第23話 朝市の買いすぎ
朝市は、匂いより先に「声」が来る。
声が来ると、足が出る。足が出ると、財布が出る。財布が出ると、だいたい負ける。
「今日は、買いすぎない」
コトが言った。宣言は強い。強い宣言は、だいたい破られる。
「買いすぎない!」
レンカが復唱した。復唱は札になる。札になると、安心して買いすぎる。
「……買うな」
ユリネが即座に言った。
言い方が乾いているのに、朝市の匂いで少しだけ柔らかい。朝市は人を甘やかす。
タケルは籠を持っている。持ち方が真面目だ。
ハルは籠の中を覗き込んで、すでに腹の顔をしている。
シノは人の背中の後ろで、小さく息を吸った。
「……くん」
匂いが好きな子は、朝市で忙しい。
並び始めた野菜は、まだ眠そうな顔だ。
眠そうなのに、手を伸ばす人は起きている。
釣り銭の皿がカチカチ鳴って、朝のリズムになる。
「ほら、安いの、ある」
コトが指をさす。
「安いのは危ない」
ユリネが返す。
「安いと買う」
レンカが元気に言う。
「買うな」
「買わない!」
言いながら、レンカの手はもう財布に触れている。触るな。
最初の一つは、いつも正しい顔をしている。
玉ねぎ。じゃがいも。根菜。正義。
正義は買っていい。買っていいのは、ここまでだ。
「これで十分だ」
ユリネが籠を持ち上げた。軽い。軽い籠は、危ない。
「十分って、どれくらい?」
タケルが聞く。
「十分は、十分だ」
ユリネは説明しない。説明しない方が増えない。
そのまま帰れれば、勝ちだった。
でも朝市は、帰らせる気がない。
帰らせないのは人じゃない。品だ。匂いだ。声だ。小銭の音だ。
レンカが、別の台の前で止まった。
葉物。瑞々しい。朝露の顔。
「これ、安い!」
「買うな」
「買わないけど、安い!」
安いを言うな。
売り手の人が笑って、束を持ち上げた。
「今朝採れ。二束でこの値段」
二束、が危ない。二束は「一束の顔」をしている。
「二束は一束」
コトが真顔で言った。
「違う」
タケルが即座に突っ込む。
「でも心は一束」
「心で腹は満たせない」
ユリネが刺す。刺さる。刺さると買わないはずなのに。
レンカが財布を開いた。
開いた瞬間、銅の音が鳴った。
カチ、と小さく鳴る。小さく鳴ると、もう決まった気がする。
「……買わないって言ったのに」
レンカが自分で呻いた。
「言ったのに、やるのがレンカだ」
コトが笑う。笑うから買う。
束が籠に入る。
籠がまた重くなる。
重くなると、次の“ついで”が出る。
そこで、シノが立ち止まった。
目が止まった先に、乾いた果実みたいなものが並んでいる。
色がきれいだ。朝の光で、ほんの少しだけ透ける。
「……きれい」
シノが言った。小さい声。小さい声は、だいたい通ってしまう。
「きれい! 買う!」
レンカが即座に言った。
「買うな」
ユリネがまた言った。
「でもシノがきれいって言った!」
「言っただけだ」
言っただけ、は危ない。言っただけの願いは、叶えたくなる。
売り手の人が笑って、ひと握りを紙袋に入れた。
「少しでいいよ。味見」
味見は優しい。優しいが、朝市では燃料だ。
「味見!」
コトが目を輝かせた。
「味見は一つ」
ユリネが釘を刺す。
「一つ!」
レンカが復唱した。復唱は札になる。札になると、増える。
紙袋が籠に入る。
籠が少し重くなる。
重くなると、今度は“合わせ”が出る。
「甘いなら、しょっぱいも要るよね」
タケルが真面目に言った。
正論で殴るな。合わせは強い。強い合わせは、材料を呼ぶ。
「呼ぶな」
ユリネが言う。
「でもスープに入れたら強い」
タケルが引かない。
「強いとか言うな」
「強いのは断定」
「……推測で強い」
タケルが言い直して、コトが笑った。笑うと買う。
干し肉っぽいものが、籠に入る。
入った瞬間、籠の底が見えなくなった。
底が見えない籠は、勝ってるようで負けている。
「……重い」
ハルが小さく言った。重いは、危険の合図だ。
