第21話 湯屋
湯屋は、湯気から始まる。
湯気はだいたい、正しい顔をしている。怒ってない。押してこない。ただ、そこにあるだけで人をほどく。
入口の戸を開けた瞬間、結び家の全員の肩が一段落ちた。
「わ……あったかい」
コトが息を吐いた。吐いた息がすぐ見えなくなる。湯気が勝つ場所だ。
「笑ってる声がする」
レンカが言って、耳をすませる。奥から、どっと笑いがこぼれてくる。
笑いは湯の付属品だ。湯があれば笑いが出る。笑いが出れば、今日は勝ちだ。
「……走るな」
ユリネが言った。
湯屋で走ると、床が滑る。滑ると痛い。痛いと泣く。今日は泣かせない係だ。だから、最初に止める。
湯屋の玄関は小さい。
小さいのに、置くものが多い。草履。桶。手ぬぐい。籠。あと、人の気持ち。
気持ちは置けないから、だいたい人は物を置いて気持ちを置いた気になる。
しかも湯屋は、入口でまず足が止まる。
段差がある。濡れてる。誰も言わないのに、みんな一回だけ慎重になる。
慎重が揃うと、場が整う。整うと、次に余裕が出る。余裕は優しさを呼ぶ。優しさは、ときどき詰まりを呼ぶ。
「お先、どうぞ」
「いえいえ、あなたが」
入口でそれをやると、後ろが詰まる。
詰まると、湯気が外へ逃げる。湯気が逃げると、損した気持ちになる。損した気持ちは増やしたくなる。増やすと、また詰まる。
タケルが後ろをちらっと見て、顔をしかめた。
「……今、入口で“どうぞ”やったら、後ろが詰まる顔してる」
「顔、って何だ」
ユリネが返した。乾いた返しなのに、湯気のせいで柔らかく聞こえる。湯気は偉い。
そこで、欠け桶が登場した。
欠けた木桶。縁がちょん、と欠けている。昨日も今日も、誰も直していない。
直していないのに、目印としては完璧だ。欠けは、見つけるためにある。
「……ここ」
ハルが小さく言って、欠け桶の横に自分たちの桶を寄せた。
誰かの桶と並んでも、欠けだけは嘘をつかない。
結果として、探す時間が減った。以上。
探さないで済むと、次は靴だ。
靴は並べると勝つ。並べないと、帰りに迷う。迷うと、また“どうぞ”が増える。
レンカが自分の草履を揃えて置こうとして、隣の人の草履まで揃えかけた。
揃えかけるのは優しさだが、他人の靴を勝手に触るのは危ない優しさだ。
「……やめろ」
ユリネが即座に言った。
「触るなら、本人に言え」
「言う!」
レンカが元気よく言いかけて、そこで止まった。
言うと、また入口で会話が増える。
増えると、詰まる。
レンカは唇を噛んで、自分の草履だけを揃えた。
えらい。えらいが、目が悔しい。悔しさは次の安全装置になる。
脱衣の間に入ると、もうひとつ湯屋の札があった。
札というか、作法というか、空気というか。
誰も大声で「ここはこうです」と言わない。
でも、足が止まる場所がある。籠が寄る場所がある。布が掛かる位置が決まっている。
決まっていると、人は安心して、ちょっとだけ自分勝手になれる。
レンカが籠を抱えたまま、うずうずしている。
「ねぇ、ここ空いてる! ここに置く!」
「そこは通る」
コトがさらっと言った。さらっと言えるのが偉い。札がなくても札がある顔をしている。
タケルが壁際の棚を見上げた。
棚はある。あるが、棚の前が道でもある。
道の前に籠が出ると、道が消える。道が消えると、湯屋は“温かい迷路”になる。
「……置くのは壁際。でも、壁際でも道を作る」
タケルが小声で呟いた。
「誰に教わった」
「俺の足が。昨日までに」
ハルは畳み方がやけに丁寧だ。丁寧すぎて、布が静かに息をする。
シノはその手元を見て、ぼそりと言った。
「……きれい」
誰も騒がない。湯屋では、ぼそりが許される。許されると、ぼそりが続く。
湯気の方へ足を向けると、次は洗い場だ。
洗い場は戦場ではない。戦場じゃないのに、たまに戦場みたいに混む。
理由は単純だ。みんな優しいからだ。
