表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/51

第21話 湯屋

 湯屋は、湯気から始まる。

 湯気はだいたい、正しい顔をしている。怒ってない。押してこない。ただ、そこにあるだけで人をほどく。

 入口の戸を開けた瞬間、結び家の全員の肩が一段落ちた。


「わ……あったかい」

 コトが息を吐いた。吐いた息がすぐ見えなくなる。湯気が勝つ場所だ。


「笑ってる声がする」

 レンカが言って、耳をすませる。奥から、どっと笑いがこぼれてくる。

 笑いは湯の付属品だ。湯があれば笑いが出る。笑いが出れば、今日は勝ちだ。


「……走るな」

 ユリネが言った。

 湯屋で走ると、床が滑る。滑ると痛い。痛いと泣く。今日は泣かせない係だ。だから、最初に止める。


 湯屋の玄関は小さい。

 小さいのに、置くものが多い。草履。桶。手ぬぐい。籠。あと、人の気持ち。

 気持ちは置けないから、だいたい人は物を置いて気持ちを置いた気になる。


 しかも湯屋は、入口でまず足が止まる。

 段差がある。濡れてる。誰も言わないのに、みんな一回だけ慎重になる。

 慎重が揃うと、場が整う。整うと、次に余裕が出る。余裕は優しさを呼ぶ。優しさは、ときどき詰まりを呼ぶ。


「お先、どうぞ」

「いえいえ、あなたが」


 入口でそれをやると、後ろが詰まる。

 詰まると、湯気が外へ逃げる。湯気が逃げると、損した気持ちになる。損した気持ちは増やしたくなる。増やすと、また詰まる。


 タケルが後ろをちらっと見て、顔をしかめた。

「……今、入口で“どうぞ”やったら、後ろが詰まる顔してる」

「顔、って何だ」

 ユリネが返した。乾いた返しなのに、湯気のせいで柔らかく聞こえる。湯気は偉い。


 そこで、欠け桶が登場した。


 欠けた木桶。縁がちょん、と欠けている。昨日も今日も、誰も直していない。

 直していないのに、目印としては完璧だ。欠けは、見つけるためにある。


「……ここ」

 ハルが小さく言って、欠け桶の横に自分たちの桶を寄せた。


 誰かの桶と並んでも、欠けだけは嘘をつかない。

 結果として、探す時間が減った。以上。


 探さないで済むと、次は靴だ。

 靴は並べると勝つ。並べないと、帰りに迷う。迷うと、また“どうぞ”が増える。


 レンカが自分の草履を揃えて置こうとして、隣の人の草履まで揃えかけた。

 揃えかけるのは優しさだが、他人の靴を勝手に触るのは危ない優しさだ。


「……やめろ」

 ユリネが即座に言った。

「触るなら、本人に言え」

「言う!」

 レンカが元気よく言いかけて、そこで止まった。

 言うと、また入口で会話が増える。

 増えると、詰まる。


 レンカは唇を噛んで、自分の草履だけを揃えた。

 えらい。えらいが、目が悔しい。悔しさは次の安全装置になる。


 脱衣の間に入ると、もうひとつ湯屋の札があった。

 札というか、作法というか、空気というか。


 誰も大声で「ここはこうです」と言わない。

 でも、足が止まる場所がある。籠が寄る場所がある。布が掛かる位置が決まっている。

 決まっていると、人は安心して、ちょっとだけ自分勝手になれる。


 レンカが籠を抱えたまま、うずうずしている。

「ねぇ、ここ空いてる! ここに置く!」

「そこは通る」

 コトがさらっと言った。さらっと言えるのが偉い。札がなくても札がある顔をしている。


 タケルが壁際の棚を見上げた。

 棚はある。あるが、棚の前が道でもある。

 道の前に籠が出ると、道が消える。道が消えると、湯屋は“温かい迷路”になる。


「……置くのは壁際。でも、壁際でも道を作る」

 タケルが小声で呟いた。

「誰に教わった」

「俺の足が。昨日までに」


 ハルは畳み方がやけに丁寧だ。丁寧すぎて、布が静かに息をする。

 シノはその手元を見て、ぼそりと言った。

「……きれい」

 誰も騒がない。湯屋では、ぼそりが許される。許されると、ぼそりが続く。


 湯気の方へ足を向けると、次は洗い場だ。

 洗い場は戦場ではない。戦場じゃないのに、たまに戦場みたいに混む。

 理由は単純だ。みんな優しいからだ。


 空いている場所を見つける。

