第24話 洗濯の取り違え未遂
洗濯は、たぶん戦いじゃない。
でも、晴れた日に限って風が強い。風が強い日に限って布が多い。布が多い日に限って「手伝うよ」が集まる。
集まると、混ざる。混ざると、間違える。
間違えると、だいたい「善意」が一番困る顔をする。
「……洗」
結び家の柱から、ユリネが札を一枚外した。
厚めの紙。生成り。角が丸い。穴がひとつ。
そして真ん中に、でかい数字。でかい数字の下に、一語だけ。
洗。
「今日、洗」
「洗!」
レンカが反射で復唱して、すでに袖をまくっている。早い。早いのは悪じゃない。早いのは、方向が要る。
「先に水を汲め」
ユリネの声が先に刺さる。
「汲む!」
レンカが走りかけて止まった。
「……走るな」
「走ってない!」
「走りそうな顔をやめろ」
乾いた返しに、レンカが悔しそうに笑った。笑えるなら勝ち。
水場には、桶が二つ。
桶の横に、札がもう一枚ぶら下がっていた。
洗の札の数字が、朝の光でやけに目立つ。
「でかいね」
コトが言う。
「見落とせないように、でかい」
ユリネが短く返す。説明じゃない。事実だけ。事実は増えない。
布が集まる。
タオル。服。ひも。小さい布。大きい布。
ハルは黙って布をたたんでから、洗い籠へ入れる。たたんでから入れると、洗う前に既に「戻す」気持ちがある。強い。
タケルは、布の量を見て眉を寄せた。
「……今日、干すのも多いな」
「干は後」
ユリネが切る。
後と言えると、今が軽くなる。
シノは布の端をつまんで、指先で小さく確かめる。
指先だけで分かることがある子は、洗濯で強い。
「……ふわ」
シノがぼそり。
誰も拾わない。拾うと、言葉が増える。言葉が増えると、手が止まる。今日は手を動かす日だ。
そこへ、戸の外から声がした。
「おーい、結び家。今日、洗い? うちも洗いだよ」
近所のおばさんが、籠を抱えて立っていた。
籠の中も布だらけ。布だらけの顔は、助けたくなる。助けたくなるのが、事故の入口。
「場所、借りていい?」
「いい」
ユリネは即答した。
即答は優しい。即答は危ない。でも、即答の後に手順が来るなら勝てる。
「欠けまで」
ユリネが、水場の端の石の欠けを指でとん、と叩いた。
「欠けまで?」
「欠けまで。籠はそこ。道を空けろ」
道が空く。
道が空くと、布が通る。布が通ると、桶が動く。桶が動くと、水が跳ねる。
跳ねる前に、線を引く。欠けは線になる。
レンカが、おばさんの籠を見て、目を輝かせた。
「私、洗うの手伝う!」
「手伝うな」
ユリネが即座に言った。
「え、でも同じ洗いだし!」
「同じだから混ざる」
混ざる、の一言で、レンカの手が止まる。止まれるのが偉い。
おばさんが笑った。
「うちのは見れば分かるよ。ほら、模様」
「模様は濡れると似る」
ユリネが淡々と返す。
正論で殴るな(二回目)。
でも、この正論は命を救う正論だ。たぶん、布の命を。
コトがにこっとして、おばさんに指を一本立てた。
「見れば分かるを、数字で上書きしよう」
「数字?」
「札」
コトが、結び家の洗の札を軽く持ち上げる。
おばさんの籠の取っ手にも、札がぶら下がっていた。
厚めの紙。角丸。穴ひとつ。
でかい数字。下に一語。
干。
「……あら、うちも札ある」
「あるなら、勝ち」
タケルが真顔で言って、ユリネに肘で小突かれた。
「勝ちとか言うな」
「……推測で勝てる」
タケルが言い直して、コトが笑った。笑いは生活向きだ。
洗いが始まる。
水が濁る。
布が沈む。
手が動く。
動く手が増えたところで、風が来た。
ばさっ。
干し綱が、どこかで鳴った。
庭の方。
レンカが反射で顔を上げる。
「干すの、今じゃない」
ユリネが先に言う。
言われると、レンカは歯を食いしばって戻る。戻れるのが強い。
なのに、風は待ってくれない。
おばさんが庭を見て「あ」と声を漏らした。
「うちの、干してたの、飛ぶ!」
飛ぶ、は事故の合図。
飛ぶと、拾うが発生する。
拾うと、混ざるが発生する。
混ざると、取り違えが発生する。
レンカがもう、庭へ走り出しかけた。
ユリネの声が、庭より先に刺さる。
「……干」
ユリネが柱から、干の札を外した。
洗の札を、水場の杭に掛ける。
