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泣かせない係のおねぇちゃん、世界を盛りすぎる  作者: 科上悠羽


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第2話 きれいより先に腹が鳴る

 きれい。


 その次に。


「……ぐぅ」


 ハルのお腹が鳴った。鳴った音は、昨日みたいに山じゅうを駆け回らなかった。ちゃんと、ハルの中から出て、ハルの前で「すみません」と小さく頭を下げて消えた。音が礼儀を思い出している。それだけで今日は、少し助かる。


 助かる、のに、恥ずかしい。


 腹の音は、泣くより早い。泣く暇がない時でも、腹は鳴る。鳴ることで「生きてる」を勝手に報告してくる。報告はありがたいのに、うるさい。


 ハルは、火守の小屋の前にしゃがみ込んだ。


 小屋は、素朴だった。派手さがない。盛りがない。盛りがない、というだけで心が落ち着く世界があるんだ、とハルは思った。木の壁は木の顔をしていて、屋根は屋根の仕事をしている。そこに「きれい」の余計が刺さらない。昨日の朝日が大騒ぎだったぶん、こういう普通が身にしみる。


 小屋の中から、かさ、と音がした。


 火守がいる。いるはずだ。火を守る人。山頂に人が少ないなら、少ない中で一番「ここにいる」人。


 扉が開いて、出てきたのは、眠そうな顔だった。眠そうな顔はだいたい優しい。眠そうで優しいのに、背筋だけは伸びている。火守という仕事はそういう仕事だ。


「……おや」


 火守はハルを見た。目を細め、次に、鼻をひくひくさせた。山頂の空気の匂いを嗅ぐ顔だ。火守の顔は「匂い」を見張る。


「こりゃ……昨日のやつかい」


 言い方が、昨日の嵐みたいに軽い。軽いのがありがたい。重くされると、ハルは困る。困ると泣く。泣くとまた誰かが盛る。盛られると山がうるさくなる。いやだ。


 火守は小屋の中へ顎をしゃくった。


「寒いだろ。入んな。火はある。湯は……まあ、湯はそのうちだ」


「……ひ」


 火、と言いたかったのかもしれない。入る、と言いたかったのかもしれない。ハルはうまく言葉にならないまま、立ち上がって、小屋に入った。


 火の匂いがする。


 それだけで腹がもう一回鳴った。


 火守が笑った。


「腹が鳴るのは、元気だ。元気なら……」


 火守は棚の上から、乾いた何かを取り出した。硬そうな芋の干し物みたいな、素朴なやつだ。山頂らしい。派手さがない。盛りがない。盛りがないから、噛める。


 ハルはそれを両手で受け取った。受け取る手が少し震える。寒さの震えと、嬉しさの震えは似ている。似ているのが困る。


 かじる。


 かじった音が、昨日なら山じゅうに響いたはずなのに、今日はちゃんとハルの口の中だけで起きた。歯が「仕事したよ」と言って終わる。歯が仕事をしただけで感動するのは、自分がまだ“普通”に慣れていない証拠だ。


