第25話 【欄】と、掲示板が増える日
織帳院の朝は、だいたい「貼ったもの」から始まる。
貼ったものが多い日は、だいたい「泣いたもの」も多い。
申請受付審査室。
はんこ係のチヨは、机に突っ伏していた。
突っ伏していると言っても、寝ているわけではない。
肩が小刻みに揺れている。
机の上には、角が揃った紙束と、角が揃っていない紙束と、揃える努力だけが残った紙束が、三すくみをしている。
「……いや……いやぁ……」
泣き崩れている。
ただし、悲劇の泣きではない。
業務の泣きである。
壁の方から、無言の圧が来ていた。
職員室側の掲示板。
いや、今日はもはや「掲示板」ではない。
「壁」だ。
張り紙が、端から端まで、隙間なく並んでいる。
並び方だけ無駄に綺麗だ。
上の列の角と下の列の角が、そろっている。
そろっているのに、なぜか目が痛い。
目が痛いのは、内容が全て同じだからだ。
いちばん上。いちばん太い字。
まるで今日の天気。
『欄の増殖は申請では止まらない』
太い。
太いのに、言い訳がましい。
言い訳がましいのに、完全に負けを認めている。
認めた上で、まだ増える。最悪。
机の横では、現象スタンプ【欄】が、妙に元気に待機していた。
四角い枠の中に、四角い「欄」。
シンプルで、憎い。
チヨが涙目でスタンプ台を抱きしめる。
「【欄】……押しても……押しても……増えるんですぅ……」
「押すな」
どこからか、乾いた声が飛んだ。
マドカだ。扉の外、まだ部屋に入っていない位置から言う。距離があるのに刺さる。経験がある声。
「押さないと……報告が……」
「押すと増える日がある」
「今日がその日なんですぅ……!」
チヨの敬語が、崩れて戻らない。
崩れた敬語が机に落ちて、机がまた濡れる。濡れると紙が重い。紙が重いと角が揃わない。角が揃わないと泣く。無限。
その時、扉が勢いよく開いた。
「チヨー! おはよー!」
主犯神アマネだった。
元気。明るい。涙ゼロを目指して周囲の涙を増やすタイプの元気。
胸を張って、いつもの決め台詞を放つ。
「おねぇちゃんに、まかせて!」
「まかせた結果がこれですぅ……!」
チヨが机に突っ伏し直した。二回目の崩落。
崩落が二回目になると、部屋全体が少しだけ慣れる。慣れるな。
アマネは壁を見て、きらきらした目で言った。
「わぁ……欄、いっぱい!」
「いっぱいじゃない。埋まってる」
マドカが返す。
「埋まってるなら、増やせばいいじゃん」
「増やすな」
「増やしてないよ? 増えてるだけだよ?」
「増えてるのを触るな」
「触らないと、整わないよ?」
正論で殴るな。
ここは職員室だ。
職員室は戦場じゃない。戦場じゃないからこそ、正論が刺さる。
アマネはチヨの机の上の紙を一枚つまんだ。
つまんだ瞬間、紙の余白が、ふわり、と広がった。
広がったのは紙じゃない。
罫線だ。
縦の線が一本、勝手に増えた。
横の線が一本、勝手に増えた。
枠が生える。欄が生える。
音がしないのが、いちばん怖い。
「ほら見て! 欄、増えた!」
「増えたを喜ぶな」
マドカが即座に刺す。
「でも欄が増えたら、書けるところが増える!」
「書くところが増えるから泣いてるんだ」
ナギが入ってきた。案件次第で叱り梯子の途中に立つ人。今日は顔が半分だけ疲れている。
チヨが涙目で顔を上げた。
「……角が……角が揃わないぃ……」
机の上の三すくみが、今日も絶望的に仲良しだ。
揃っている紙束。
揃っていない紙束。