干の札を、自分の手首に引っかける。
「洗はここ。干は今」
短い。
短いのに、全員の足が同じ向きになる。
庭へ出ると、干し綱がぶんぶん揺れていた。
布が、ひらひらじゃない。ばさばさだ。
ばさばさは、善意を呼ぶ。
善意が呼ばれる前に、順番で止める。
「押さえるのは二人」
ユリネが言う。
「私!」
「……ハル」
レンカの手は上がったが、ユリネは無視してハルを指名した。
無視は冷たい。でもここでは優しい。レンカは押さえたら、押さえる場所を増やす顔だ。
ハルが無言で綱を押さえる。
押さえ方が「止める」じゃない。
「揺れても同じ位置に戻す」押さえ方だ。
風に勝とうとしない。風と折り合う。強い。
レンカは、押さえる代わりに布を拾う役に回りそうになった。
「拾う!」
「拾うな」
ユリネが即座に言う。
「えええ」
「拾うのは、落ちた布の持ち主だけ」
おばさんが「あらまぁ」と笑って、でも頷いた。
「そうね。うちのはうち」
持ち主だけ。
それだけで、手が増えない。
手が増えないと、布が混ざらない。
……混ざらないはずだった。
風に煽られて、布が一枚、地面を滑った。
滑った布が、結び家の布にぴたりと重なった。
重なると、一枚に見える。
一枚に見えると、誰かが掴む。
掴むと、勝手に「戻す」が始まる。
勝手に戻すは、だいたい取り違えの入口だ。
レンカの手が、ふっと伸びた。
伸びた指が布の端に触れる。
触れた瞬間、レンカの目が「きれいに戻す」になる。危ない。
「……見る」
コトが短く言って、レンカの手首を軽く押さえた。
押さえ方が優しい。優しい押さえは止まれる。
「数字」
コトは布の端についている札を、指先でちょん、と弾いた。
紙札がひらっと揺れる。
でかい数字。下に一語。
干。
レンカが目を細める。
「……これ、うちの?」
「数字」
コトは答えない。答えると、説明が増える。説明を増やすと、次は失敗する。
代わりに数字だけを見せる。数字は裏切らない。
レンカが自分の干の札を見る。
でかい数字が違う。
違うだけで、心臓が冷える。
冷えると、止まれる。
「……違う!」
レンカが叫ぶ手前で止めた。
止めて、布をそっと置いた。
置けるのが強い。置けると混ざらない。
おばさんが笑った。
「えらい。うちのだった」
「未遂」
タケルが真顔で言った。
「未遂って言うな」
ユリネが切る。
「……でも未遂」
タケルが小声で言い直して、コトが笑った。笑いは生活の潤滑油だ。
ここで終わればよかった。
だが、洗濯はだいたい「終わる直前」に雨を持ってくる。
ぽつ。
誰かの頬に、水が当たった。
もう一つ。
もう一つ。
「……降る」
ハルが言った。
短い。短いが、全員が同時に空を見る。
空が灰色だ。灰色は、急に来る。
「取り込み!」
レンカが叫んだ。叫ぶと増える。でも今は、増えるのは布だけでいい。声は最低限でいい。
「走るな」
ユリネが言う。
「走らない!」
レンカが言いながら、足が速い。速いのは許す。今日は雨だ。
ただし、雨の日の取り込みは、混ざる。
混ざると、取り違える。
取り違えたら、善意が一番困る顔をする。
だから、順番。
「干の札、回せ」
ユリネが言った。
干の札を持っている者が、取り込む。
持っていない者は、道を作る。
道を作る者は、布を抱えない。
抱えない者は、混ざらない。
タケルが腕を広げて通り道を一本にした。
「こっち! 布の道一本! 籠は壁際!」
偉そうなのに助かる。ちょっと偉そうは雨の日に必要。
コトが、取り込んだ布を一旦“数字で”置く場所を作った。
床に、札を三つ並べる。
でかい数字が並ぶ。
それだけで、布が「置いていい場所」に見える。人間はだいたい単純で助かる。
「数字の上に置く」
コトが言う。
「数字?」
おばさんが息を切らしながら聞く。
「数字。干の札の数字」
説明じゃない。指示だ。指示は増やさない。
布がどさどさ運ばれてくる。
運ばれるたびに、レンカの善意が膨らむ。膨らむ善意は、まとめたくなる。
「一つにまとめる!」
「まとめるな」
ユリネが即座に言う。
「えええ」
「まとめると、戻すのが死ぬ」
死ぬは言い過ぎだが、気持ちは分かる。
戻すのが難しくなる。難しいと、泣く。今日は泣かせない係だ。