 火守は、火のそばで小鍋を揺らした。水が少しだけ温まっている。湯には遠い。でも、冷たさがほどけるだけで十分な時がある。


「おまえさん……どこから来た」


 火守が聞く。聞くけど、追い詰める聞き方じゃない。火守の質問は、火の加減みたいに、ほどほどだ。


 ハルは芋を抱えたまま、首をかしげた。来た、という言葉が分からないのか、分かっても答えが出ないのか、本人も曖昧な顔をする。曖昧な顔は、子どもの特権だ。


「……ぴか」


 昨日の朝日のことを言っているのかもしれない。


 火守が息を吐いた。


「……雲見台の見張りが騒ぎそうだな」


 騒ぎそう、ではない。もう騒いでいる。


---


 雲見台。


 スズは今日も耳を押さえていた。昨日の音の過剰は“ほどほどの風”で畳まれたはずなのに、スズの神経だけはまだ畳めていない。


「カナメ……小屋から匂いする……」


「火だろ」


「違う! 火の匂いじゃなくて……なんかこう……お腹が勝手に『寄って行け』って言う匂い!」


 スズは自分の腹に裏切られていた。腹は裏切る。腹は正直だ。正直すぎると困る。


 カナメは双眼鏡を覗きながら、淡々と言った。


「腹が寄っていく匂いは、噂も寄ってくる」


「やだぁ……噂って、どのくらいの速さで寄ってくるの……」


「朝までに麓に落ちる」


「早い!」


「早い」


 カナメは淡々と頷いた。見張りの淡々は、結論を遅らせない淡々だ。遅らせると、面倒が増える。増えると、泣く神が出る。泣く神が出ると、主犯が盛る。盛ると山がまたうるさくなる。


「……昨日の“きれいすぎる”は畳めた。今日は、匂いか」


「匂いって……匂いって、盛れるの……?」


「盛れる。盛る神がいる」


 カナメが空を見上げた。空は何食わぬ顔で青い。青い顔をした厄介は、だいたい上にいる。


「……噂になる前に、回収担当に当たる」


「ミナギさん?」


「ミナギだろうな」


 スズが安堵した顔をした。ミナギという名前は“現場が回る”匂いがする。現場が回る匂いは、安心に近い。


 ただし、その匂いに、別の匂いが混ざり始めた。


 小屋の周りだけ、やけに、いい匂いがする。


 火の匂いに、芋の匂いに、木の匂いに、そこへ「よすぎる匂い」が薄く上書きされる。上書きの仕方が丁寧すぎる。香りが礼儀正しい。礼儀正しい匂いは、逆に怪しい。


 スズが目を見開いた。


「……カナメ……あれ、誰か来る……」


 山頂の稜線の向こうから、人影がひとつ、ふらりと現れた。


 通りすがりの顔。通りすがりの歩き方。通りすがりの、がまんの仕方。


 大人だ。大人だけど、どこか少年みたいに、背中が軽い。軽いのに、腹の辺りだけが重そうに見える。


 スズが息を呑む。


「え、山頂に、人……? え、登ってきた……? 匂いで……?」


「匂いで来る」


 カナメが言う。


「それ、危なくない……?」


「危ない」


「止める……?」


「止める」


 カナメが立ち上がった瞬間、スズが袖を掴んだ。


「でも……その人、奪いに来る顔じゃない……」


「奪いに来る顔じゃないのが、一番困る時もある」


 奪いに来る顔なら、追い返せる。

 奪いに来る顔じゃないと、こちらが譲りたくなる。譲りたくなると、順番が乱れる。順番が乱れると、生活が困る。


 困る、は、結び家の遠い言葉じゃない。山頂でも困る。


 人影が、火守の小屋の前で立ち止まった。


 小屋の中の火が、ぱち、と鳴る。鳴った音が普通の一回で終わる。普通が続くと、妙に不安になる。今日の異常は、音じゃない。匂いだ。


---


 神界。


 ゆれりん。


 今日も鈴の音はかわいい。かわいいのに職員室の空気がまた「やばい」の形に折り畳まれる。折り畳まれると、紙が勝手に整列する。整列しないのに、整列したい気配が部屋に満ちる。


