。
それが今日の勝ち。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