雨が強くなる。
布が増える。
札が揺れる。
揺れた札が、ひとつ、ふっと外れて地面に落ちた。
ひらり。
落ちた札。
角丸。穴ひとつ。
でかい数字。下に一語。
干。
「……札、落ちた」
シノがぼそりと言った。
ぼそりが、全員の背中を一瞬で固める。
固まるのは悪じゃない。拾うために固まる。
レンカが飛びつきそうになった。
「拾う!」
「拾うな」
ユリネが即座に言った。
「えっ」
「持ち主が拾え」
持ち主。
今、それが分からない。
分からないときに拾うと、取り違えが確定する。
確定は避ける。未遂で終わらせる。
ユリネが、札を見下ろしたまま言った。
「……数字」
コトが札を覗き込む。
タケルも覗き込む。
おばさんも覗き込む。
覗き込む手は出ない。足も出ない。偉い。
「これ、うちの数字じゃない」
おばさんが言った。
言った瞬間、レンカが自分の干札の数字を見る。
違う。
コトも違う。
タケルも違う。
ハルも違う。
「……じゃあ、これ、誰」
レンカが小声で言った。
小声で言えるのが偉い。大声にすると雨が増える。雨はもう増えてるけど。
ユリネは淡々と、柱から別の札を外した。
たた。
「干は続ける。たたは今、置け」
短い指示。
短いのに、空気が割れて、動ける。
コトが、落ちた干札を“数字の上”に置いた。
布じゃない。札だけ。
札だけが先に置かれると、布が後から迷わない。
「この数字の布が来たら、ここへ」
コトが言う。
「来たら?」
「来る」
ユリネが即答した。
断定は危ないが、これは断定していい。札は必ず戻る。戻らないと生活が回らない。
そして、来た。
雨の中、通り道の端から、近所の子が布を抱えて走ってきた。
走るなと言いたいが、今日は雨だ。許す。
「これ、落ちてた!」
子が差し出した布の端に、穴の位置が同じ札が付いていた。
でかい数字。下に一語。
干。
落ちてた札の数字と一致した。
「……ここ」
コトが、地面に置いた札の上を指さす。
子がそこへ布をそっと置く。
そっと置けるのが強い。雨の中でそっとができると、だいたい一生役に立つ。
おばさんが息を吐いた。
「助かったぁ……うちのだった」
未遂。
取り違え未遂。
数字だけで止めた。説明なしで止めた。勝ちだ。
雨が止み始めた頃には、庭の布が全部中に入っていた。
床に並んだ数字の札の上に、布がそれぞれ積まれている。
積まれているのに、混ざってない。
混ざってないと、胸が軽い。
レンカが布の山を見て、目を輝かせた。
「たたむ!」
「たたむのは一山ずつ」
ユリネが言う。
「一山ずつ!」
レンカが復唱して、自分の手を一回ぎゅっと握った。増やさないための握り。いい。
タケルは布を運ぶ役をやめて、道の水を拭いた。
拭くと滑らない。滑らないと泣かない。今日は泣かせない係だ。
ハルは黙って、布の端を揃える。
揃え方が几帳面で、見ていると心が落ち着く。
シノは、たたまれていく布の山を見て、ぼそり。
「……きれいに戻る」
誰も拾わない。
拾うと、褒めが増える。褒めが増えると、善意が膨らむ。膨らむと、また手伝うが増える。今日は増やさない。
おばさんが帰り支度をしながら笑った。
「札、いいねぇ。数字がでかいのが、いい」
「でかいのは、見落とさないため」
ユリネが事実だけ返す。
「見落とさないと、混ざらない」
コトが続ける。
「混ざらないと、泣かない」
レンカが言って、最後に自分で口を押さえた。
泣かないを言えるのが偉い。泣かないは、生活の勝利条件だ。
布が全部戻る。
札も全部戻る。
柱に、洗/干/たた が順番に掛かって、最後に飯が残る。
残る飯は、今日も逃げない顔をしている。
ユリネが、鍋の前で一息だけ吐いた。
「……よし」
レンカが湯気のない鍋を覗き込みながら言う。
「今日、取り違え、しなかった!」
「未遂で止めた」
タケルが真顔で言って、ユリネが即座に刺す。
「未遂って言うな」
「……推測で未遂」
「推測の使い方が雑だ」
コトが笑って、みんなが笑った。
笑えるなら勝ちだ。
勝てるなら、飯だ。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