「急案件です!」


 チヨが走ってくる。走りながら紙の角を揃えようとしている神の動きだ。角を揃えたい神が、いちばん危ない。昨日と同じ。学習が追いついていない。


「し、失礼、急案件です! 現象……匂いが……良すぎます!」


 言い切った瞬間、チヨが自分の言葉に負けそうになる。「良すぎます」って何。


 マドカが即座に拾う。


「現象スタンプは」


 ナギがきれいな声で続ける。


「数字はいらない。現象は現象で分かる」


 チヨが掲示板へ駆け寄って、現象スタンプの棚を探る。そこに、新しい字が、もう準備されていた。角ばって小さい字で、無慈悲に。


【匂】


 文字が一つで全部を説明してくるのが怖い。

 説明が短いほど、現場は長い。


「地上、真昼山、火守の小屋周辺! 匂いが……人を呼びます!」


「呼ぶ匂いは汚れる」


 ナギが刺す。きれい係の刺しは、いつも短い。


「呼ぶ匂いは噂も呼ぶ」


 マドカが続ける。なかない係は、泣かせないために現実を直視する。


 そして、扉が開く。


 開きすぎる。


「おねぇちゃんに、まかせて!」


 アマネが今日も盛れている。盛れているのに、今日は鼻が先に動いていた。鼻が“匂い案件”の顔をしている。神が鼻で仕事を始めると、ろくなことにならない。


「いい匂いにしたの! 泣きそうな子は、お腹が鳴るでしょ? だからね、匂いで包んだの!」


「包み方が雑だ」


 マドカが言う。


「雑じゃないよ! 丁寧に包んだよ! すっごく丁寧に……」


「丁寧が一番危ない」


 ナギが刺す。丁寧な異常は、現場から見えにくい。


 外直結の大きな出入口が、どん、と鳴った。


「ゲンたち、入るぞ!」


 なおし係が来る。複数形で来る。複数形でないと怖い仕事をしているから。


「現象は匂いか」


 ゲンたちが工具箱を開ける。今日は工具箱の中から、見えない袋が出てくる。袋は見えない。見えないのに、袋の形だけが分かる。神界の道具はだいたいそういう顔をしている。


「匂いは消さない。畳む」


 ゲンの一人が言った。


「畳むって、どう畳むの?」


 アマネが身を乗り出す。興味の方向が、いちいち危ない。


「匂いの居場所を、小屋の周りにだけ残す」


「残すの!?」


「残す。生活がある。匂いがゼロは、また危ない」


 マドカが頷いた。ゼロは危険。昨日と同じ結論。学習が追いつくのは現場で、神界では遅い。


 院代のにこにこ怖い声が、今日も切れ味を持つ。


「終結条件は同じです。地上が生活に戻ったら【幸】。匂いが人を呼んでも、順番が回るなら終結です」


 “匂いが人を呼んでも”。さらっと言う。さらっと言うのが怖い。役所は、怖いことを可愛い顔で言う。


「よし!」


 アマネが拳を握る。


「じゃあ匂いで皆を幸せに……」


「ほどほどに」


 全員の声が揃った。揃い方が怖い。角が揃っている。


「……ほどほどに!」


 アマネが言い直した。言い直せるのは偉い。まだ学んでないけど、学ぶ入口にはいる。多分。匂いで。


---


 真昼山の山頂。


 通りすがりの大人は、小屋の前で立ち尽くしていた。


 火守が扉を開ける。火守の顔は、山の顔だ。山の顔は簡単に驚かない。


「……誰だい」


 通りすがりは、肩をすくめた。奪わない人の仕草だ。奪わない人は、肩を小さくする。自分の幅を減らす。


「……通りすがりです」


 言い方が、通りすがりの顔をしている。

 通りすがりのくせに、目が小屋の中を見てしまっている。匂いが、目を引く。腹が、目を引く。


 ハルは小屋の奥で、芋を抱えたまま、じっと見ていた。見ているのに、見ていないふりもしている。子どもは、そういう器用さを持っている。


 火守が言う。


「通りすがりが、山頂まで?」


「……気づいたら……」


 通りすがりは、口元を引きつらせた。照れている。照れる場所がそこじゃないのに照れている。照れるのは、奪わない人の癖だ。


「匂いが……」


 言いかけて、言い切らない。言い切ると、貪欲に見える。貪欲に見えるのが嫌で、耐える。耐えるのが得意な顔。


 火守はため息をついた。ため息は怒りじゃない。山頂のため息は「困ったね」のため息だ。


「……入んな。奪うんじゃないなら」