揃える努力だけが残って、なぜか欄が増えた紙束。
アマネが、両手を合わせた。
やめろ。その手はだいたい世界を盛る手だ。
「じゃあさ、欄が足りないなら、欄を足す!」
言い切った。
堂々と。
賢くない笑顔で。
「足すな」
「足すな」
「足すなぁ……!」
マドカとナギとチヨが、三重に言った。
三重の即答は強い。
なのに、アマネは首を傾げる。
「え、でも、足りないんだよ? ほら、ここ! ここの欄、もう一列増やせる!」
「増やすな」
「増やせるって言ったのに」
「言うな」
言葉の順番が、完全に負けている。
負けているのに、アマネは元気だ。元気が一番しぶとい。
そこへ、廊下から「ごろごろ」という音が来た。
台車の音だ。
職員室に台車が来る日は、だいたい何かが増える。今日はすでに増えている。増えるな。
扉が開いて、主任級が持ち回りで運ぶ担当の人が、台車を押して入ってきた。
今日は誰だ。今日は……名札が見えない。見えない方が楽だ。名を増やすな。
「……届きました」
担当が言った。
「何が」
マドカが嫌そうに聞く。
「掲示板です」
掲示板。
新しい掲示板。
壁がすでに掲示板なのに、掲示板が増える。
職員室は、矛盾を矛盾のまま通す場所だ。最悪。
台車の上には、木枠の板が乗っていた。
四角い。綺麗。
綺麗なのがいちばん怖い。綺麗なものは、汚れる未来が確定している。
チヨが涙目のまま、板を見た。
「……角……」
「見るな」
ナギが言った。
「チヨの角欲が起きる」
「角欲って何ですかぁ……!」
チヨが叫びかけて、自分で口を押さえた。今日は声量も崩れている。
アマネが、掲示板に手を伸ばした。
伸ばすな。
伸ばすと、増える。
「わぁ! これがあれば、欄をまとめて貼れるね!」
「貼るな」
「でも貼らないと、壁が埋まって……」
「もう埋まってる」
マドカが淡々と言い切る。
言い切りが乾いている。乾いているのに、壁の紙の湿気で少しだけ柔らかく聞こえるのが悔しい。
アマネは掲示板をじっと見た。
見ている顔が、完全に「欄を作る顔」だ。
「……ねえ」
アマネが言った。
嫌な予感が立つ。
予感が立つと、ゆれりんが揺れる。揺れる前に止めろ。
「掲示板ってさ、板でしょ?」
「そうだ」
「板ってさ、線が引けるよね?」
「引くな」
マドカが早すぎる。反射神経が職員室向き。
だが、アマネは止まらない。
止まらないのに、本人は止めているつもりの顔をする。危ない。
「線を引いたら、欄になるじゃん!」
「なるな」
「欄になるなら、欄を足せるじゃん!」
「足すな」
「足すって言うな」
「……でも足りないなら」
アマネの目がきらきらした。
「欄が足りないなら、欄を足す!」
二回目。
確定。
確定は、事故の合図。
チヨが机に突っ伏して呻いた。
「……角が……角が揃わないぃ……」
なぜ角が揃わないのか。
理由は簡単だ。
揃えようとすると、欄が喜ぶからだ。
紙束の角をトントンと揃える。
揃った瞬間、紙の横腹から罫線が増える。
罫線が増えると紙が微妙に広がる。
広がると、次の一枚と角が揃わない。
揃えようとすると、また欄が増える。
無限。
欄が、無限。
「張り紙、見たか」
ナギが掲示板の一行を指差した。
太い字。太い負け。
『欄の増殖は申請では止まらない』
「止められないのに、なぜ増やす」
マドカがアマネを見た。
「増やしてないよ?」
アマネが胸を張る。
「増えてるだけだよ?」
「増えてるのを触ってる」
「触ってないよ? 整えてるだけだよ?」
「整えるな」