「重いなら減らす!」
レンカが言った。減らし方が危ない。
「減らすなら、買うのを止めろ」
ユリネが刺す。
「止める!」
レンカが言った。
言った直後に、また別の台の前で止まった。止まるな。
台の上に、粉の袋が積まれていた。
白い。角が揃ってる。角が揃ってる袋は危ない。
「……粉」
コトが言った。嫌そうなのに目が光る。だめだ。
「平焼きパン、増やせるね」
「増やすな」
ユリネが即答する。
「でも、増えると嬉しい」
「嬉しいの数を数えろ」
「数える!」
コトが勢いで返して、自分で笑った。笑うと買う。
袋は一つだけ。
一つだけ、と言いながら、売り手が「おまけ」と言って小袋を添えた。
おまけは優しい。優しいのに、危ない。
断れないと、優しさが増える。
「……受け取るな」
ユリネが小さく言った。
「でも、くれた」
レンカが言う。
「くれたなら、返すな」
「返さない!」
返さないを言うと、返したくなる。朝市はそういう場所だ。
籠が、もう一回だけ重くなる。
重くなると、足が遅くなる。
遅くなると、後ろが詰まる。
詰まると、誰かが避ける。
避けた人が、籠に当たる。
当たると、紙袋が傾く。
傾いた紙袋から、乾いた果実が一粒だけ転げ落ちた。
ころん。
小さく鳴る。小さく鳴ると、拾いたくなる。
「拾う!」
レンカが言いかける。
「拾うな」
ユリネが即座に言った。
「今、手が増えると、足が増える」
足が増えると、籠が揺れる。揺れるとまた落ちる。無限だ。
タケルが足でそっと粒を止めて、手を使わずに拾える位置まで寄せた。
手を使わないのはえらい。走り手の足は、たまに賢い。
「……すげえ」
コトが言って、褒めそうになる。
「褒めるな」
ユリネが止める。褒めると増える。
気づいたら、朝市の角で知ってる顔が通った。
昨日、早出しで混ぜ混ぜを作った張本人。ミナギだ。
息が白い。元気。悪気ゼロ。危ない。
「おっ、買ってる買ってる! 今日、当たり日だろ!」
「当たり日を増やすな」
ユリネが即座に言う。
「え、でもさ、当たりは当たりだよ?」
「当たりの数を数えろ」
「数える!」
ミナギが勢いで返事をして、自分で首を傾げた。「何を」みたいな顔。
レンカが籠を持ち上げて、へらっと笑った。
「重いから、配る!」
言うな。
配る、が出た瞬間、朝市の空気が一段だけ変わった。
配るは善意だ。善意は人を呼ぶ。呼ばれると、断れない。
「え、いいの?」
「ほんとに?」
「じゃあ、こっちも持ってきな!」
返しが増える。返しが増えると、減らない。
「減らすために配るのに、増える……!」
コトが笑いながら呻いた。呻きが明るい。明るい呻きは救いだ。
レンカはもう、誰かの手に袋を押しつけていた。
押しつけ方が優しい。優しいから、相手が受け取る。
受け取った相手が笑う。
笑うと、お礼を言う。
お礼を言うと、シノを見る。
「さっきの、きれいって言った子だよね? いいの選ぶねぇ」
「……っ」
シノの肩がびくっと跳ねた。跳ねると目立つ。目立つと照れる。照れると逃げる。
シノは、籠の影に半歩下がった。
下がったところへ、別の人が通る。
通る人が「ごめんね」と言って、またシノを見る。
見るな。見ると逃げる。
「……シノ、逃げる顔」
タケルが小声で言った。
「逃がすな」
ユリネが言う。泣かせない係は、逃げも止める。
しかし、止める前に、シノはするりと背中を抜けた。
抜け方が静かだ。静かに抜けると、追えない。
追うと騒ぐ。騒ぐと朝市が増える。増えるのはだめだ。
「シノ、どこ!」
レンカが声を上げかけて、コトが口を塞いだ。
「声で探すと、もっと目立つ」
正論で殴るな(二回目)。
ユリネは、ため息を一つだけ吐いた。
「……札、回せ」
言った瞬間、結び家の空気が戻る。札は紙じゃなくても効く。
「今、何の札?」
コトが聞く。
「飯」
ユリネが言い切る。
「飯?」
「飯の札が回ってる時だけ買う。回ってないなら、配るな。交換にするな。返すな」