 通りすがりの肩が、ほんの少しだけ落ちた。耐えていた分が落ちた。


「……ありがとうございます」


 礼が、丁寧だ。丁寧な人は、だいたい自分を後回しにする。


 カナメが外から声をかけた。


「火守! そいつは……」


「分かってるよ!」


 火守が遮る。遮るけど、強くはない。

 カナメが小屋の影から姿を見せる。見張り番の目だ。目が「噂になるぞ」と言っている。


 スズもそわそわと顔を出し、通りすがりを見て、小さく言った。


「……奪いに来た顔じゃない……」


「奪いに来た顔じゃないのが怖いって言っただろ」


 カナメが小声で返す。怖いの種類が違う。山頂の怖いは、だいたい“優しさの扱い”に関係している。


 通りすがりは、名乗らなかった。名乗ると居座りそうで怖いのかもしれない。名乗ると責任が生まれる。責任が生まれると、奪ってしまいそうで怖い。奪わない人は、名を隠す。


 火守が、芋の干し物をもう一つ、棚から出した。


「腹が鳴るなら、食え。鳴らないなら……まあ、食え。山頂は冷える」


 通りすがりが、受け取る手をすぐには出さなかった。遠慮が勝つ。遠慮は美徳に見える。美徳が過ぎると、現場が困る。


 ハルが、芋を一口、かじった。


 かじる音が、小屋の中だけで小さく鳴る。


 その音が、通りすがりの目を一瞬だけ緩めた。音が普通であることが、救いになる。救いがあると、手が出せる。


 通りすがりは、ようやく芋を受け取って、小さくかじった。


 噛んだ瞬間、照れた。なぜ照れる。

 照れた顔が、なんだか子どもみたいで、スズが変な顔をした。


「……大人なのに……かわいい……」


「言うな」


 カナメが止めた。言うと噂になる。噂は増える。増えると回収担当が怒る。


 火守が小鍋の水を揺らした。湯には遠い。でも、温かい気配はある。

 ハルは、芋の端を握り直した。端が手の中で、少しだけ柔らかくなる。


 その時。


 小屋の外で、風がふわりと回った。


 匂いが、ふわりと畳まれる。


 匂いが消えるのではなく、小屋の周りにだけ“居場所”を作るように収まっていく。

 遠くへ飛ばない。近くに残る。残り方が、丁寧だ。丁寧な匂いは、また怖いのに、今日は助かる。


 スズが鼻をひくひくさせて、ぽつりと言った。


「……まだ、いい匂いする……」


「するな」


 カナメが言う。


「でも、山じゅうじゃない……」


「……それなら、噂は“山じゅう”にならない」


 カナメは、言葉を選んだ。選ぶ言葉が、見張りだ。


 火守が、通りすがりへ視線を向けた。


「名は」


 通りすがりは、一瞬だけ迷って、首を振った。


「……まだ、いいです」


 奪わない、耐える、照れる。

 その三つが、名札みたいに胸にぶら下がっている。


 ハルは、そのやり取りを見ながら、芋を抱えて、また一口かじった。


 腹の中に、温かいものが落ちる。


 温かいものが落ちると、世界の「きれい」は少しだけ落ち着く。

 落ち着く、というより、きれいが“仕事”に戻る。きれいは景色の仕事をして、匂いは匂いの仕事をして、音は音の仕事をしている。


 小屋の周りだけ、いい匂いがする。


 山頂全体じゃない。小屋の周りだけ。

 それは、誰かがここに「居ていい」と言った印みたいだった。


 カナメが、雲見台へ戻る前に、ぽつりと落とす。


「……噂になるぞ」


 スズが小さく頷いた。


「うん……でも、たぶん……悪い噂じゃない……」


「悪い噂じゃなくても、面倒は増える」


「面倒は増えるね……」


 面倒は増える。でも、面倒が増えるくらいなら、生活で回せる。


 火守が、火に薪を一本だけ足した。一本だけ。ほどほどだ。

 炎がぱち、と鳴る。


 その音は、普通の一回で終わった。


 ハルは、それを聞いて、また笑ってしまった。


 泣かないで笑えるなら、それで今日は、十分だ。


 空のどこかで、誰かがまた「おねぇちゃんに、まかせて!」と言いたそうな気配はしたけれど、風が、ほどほどにそれを畳んでくれていた。


 山頂の二日目は、寒くて、腹が鳴って、匂いがよすぎて、少しだけ回った。


 小屋の周りだけ、いい匂いが残ったまま。

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