整えるな、が今日の合言葉になっている。
合言葉が増える日は、だいたい仕事も増える。最悪。
その時、ゆれりんが、りん、と鳴った。
職員室全体が一瞬だけ止まる。
止まってから、みんな同じ方向を見た。
外直結の方。
つまり、現象が外へ漏れる前に処理しろ、の合図。
漏れる前に、って言うが、すでに漏れている気がする。気のせいであってくれ。
「……ゲン、来る」
ナギが呟いた。
「ゲン印【幸】は、まだ早い」
マドカが言う。
「早いのに呼びたくなるのがアマネだ」
「呼びたくならないよ!」
アマネが元気に否定した。
否定が元気だと、だいたい呼ぶ。
チヨが涙目でスタンプ台を見つめた。
現象スタンプ【欄】。
押したい。押さないと報告ができない。押すと増える。
板も来た。掲示板も来た。欄も増える。
泣く。
「……押していいですかぁ……」
「押すな」
「押さないと……」
「押すと増える」
「もう増えてますぅ……!」
泣きの方向が確定している。
確定しているのが、ある意味で強い。
強いけど、救ってほしい。
そこへ、職員室の奥から、にこにこが来た。
「おはようございます」
院代。
にこにこ怖い。
男性陣は「先生」、女性陣は「にこちゃん先生」と呼ぶあの人だ。
にこちゃん先生は、机の上の紙束と、壁の張り紙と、新しい掲示板を一度に見た。
一度に見て、にこにこしたまま、頷いた。
「……増えていますね」
一言だけ。
一言だけなのに、全員が背筋を伸ばす。
職員室は、生活の場所だ。生活の場所にも、たまに“先生”がいる。怖い。
にこちゃん先生は、にこにこしたまま、新しい掲示板の前に立った。
板に手を触れない。
触れないのに、板の縁を見ている。
縁が綺麗だと、角を揃えたくなる。
角を揃えると、欄が喜ぶ。
チヨが泣く。
だから、見ているだけ。
「掲示板は、貼る場所ではなく、置く場所にしましょう」
短い指示。
説明じゃない。
指示は増えない。増えないのが救い。
ナギがはっとした顔をした。
「置く、か」
マドカが頷く。
「貼るから増える。置くなら増えない……たぶん」
「たぶんって言うな」
チヨが泣き声で突っ込んで、また自分で口を押さえた。崩れた敬語が今日も暴れる。
アマネは掲示板の前で、両手を合わせた。
合わせるな。
合わせると、世界が盛られる。
だが、にこちゃん先生が見ている。今日は盛り方を間違えると怒られる。たぶん。
「じゃあ、置くために……欄を足す!」
「足すな」
マドカが即座に刺す。
「欄がないと置けないよ?」
「置ける」
にこちゃん先生が、にこにこで言った。
その一言で、アマネの口が閉じた。先生は強い。
掲示板の前に、机から紙束が運ばれる。
運ぶのはナギ。
チヨは触らない。触ると泣く。
マドカは遠くから監督する。監督がいちばん安全。
紙束が掲示板の下段に置かれた。
置かれた瞬間、紙の罫線が、ふわり、と増えた。
増えたのは紙じゃない。
欄だ。欄だけだ。
「……ほらぁ……」
チヨが泣き声を漏らす。
「増えても、置いたままなら角は揃う」
ナギが言う。
「揃う……?」
「揃っているフリができる」
マドカが淡々と補足する。
揃っているフリ。
職員室の最終兵器。
チヨの肩が、少しだけ下がった。
泣きが止まりかける。
止まりかけると、アマネが余計なことを言いたくなる。最悪。
「じゃあ、掲示板の中にも欄を作ったら、もっと揃うよね!」
「作るな」
「でも、板って線が引けるし」
「引くな」
ツッコミが追いつかない。