短い。短いのに、全部刺さる。
「返すな?」
ミナギが首を傾げる。
「返されると増える」
「……確かに! 俺、さっき返しちゃった!」
「やるな」
「やらない!」
ユリネは朝市の端の欠けた石を指でとん、と叩いた。
欠けは今日も目印だ。目印があると、人は止まれる。
「配るなら、欠けまで。一列。取るのは一個。礼は一言で終わり」
終わり、が入ると終われる。
終われると、配るが増殖しない。
コトが声を張った。
「欠けまで! 一個! ありがとうで終わり!」
復唱が広がる。復唱が札になる。
朝市の人たちが笑った。
「なるほどねぇ。優しさにも手順だねぇ」
笑いがあると、手順が刺さらない。刺さらないのに効く。最高だ。
レンカは配る手を止めた。
止め方が悔しい。悔しいのに止められるのが偉い。
「……じゃあ、配るの、ここまで」
「ここまで」
コトが復唱する。
「……ここまで」
ハルも小さく言う。小さい声が混ざると、決定が固まる。
タケルが欠けの外側に人の流れを作る。
走らない。腕で道を作る。走らないのが、今日は一番の仕事だ。
ミナギは、なぜか張り切って「一個!」を配る側に回った。
「はい一個! はい一個! 増やすな!」
「お前が増やしてる」
ユリネが即座に刺す。
「増やしてない! 数えてる!」
数えてるなら、よし。数え方が雑でも、今日は許す。今日は泣かせない係だ。
配りが落ち着いた頃、シノが戻ってきた。
戻り方が小さい。小さいのに、手には小さな包みがある。
包みは、さっきの乾いた果実。
誰かが、そっと渡してくれたらしい。
「……これ、もらった」
シノが言う。
「もらうな」
ユリネが反射で言いかけて、言い方を変えた。
「……もらったなら、飯にする」
飯にする、と言うと、罪悪感が消える。消えると照れが残る。
「飯にする!」
レンカが元気に言って、また買いそうな顔になる。
「買うな」
「買わない!」
言いながら、レンカは財布をぎゅっと握った。握るのはいい。離すな。
結び家は籠を抱えて帰った。
さっきより軽い。軽いのに、顔は明るい。
明るいのは、増えなかったからだ。優しさが増えずに回ると、疲れが少ない。
家に着くと、台所が待っていた。
鍋がある。水がある。札がある。
飯の札が、柱から揺れている。
「……飯」
ユリネが札を見て言った。合図みたいに。
「飯!」
レンカが返す。返しが軽い。軽い返しは生活向きだ。
コトが買ってきた野菜を広げる。
広げると、多い。多いのに、さっきの朝市みたいに“増えない”多さだ。
「これ、全部、鍋に入る?」
タケルが聞く。
「入る分だけ入れろ」
ユリネが言う。
「入らない分は?」
「明日」
明日、と言われると、焦りが減る。焦りが減ると、買いすぎが減る。たぶん。
レンカが粉の袋を見て、目を輝かせた。
「平焼きパン、増える!」
「増やすな」
ユリネが返す。
「でも、増えると腹が勝つ」
「腹は勝つな。満たせ」
言い方が乱暴なのに、なんか正しい。正しいのが悔しい。
シノが乾いた果実の包みをそっと開けた。
匂いが甘い。甘い匂いは、心をほどく。
「……きれいだった」
シノが小さく言った。
「きれいは、飯にして正解だ」
コトが笑う。笑いが、シノを見ない。見ない優しさ。最高だ。
鍋が鳴り始めた。
野菜が煮える音。
湯気が立つ音。
湯屋とは違う、家の湯気。
ハルの腹が鳴った。
「……ぐぅ」
「報告が早いな!」
ユリネが豪快に笑った。
「生きてるなら飯!」
言いながら、鍋のふたを開ける。
湯気がふわっと上がって、朝市の声を全部、家の中にしまった。
レンカが箸を持ってうずうずする。
「いちばんに食べる!」
「いちばんは断定」
ユリネが返す。
「……推測で、いちばん!」
「推測の使い方が雑だ」
タケルが笑って、みんなが笑った。
最後に、ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」




