第22話 井戸の水が多い
井戸は、だいたい黙っている。
黙っていて、出す。
出して、また黙る。
だから人は、井戸を「いつも通り」と思う。
思った朝に限って、井戸は機嫌がいい。
縄を落とす。
桶が水面に触れる。
引き上げる。
いつもなら、ここで一回だけ「重いな」となるのに。
「……軽い?」
タケルが言った。言い方が疑っている。
「軽いわけないでしょ」
コトが笑いながら覗き込む。
覗き込んだ瞬間、目が丸くなる。
水が、上だ。
いつもより、上。
桶を沈めなくても水が来る。来るのが早い。早いのは危ない。
レンカの目が光った。
光るな。
「いっぱい汲める!」
「汲むな」
ユリネが即座に言った。
言い切りが乾いている。乾いているのに、水の気配で柔らかく聞こえるのが悔しい。
「え、でも、今日は水が多い日だよ?」
「多い日は、詰まる」
ユリネは短く返す。
「詰まると、こぼれる。こぼれると、滑る。滑ると、泣く」
「泣かせない係!」
レンカが胸を張る。
胸を張ると、だいたい余計にやる。危ない。
そこへ、足音が増えた。
増えるのが早い。
水の匂いは、人を呼ぶ。
近所の人が来る。
籠を持って来る。
桶を持って来る。
桶はだいたい二つ持って来る。二つは便利で危ない。
「今日は出がいいねぇ」
「ほんと、井戸が若い」
「若いって何だ」
タケルが真顔で突っ込んで、周りが笑う。笑いがあるうちは回る。
回りそうで、回らない顔もある。
並ぶ顔。
早いもの勝ちにしたくなる顔。
でも、ここは結び家の井戸だ。勝ちは順番で取る。
ユリネが、欠け桶を置いた。
縁がちょん、と欠けたあの桶。
置くだけで「ここ」ができる。
欠けは、線になる。
「欠けまで」
ユリネが言う。
「欠けまで?」
誰かが聞く。
「欠けまで。桶を寄せるのは欠けまで。前へ押すな」
押すな、が効く。
押さないと、縄が絡まらない。
絡まらないと、足が動ける。
足が動けると、通れる。
通れると、井戸が井戸のままでいられる。
レンカは欠け桶の横でうずうずしている。
水が多い。
多い水は「今だけの特別」に見える。
特別は増える。増えると詰まる。
「……ねぇ、今日さ、余り分も汲んどけばいいじゃん」
ミナギが言った。
いつの間にか来ている。息が白い。声が元気。悪気ゼロ。危ない。
「汲むな」
ユリネがまた言った。
「汲みすぎると、置き場が先に死ぬ」
「置き場?」
ミナギが首を傾げる。
傾げた瞬間、レンカが「置き場なら私が作る!」の顔になる。作るな。
コトがすっと間に入った。
「まず一杯ずつ。余りは、順番が回ってから」
「余りって、回るの?」
タケルが言って、また笑いが出る。笑いは助かる。
並びの最後尾に、背の小さい子がいた。
桶がやけに大きい。
持ってるだけで腕がぷるぷるしている。ぷるぷるは危ない。
ハルがそれを見て、ぽつりと言った。
「……持てない」
「持てないなら置くな」
ユリネが言いかけて、言い方を変えた。
「欠けの横。桶は地面。人は手を空けろ」
言葉が変わると、優しさが増えない形になる。
小さい子が桶を欠け桶の横にそっと下ろした。
下ろした瞬間、顔がほっとする。
ほっとする顔を見ると、レンカが手を出したくなる。出すな。
「……それは、本人の順番だ」
ユリネが先に釘を刺す。
刺されると、レンカが歯を食いしばって、でも頷く。頷けるのが強い。
順番が回り始める。
縄が落ちる。
桶が上がる。
水が光る。
光ると、言いたくなる。
「……きれい」
シノが小さく言った。
小さいから、誰も騒がない。
騒がないまま、光が生活の中に落ちる。落ち方がちょうどいい。
ところが、井戸の水が多い日は、油断が増える。
引き上げた桶が、いつもより早く満ちる。
満ちると、最後の一引きで溢れやすい。
溢れると、縄が濡れる。
濡れた縄は滑る。滑ると、桶が揺れる。揺れると、水が跳ねる。
「わっ」
誰かが声を上げた。
声が出た瞬間、周りが「大丈夫?」になる。
「大丈夫!」
「ごめん!」
「いやいや!」
いやいやが増える。増えると、足が増える。足が増えると、また水が跳ねる。
無限だ。井戸の無限。
「……止まれ」
ユリネが言った。
怒っていない。
でも、止まれの声は、床に線を引く。
「水が跳ねたら、拭け。拭くのは一人。周りは動くな」
短い。
短いのに、場が静かになる。
静かになると、拭く手が迷わない。
レンカが「拭く!」と言いかけた。
「拭くな」