空いている場所を見つける。
見つけたら、譲る。
譲ったら、次の人が「いやいや」と譲り返す。
譲り返された人が「じゃあ端へ」と動く。
動いた人の後ろに、また人が来る。
人が来ると、また譲る。
結果として、場所が固定されない。
固定されないと、入れ替わりだけが増える。
増えると、足が忙しい。足が忙しいと、桶がぶつかる。桶がぶつかると、水が跳ねる。
跳ねた水が「ごめん」を増やす。ごめんが増えると、さらに譲る。負けの循環だ。
「ごめんね、ここ、使って」
「いやいや、あなた先に」
「いいのよ、若いんだから」
「若いからって、滑ったら終わりだよ!」
笑いが混じっているうちは、まだ楽しい混雑だ。
でも、楽しい混雑は一歩ずれると、ただの詰まりになる。
レンカが、空いている場所を見つけた。
「ここ! ここ空いてる!」
見つけるのが早い。早いのは悪じゃない。早いのは、方向が要る。
レンカが桶を置こうとした瞬間、隣のおばさんが「どうぞ」と身を引いた。
身を引かれたレンカが、反射で引いた。
「えっ、じゃあ、そっちどうぞ!」
引くな。
引くと、向こうも引く。
引き合いになると、真ん中が空く。
空いた真ん中に、別の人が「空いてる!」と入る。
入った人が「ごめん、私ここでいい?」と聞く。
聞かれた二人が「どうぞどうぞ」とまた引く。
引くな。
コトが口を押さえた。
「……譲り合い、無限になるやつだ」
タケルが真面目な顔で頷いた。
「俺、今、目で見た。湯屋の無限」
無限は、笑えるうちはいい。
ただ、無限は、長引くと冷える。冷えるのは湯屋の負け方だ。
さらに悪いことが起きた。
誰かが石けんを落とした。ころん、と丸い音。
拾おうとする手が三つ伸びる。三つ伸びると、肘が当たる。肘が当たると「ごめん」が増える。
増えたごめんが、また譲り合い無限に燃料を足す。
「私、拾う!」
レンカが言った。
「拾うな」
ユリネが即座に言った。
「今、手が増えると、足が増える」
ユリネはしゃがまず、声だけで指示を置く。
「落とした人が拾え。拾えないなら、横の人に一言。受けた人は“その場で”渡せ。歩くな」
歩くな、が効く。
歩かないと、入れ替わりが増えない。
増えないと、湯気が勝つ。
落とした本人が「あ、すみません」と言って拾った。
横の人が「どうぞ」と笑った。
笑いが戻った。戻った笑いは、余計に動かない。偉い。
ユリネが一歩だけ前に出た。
怒ってはいない。叱る顔でもない。ただ、順番の顔だ。
「……湯は逃げない。順番」
言い方が短い。短いのに、空気がすっと固まる。固まるのは悪じゃない。崩すための固まりだ。
「座ったら、動くな」
ユリネが続けた。
「譲るのは、出るときだけ。入る人は、空きを取れ。取ったら、礼を言って終わり」
終わり、が入ると、人は終われる。
終われると、場所が固定される。
固定されると、洗える。
「……はい」
レンカが素直に返事をした。返事が出た時点で勝ちだ。
隣のおばさんも笑って頷いた。
「なるほどねぇ。譲り合いは、出るときだけ」
出るときだけ、は強い。
強い言葉は、生活を楽にする。
タケルが、欠け桶の方をちらっと見た。
欠け桶が見える位置にあると、不思議と落ち着く。
落ち着いた結果、肩が軽くなった。以上。
洗い場が落ち着くと、今度は桶の音が揃う。
ちゃぷん。ちゃぷん。石けんの泡がふわっと立つ。
泡が立つと、レンカの善意がまたふくらむ。ふくらんだ善意は、つい人を洗いたくなる。
「背中、流す!」
「流すな」
ユリネが即答した。
「流すと、返す順が増える」
「返す順……」
レンカが口を尖らせて、でも笑った。
「……はい。自分だけ」
コトが肩をすくめた。
「湯屋での“自分だけ”って、えらいよね」
「えらい」
ハルが小さく言った。ハルの“えらい”はだいたい本物だ。
体が洗えたら、次は湯だ。
湯は、そこにあるだけで勝っている。