 見つけたら、譲る。

 譲ったら、次の人が「いやいや」と譲り返す。

 譲り返された人が「じゃあ端へ」と動く。

 動いた人の後ろに、また人が来る。

 人が来ると、また譲る。


 結果として、場所が固定されない。

 固定されないと、入れ替わりだけが増える。

 増えると、足が忙しい。足が忙しいと、桶がぶつかる。桶がぶつかると、水が跳ねる。

 跳ねた水が「ごめん」を増やす。ごめんが増えると、さらに譲る。負けの循環だ。


「ごめんね、ここ、使って」

「いやいや、あなた先に」

「いいのよ、若いんだから」

「若いからって、滑ったら終わりだよ!」


 笑いが混じっているうちは、まだ楽しい混雑だ。

 でも、楽しい混雑は一歩ずれると、ただの詰まりになる。


 レンカが、空いている場所を見つけた。

「ここ! ここ空いてる!」

 見つけるのが早い。早いのは悪じゃない。早いのは、方向が要る。


 レンカが桶を置こうとした瞬間、隣のおばさんが「どうぞ」と身を引いた。

 身を引かれたレンカが、反射で引いた。

「えっ、じゃあ、そっちどうぞ!」

 引くな。

 引くと、向こうも引く。

 引き合いになると、真ん中が空く。

 空いた真ん中に、別の人が「空いてる!」と入る。

 入った人が「ごめん、私ここでいい?」と聞く。

 聞かれた二人が「どうぞどうぞ」とまた引く。

 引くな。


 コトが口を押さえた。

「……譲り合い、無限になるやつだ」

 タケルが真面目な顔で頷いた。

「俺、今、目で見た。湯屋の無限」


 無限は、笑えるうちはいい。

 ただ、無限は、長引くと冷える。冷えるのは湯屋の負け方だ。


 さらに悪いことが起きた。

 誰かが石けんを落とした。ころん、と丸い音。

 拾おうとする手が三つ伸びる。三つ伸びると、肘が当たる。肘が当たると「ごめん」が増える。

 増えたごめんが、また譲り合い無限に燃料を足す。


「私、拾う!」

 レンカが言った。

「拾うな」

 ユリネが即座に言った。

「今、手が増えると、足が増える」


 ユリネはしゃがまず、声だけで指示を置く。

「落とした人が拾え。拾えないなら、横の人に一言。受けた人は“その場で”渡せ。歩くな」


 歩くな、が効く。

 歩かないと、入れ替わりが増えない。

 増えないと、湯気が勝つ。


 落とした本人が「あ、すみません」と言って拾った。

 横の人が「どうぞ」と笑った。

 笑いが戻った。戻った笑いは、余計に動かない。偉い。


 ユリネが一歩だけ前に出た。

 怒ってはいない。叱る顔でもない。ただ、順番の顔だ。


「……湯は逃げない。順番」

 言い方が短い。短いのに、空気がすっと固まる。固まるのは悪じゃない。崩すための固まりだ。


「座ったら、動くな」

 ユリネが続けた。

「譲るのは、出るときだけ。入る人は、空きを取れ。取ったら、礼を言って終わり」


 終わり、が入ると、人は終われる。

 終われると、場所が固定される。

 固定されると、洗える。


「……はい」

 レンカが素直に返事をした。返事が出た時点で勝ちだ。

 隣のおばさんも笑って頷いた。

「なるほどねぇ。譲り合いは、出るときだけ」


 出るときだけ、は強い。

 強い言葉は、生活を楽にする。


 タケルが、欠け桶の方をちらっと見た。

 欠け桶が見える位置にあると、不思議と落ち着く。

 落ち着いた結果、肩が軽くなった。以上。


 洗い場が落ち着くと、今度は桶の音が揃う。

 ちゃぷん。ちゃぷん。石けんの泡がふわっと立つ。

 泡が立つと、レンカの善意がまたふくらむ。ふくらんだ善意は、つい人を洗いたくなる。


「背中、流す!」

「流すな」

 ユリネが即答した。

「流すと、返す順が増える」

「返す順……」

 レンカが口を尖らせて、でも笑った。

「……はい。自分だけ」


 コトが肩をすくめた。

「湯屋での“自分だけ”って、えらいよね」

「えらい」

 ハルが小さく言った。ハルの“えらい”はだいたい本物だ。


 体が洗えたら、次は湯だ。

 湯は、そこにあるだけで勝っている。

 ただし勝っている湯も、入り方を間違えると負ける。


 入口の段差で、レンカが一瞬だけ止まった。