ユリネが即座に言った。
「今日はお前が拭くと、拭く場所が増える」
「なんで!」
「拭きたい顔だから」
ユリネの返しが乾いていて、レンカが悔しそうに笑った。笑えるなら勝ちだ。
拭いた人が戻る。
順番が続く。
水は多いまま、でも、回る。
……回った結果、問題が生まれる。
桶が並ぶ。
桶が満ちる。
桶が帰っていく。
帰っていく桶が、増える。
増えると、井戸の周りが「置き場」になる。
置き場になると、道が消える。
道が消えると、誰かが桶を避ける。
避けた桶が、別の桶に当たる。
当たると、水が跳ねる。
跳ねると、また拭く。
勝ってるようで負けてる。
水だけが勝って、場が負ける。
「……余り分、汲んだ人、いる?」
コトが聞いた。
聞き方がやさしい。やさしいと手が上がる。
上がった手が、思ったより多い。多いのは悪じゃない。多いのは詰まりの予告だ。
「だって今日は多いし」
「明日も多いかもしれないし」
「少しだけだよ」
少しだけ、が危ない。
少しだけが集まると、山になる。
今日は水の山だ。
結び家も、いつの間にか桶が多い。
レンカの足元に、もう一桶ある。
タケルの横にも。
ミナギの背中にも。
そして問題は、家に戻ってから起きる。
結び家の戸の前。
段差の前。
桶が並ぶ。
並ぶと、靴が置けない。
置けないと、また「どうぞ」が出る。
出ると詰まる。詰まると、桶が蹴られる。蹴られると、泣く。今日は泣かせない係だ。
「……置き場」
ユリネが言った。
言っただけで、レンカが「作る!」の顔になる。作るな。
ユリネは札を見た。
柱に掛かった、生成りの札。
洗/干/たた/飯/湯。
五つだけ。増やせない。増やすな。
ユリネが、洗の札を取った。
札が動くと、場が締まる。
締まると、余計な優しさが出にくい。
「洗」
ユリネが言った。
「洗?」
レンカが首を傾げる。
「水は、洗いで消える。床も、桶も、道も」
ユリネが淡々と続ける。
「洗の札がある桶は、使う。札がない桶は、汲むな」
ミナギが「え、じゃあ俺の余り桶……」と顔をしかめた。
「お前のは、札がない」
「札、つけていい?」
「つけるな」
ユリネが即答する。
「札は回す。貼り付けない」
貼り付けると増える。増えると欄になる。欄はやめろ。
コトが笑いながら、もう一枚、干の札を取った。
「じゃあ、こっちは干。干は……乾かす。つまり、ここは濡らさない」
言いながら、玄関の段差の横、通り道のど真ん中を指さす。
「ここは干。水桶置いたらだめ」
「干が禁止札になった」
タケルが真顔で言って、ミナギが吹き出した。
笑いがあると、禁止でも尖らない。
レンカが目を輝かせる。
「じゃあ、たたは?」
「たたは布だ」
ユリネが即答する。
「今は使わない」
使わないが言えるのが強い。使わないが言えると、増えない。
結び家は、玄関前の桶を二つだけ残した。
一つは洗の札が掛かった桶。
もう一つは、湯の札が掛かった桶。
湯の札は、湯屋じゃなく家の湯のため。
湯は逃げないが、湯の準備は逃げる。逃げると夜に困る。
残りの桶はどうするか。
ここが揉める場所だ。
「余りの水、どこに置く?」
ミナギが言った。
「置くな」
ユリネが言った。
「……捨てる?」
ミナギが言い換える。
言い換えると、少しだけ場が柔らかくなる。柔らかいと、正直が出る。
「捨てるの、もったいない」
レンカが言った。
もったいないは正しい。正しいからこそ危ない。
「じゃあ、ゴミのとこに流せばいいじゃん」
タケルが言った。
言った瞬間、ハルの眉が少しだけ動く。
「……濡れると、重い」
ハルがぽつり。
ゴミ集積の山のことだ。
水が多い日は、あそこが負けやすい。
負けると、道がまた消える。今日は道を守る日だったはずだ。
コトが腕を組んだ。
「でも、ちょっとだけ湿らせると、ほこりは減るよね」
減るのはいい。
ただし“ちょっとだけ”が難しい。
レンカが「じゃあ私がちょっとだけ!」の顔になった。
ちょっとだけ係はだいたい事故係だ。
「……行く」
ユリネが言った。
行く、は決断だ。決断すると、揉めが揉めで終わらない。
ゴミ集積へ向かう。
今日は薄く触るだけのはずなのに、水が勝手に連れてくる。
道の途中で、桶がちゃぷんと鳴る。
鳴るたびに、レンカの肩が揺れる。揺れるとこぼれる。こぼれると滑る。滑るな。
「走るな」
「走ってない!」
「走りそうな顔をやめろ」
ユリネの返しが乾いていて、レンカがむくれながら笑った。笑えるなら勝ち。