ただし勝っている湯も、入り方を間違えると負ける。
入口の段差で、レンカが一瞬だけ止まった。
湯気が濃い。湯の面がきらっと光る。
光ると、飛び込みたくなる。飛び込むと怒られる。怒られると泣く。今日は泣かせない係だ。
「……すー」
レンカが深呼吸をした。
流行りは偉い。偉い流行りは事故を減らす。
「掛け湯」
ユリネが言った。
「かけ……湯?」
「いきなり入ると、湯が驚く」
「湯は驚くの?」
「湯は喋らない」
ユリネが返す。
「でも、驚いた気がするから、やめろ」
レンカが笑いながら、桶で湯をすくって、自分の足にかけた。
「……ぁ」
声が漏れた。漏れ方が小さい。小さいから、誰も笑わない。
タケルが肩まで浸かって、目を細めた。
「ここ、すごい。……なんか、神みたい」
「断定するな」
ユリネが即座に言った。
「……推測」
タケルがすぐ言い直して、湯気の向こうで誰かがくすっと笑った。
シノは湯の縁で、指先だけ湯を撫でた。
撫でた指が、すぐ胸の前に戻る。熱が、そこに残る。
残った熱が、顔を少しだけ明るくする。
シノが何も言わないまま、湯気を見上げた。湯気が、ちゃんと白い。
湯の中でも、順番はある。
場所を譲るのは、出るときだけ。
だから、出るときが来ると、ちゃんと小さな儀式が発生する。
「出ます」
「どうぞ」
「ありがとう」
この三つで終わる。
終わると、入る人が入れる。
入れると、湯が温度を保てる。
保てると、みんなの顔がほどける。
ほどけた顔を見て、レンカが小声で言った。
「湯って、順番を褒めてくれる」
「湯は喋らない」
ユリネが返す。
「でも、褒められた気がする」
レンカが笑った。笑えるなら勝ちだ。
湯から上がる頃には、外の空気が少しだけ優しく感じる。
優しく感じるのは、体が温かいからだ。体が温かいと、人はだいたい優しい。
優しい人が増えると、また譲り合い無限が出る可能性がある。だから最後も順番だ。
脱衣の間で、誰かがまた「どうぞ」を言いかけた。
言いかけた瞬間、コトが先に笑った。
「出るときだけ!」
笑いながら言うと、誰も傷つかない。傷つかないと、湯屋は湯屋のままでいられる。
そのまま脱衣の間のベンチでも、無限が生まれかけた。
湯上がりのベンチは、座れる場所が三つあって、座りたい人が四ついる。
四つ目は、たぶん「気持ち」だ。
「ここ、どうぞ」
「いえいえ、あなたが」
「いや、私は立って拭くから」
「立って拭くと、雫が飛ぶ」
飛ぶ雫は悪じゃないが、床が増える。
床が増えると、滑りそうが増える。
増えると、また“どうぞ”が増える。
「……座るなら座れ。座らないなら端へ」
ユリネが淡々と言った。
淡々と言われると、みんな笑って、ちゃんと座った。
座ると拭ける。拭けると出られる。出られると、次の人が助かる。
欠け桶の横で、結び家は自分たちの桶を拾い上げた。
探さないで済んだので、帰る足が軽い。
軽いと、腹が鳴る。
湯屋を出た瞬間、冷たい風が頬に当たって、レンカが跳ねた。
「さむっ! でも、今なら走っても滑らない!」
「走るな」
ユリネが言う。
「湯は逃げない。飯も逃げない。順番」
「順番……」
レンカが口を尖らせて、次に笑った。
「じゃあ、帰ってから、いちばんに食べる!」
いちばん、は危ない言葉だ。
危ないのに、今日は笑える。湯気で一回ほどけたからだ。
結び家の戸を開けると、台所の匂いが待っていた。
昨日の朝市の名残の野菜が、今日はちゃんと鍋になる匂いをしている。
タケルが湯上がりの頬で言った。
「湯の後の飯、最強だな」
「最強は断定」
ユリネが返す。
「……推測。めちゃくちゃ最強っぽい」
タケルが言って、みんなが笑った。
ユリネが短く言う。
「飯! 湯!」
言ったあと、全員が一瞬だけ止まった。
湯はもう入った。
でも、結び家の合図は今日もそれでいい。
合図があると、生活が回る。だから、今日も勝ちだ。