 湯気が濃い。湯の面がきらっと光る。

 光ると、飛び込みたくなる。飛び込むと怒られる。怒られると泣く。今日は泣かせない係だ。


「……すー」

 レンカが深呼吸をした。

 流行りは偉い。偉い流行りは事故を減らす。


「掛け湯」

 ユリネが言った。

「かけ……湯?」

「いきなり入ると、湯が驚く」

「湯は驚くの?」

「湯は喋らない」

 ユリネが返す。

「でも、驚いた気がするから、やめろ」


 レンカが笑いながら、桶で湯をすくって、自分の足にかけた。

「……ぁ」

 声が漏れた。漏れ方が小さい。小さいから、誰も笑わない。


 タケルが肩まで浸かって、目を細めた。

「ここ、すごい。……なんか、神みたい」

「断定するな」

 ユリネが即座に言った。

「……推測」

 タケルがすぐ言い直して、湯気の向こうで誰かがくすっと笑った。


 シノは湯の縁で、指先だけ湯を撫でた。

 撫でた指が、すぐ胸の前に戻る。熱が、そこに残る。

 残った熱が、顔を少しだけ明るくする。

 シノが何も言わないまま、湯気を見上げた。湯気が、ちゃんと白い。


 湯の中でも、順番はある。

 場所を譲るのは、出るときだけ。

 だから、出るときが来ると、ちゃんと小さな儀式が発生する。


「出ます」

「どうぞ」

「ありがとう」


 この三つで終わる。

 終わると、入る人が入れる。

 入れると、湯が温度を保てる。

 保てると、みんなの顔がほどける。


 ほどけた顔を見て、レンカが小声で言った。

「湯って、順番を褒めてくれる」

「湯は喋らない」

 ユリネが返す。

「でも、褒められた気がする」

 レンカが笑った。笑えるなら勝ちだ。


 湯から上がる頃には、外の空気が少しだけ優しく感じる。

 優しく感じるのは、体が温かいからだ。体が温かいと、人はだいたい優しい。

 優しい人が増えると、また譲り合い無限が出る可能性がある。だから最後も順番だ。


 脱衣の間で、誰かがまた「どうぞ」を言いかけた。

 言いかけた瞬間、コトが先に笑った。

「出るときだけ!」

 笑いながら言うと、誰も傷つかない。傷つかないと、湯屋は湯屋のままでいられる。


 そのまま脱衣の間のベンチでも、無限が生まれかけた。

 湯上がりのベンチは、座れる場所が三つあって、座りたい人が四ついる。

 四つ目は、たぶん「気持ち」だ。


「ここ、どうぞ」

「いえいえ、あなたが」

「いや、私は立って拭くから」

「立って拭くと、雫が飛ぶ」


 飛ぶ雫は悪じゃないが、床が増える。

 床が増えると、滑りそうが増える。

 増えると、また“どうぞ”が増える。


「……座るなら座れ。座らないなら端へ」

 ユリネが淡々と言った。

 淡々と言われると、みんな笑って、ちゃんと座った。

 座ると拭ける。拭けると出られる。出られると、次の人が助かる。


 欠け桶の横で、結び家は自分たちの桶を拾い上げた。

 探さないで済んだので、帰る足が軽い。

 軽いと、腹が鳴る。


 湯屋を出た瞬間、冷たい風が頬に当たって、レンカが跳ねた。

「さむっ! でも、今なら走っても滑らない!」

「走るな」

 ユリネが言う。

「湯は逃げない。飯も逃げない。順番」

「順番……」

 レンカが口を尖らせて、次に笑った。

「じゃあ、帰ってから、いちばんに食べる!」


 いちばん、は危ない言葉だ。

 危ないのに、今日は笑える。湯気で一回ほどけたからだ。


 結び家の戸を開けると、台所の匂いが待っていた。

 昨日の朝市の名残の野菜が、今日はちゃんと鍋になる匂いをしている。


 タケルが湯上がりの頬で言った。

「湯の後の飯、最強だな」

「最強は断定」

 ユリネが返す。

「……推測。めちゃくちゃ最強っぽい」

 タケルが言って、みんなが笑った。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」


 言ったあと、全員が一瞬だけ止まった。

 湯はもう入った。

 でも、結び家の合図は今日もそれでいい。

 合図があると、生活が回る。だから、今日も勝ちだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