集積の囲いは、昨日より静かだった。
山は小さい。
小さい山は、油断を呼ぶ。油断は水を呼ぶ。
囲いの前に、昨日の板がある。
『分けて置く』
それだけ。
それだけでいい。足すな。
そこへ、ちょうど近所のおじさんが来た。
籠を抱えている。
籠の中は軽そうだ。軽そうでも、置けば山の一部になる。
「あら、結び家。今日は水の桶?」
「水が多い日だ」
ユリネが淡々と言う。
「多い日か。いいねぇ。でも、ここに流すと重くなるぞ」
おじさんが先に言った。
言われると、揉めが減る。言ってくれる人がいるのは助かる。
「重くならない程度に、湿らせる」
ユリネが言った。
言い切りが“やる”の顔だ。
レンカが背筋を伸ばす。背筋を伸ばすと、やりすぎる。危ない。
ユリネは、干の札を囲いの横の杭に掛けた。
札が風に揺れる。
干。
乾かす。
つまり、ここは濡らしすぎない。
「干」
ユリネが言った。
「干?」
ミナギが首を傾げる。
「濡らすな、って札だ」
タケルが真顔で訳して、周りが笑った。笑いがあると禁止が優しくなる。
次に、洗の札を桶に掛ける。
洗の札が掛かった桶だけが、口を開けていい。
口を開ける場所も決める。
欠け。
囲いの石にも、小さな欠けがあった。
欠けは、どこにでもある。あるからこそ、拾える人が強い。
「欠けまで」
ユリネが言った。
「欠けまで」
コトが復唱した。
復唱が札になる。
ユリネは桶の水を、地面へ“少しだけ”落とした。
落とすと言っても、流すじゃない。
手のひらを添えて、水の勢いを殺して、静かに染み込ませる。
染み込むと、ほこりが寝る。
寝ると、風で舞わない。舞わないと、鼻が平和だ。
「……ちょっとだけ、ってこうやるんだ」
レンカが目を丸くする。
目が丸いのは、学んでいる顔だ。よし。
ミナギが真似しようとして、勢いが出た。
水が“ちょっとだけ”じゃなく“ちゃぽん”となった。
ちゃぽんは危ない。ちゃぽんは山を育てる。
「触るな」
ユリネが即座に言った。
「俺、触ってない! 水が勝手に!」
「水に負けるな」
乾いた返しで、ミナギが「ぐぬ」となる。
ぐぬが出ると、場が締まる。締まると、ちゃぽんが減る。
ハルが小さく息を吐いた。
「……重くならない」
言葉が少ない。少ないけど、安心が入っている。
シノは水が染みる地面を見て、ぼそり。
「……黒くなる」
黒くなるのは、ほこりが落ち着いた証拠だ。
誰も騒がない。騒がないと、黒が黒のままで終わる。
洗の札が掛かった桶の水を、決めた分だけ落とす。
落としたら終わり。
終わりがあると、増えない。
コトが桶を持ち上げて言った。
「じゃあ、残りは家で使う分だけ。洗と湯の札が回ってる間だけ」
「回ってない桶は、汲まない」
タケルが復唱する。
「汲まない!」
レンカが元気よく言って、言った後で自分の目を押さえた。
汲まないを言うと、汲みたさが暴れる。暴れる前に笑っておく。正しい。
帰り道、ミナギが肩を落とした。
「俺、今日さ、水が多いって聞いて、勝手に“余り”を作った」
「余りは悪じゃない」
ユリネが否定しない。
「余りの置き場がないのが悪い」
「置き場……」
「置き場は作るな。回せ」
最後の一言で、ミナギが笑った。笑えるなら勝ち。
結び家の玄関に戻る。
桶は二つだけ。
道が空いている。
空いていると、足が滑らない。滑らないと、泣かない。今日も勝ちだ。
レンカが洗の札の桶を見て、うずうずしながら言った。
「これ、全部で床拭ける?」
「全部拭くな」
ユリネが即答する。
「全部拭くと、また汲みたくなる」
「ばれた」
レンカが笑って、素直に雑巾を一枚だけ取った。
一枚だけ。
一枚だけが、生活を救う。
コトは湯の札の桶を鍋の横に置いた。
湯気はまだない。
でも、湯の準備があると、夜が軽い。
タケルが柱の札を見上げる。
五枚。
五枚だけ。
五枚だけで回っているのが、妙に頼もしい。
ハルがぽつりと言った。
「……水が多い日は、順番も多い」
「多くするな」
ユリネが返す。
「順番は、置く」
置く、の言葉が静かに落ちる。
台所から匂いが立ち始めた。
水の話は、最後に飯へ戻るのがいちばんいい。
戻れるなら、回っている。
レンカが雑巾を絞って、最後にだけ大きく息を吐いた。
「今日、滑らなかった!」
「滑らないのが勝ちだ」
ユリネが頷く。
そして、合図はいつも通り。
ユリネが短く言った。
「飯! 湯!」