追いつかないと、アマネが勝つ。
勝たせるな。今日は欄が勝ってるだけで十分だ。
そこへ、廊下から、重い足音が来た。
来る。来るやつだ。
空気が「来る」に変わる。
扉が開いて、ゲンが入ってきた。
ゲン印係。
ハンコの中でも、判定の方のハンコ。
朱肉の匂いが、職員室の空気を一段だけ「終わり」に寄せる。
「まだ終わってない顔だな」
ゲンが言った。
「終わってません……!」
チヨが即答する。泣き声が混ざっている。
「終わってません」
マドカも言う。乾いている。
「終わらせないよ!」
アマネが元気に言う。元気が余計だ。
ゲンは壁を見た。
張り紙が隙間なく並ぶ。
並び方だけ無駄に綺麗。
掲示板が増えた。
欄は増え続ける。
職員室は今日も負けている。
「……よし」
ゲンが短く言った。
短い「よし」は怖い。
怖いのに、なぜか救われる。
終わりの匂いがするからだ。
ゲンは朱肉を開けた。
赤が見える。
赤が見えると、人は勝手に「もう大丈夫」と思う。
思うと、気が緩む。
緩むと、アマネが――。
「ゲン印、押したら終わり?」
「終わりにする」
ゲンが即答した。
「早い!」
マドカが言う。
「早いのに終結判定出すのがゲンだ」
ナギがぼそり。
「違う。出せる時に出す」
ゲンは淡々と返した。淡々がいちばん強い。
チヨが涙目で、でも少しだけ期待の顔をした。
期待は危ないが、今日は許す。
今日は泣き崩れの日だ。救いが必要だ。
ゲンは、机の上の紙束を一枚だけ引いた。
引いた瞬間、罫線が増えた。
欄だけが増えた。
増えた欄が、紙の端まで達して、角がふわっとずれた。
チヨが「ぁ」と声にならない声を出した。
角が揃わない。角が揃わないと泣く。泣くな。
「角は揃わない日だ」
ゲンが言った。
言い切りが、なぜか優しい。
優しいのに雑。雑なのに助かる。
ゲンは、印を構えた。
朱肉をつける。
紙の上へ。
そして、どん。
ゲン印【幸】。
赤が、綺麗に乗った。
綺麗に乗るのが、むかつくくらい気持ちいい。
欄が増えても、赤は増えない。
増えないものが一つあると、人は立て直せる。
ゲンが、職員室に向けて言った。
「終いが良ければそれでよし!」
雑だ。
雑なのに、空気がふっと軽くなる。
軽くなると、チヨの肩が下がる。
肩が下がると、泣きが収まる。
収まったところで、アマネが胸を張った。
「ほら! おねぇちゃんに、まかせて!」
「任せた範囲を覚えてください!」
チヨの声が、泣き声じゃなくなっていた。
怒り声に近い。怒れるなら勝ちだ。
にこちゃん先生が、にこにこしたまま頷いた。
「……よし。生きていますね」
その一言で、職員室の「終わり」が確定した。
掲示板は置く場所になった。
壁の張り紙は増えたままだ。
欄は増え続ける。申請では止まらない。
でも、朱が乾いた。
乾いた朱は、今日の勝ちの印だ。
ゲンが朱肉を閉めながら、最後にもう一度だけ言った。
「よし。次」
次。
職員室の次は、だいたいまた事故だ。
事故でも、湯は沸く。
沸くなら、回る。
チヨは机に突っ伏さずに、椅子に座り直した。
座り直せたなら、今日は勝ちだ。
壁の一行が、太い字で見下ろしている。
『欄の増殖は申請では止まらない』
止まらないなら、止まらないまま回す。
回すのが職員室の生活だ。
アマネが小さく囁いた。
「……じゃあ次は、欄を……」
「触るな」
マドカ・ナギ・チヨが、また三重に言った。
三重の即答は、今日も強い。
そしてゲンは、雑に勝ちを持ち去る。
朱の匂いだけ残して。




