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第19話 点火:朝市早出し

 朝は、だいたい「まだ朝じゃないところ」から始まる。

 湯が鳴る前。飯の匂いが立つ前。欠け桶がただの桶に見えるくらいの薄暗さ。

 だから結び家は、朝の最初に深呼吸をする。


「……すー」


 ハルがやった。

 コトが真似をした。

 タケルが照れながらやって、レンカが大げさに吸って、シノが小さく笑った。


 そこで、戸が開いた。


「おはよ! 今日、朝市、早出しだって!」


 ミナギだった。

 息が白い。頬が赤い。元気。悪気ゼロ。善意だけが先に走っている顔。


 レンカの目が一瞬で光る。

 光るな。


「早出し! 早いなら、いっぱい買える!」


「買う前に落ち着け」

 ユリネが言う。怒ってはいない。いつもの乾いた声だ。


 ミナギは胸を張ったまま、さらに一言足した。


「だから、もう声かけてきた。『今日は早いよ』って!」


 その瞬間、台所の空気が一段だけ固くなった。

 固くなったのに、誰もミナギを責めない。

 責めると泣く。泣くとややこしくなる。

 ミナギは泣かないけど、朝市が泣く。


「……どこに」

 ユリネが聞いた。


「いつもの広場。いつもの人たち。準備してたから、手伝って、声も出して……」


 ミナギの“手伝って”は信用できる。

 信用できるからこそ、危ない。

 手伝うと、早くなる。早くなると、人が集まる。集まると、準備と買いが同じ場所に重なる。


 コトが口を押さえた。

「……やっちゃった?」


「やっちゃった、って言い方はやめろ」

 ユリネが切る。切り方が柔らかい。

「やったなら、回す。行くぞ」


 札は引かない。

 今日は札の外で起きている。

 外でも、順番は作れる。


 結び家は桶をひとつだけ持った。

 なぜ桶かというと、朝はだいたい水が要るからだ。

 井戸の縄が少し湿っていて、手がちゃんと冷えた。それだけ。


 広場に近づくと、声が先に届いた。

 早い。

 早すぎる。

 朝市の声は、いつも「おはよう」のあとに来るのに、今日は「おはよう」を追い越している。


「はい、早いよ! いける人、いけるよ!」


 ミナギの声だった。

 声が明るい。明るいから、みんなが反射で動く。


 屋台の布がまだ半分しか掛かっていない。

 箱の蓋が開きっぱなし。

 並べる途中の野菜が、まだ眠そうな顔で台の上に散らばっている。

 散らばっているのに、その前に籠を持った人が立っている。


「それ、まだ並べてる途中で……」

「でも『早い』って……」

「いや、売るよ、売るけど、ちょっと待ってね!」


 待ってね、が増える。

 待ってね、が増えると、足が止まる。

 足が止まると、後ろが詰まる。

 詰まると、別の屋台の前に人が溢れる。

 溢れた人が「ここ空いてる」と言う。

 言われた屋台が慌てて布をめくる。

 めくると、まだ値が付いていない。

 値がないと、聞く。

 聞く声が増える。

 増えた声が、準備の手を止める。


 朝市が、朝じゃなくなる。

 忙しさだけが先に来て、リズムが後から追いかける。


 さらに悪いのは、“早いから助かるはず”が、今日は空回りすることだ。

 早いから、まだ釣り銭が揃っていない。

 早いから、包み紙が出ていない。

早いから、台が拭けていない。

 拭けていない台に、籠が当たる。

 当たる籠を、誰かが咄嗟に支える。

 支える手が、別の人の肩に触れる。

 触れた肩が「ごめん」と言う。

 ごめん、が増える。

 ごめん、が増えると、口が忙しくなる。

 忙しい口は、笑いが減る。


 減る前に、止めたい。


 レンカはもう、完全に手伝いたい顔だった。

「私、配る! 袋、持ってきた!」


「配るな」

 ユリネが即座に言う。

 言っただけで、レンカの手が止まる。止まれるようになっている。えらい。


 シノは、屋台の端の小さな湯気を見ていた。

 まだ売り物じゃない、試しに温めているだけのやつ。

 その湯気が、きれいで、怖い。

 きれいなものを見ると、言いたくなる。

 言うと、また“おまけ”が増える。


「……」

 シノは言わなかった。

 言わないのも、順番。


 タケルが一歩前に出る。

 目が“走り手”の目だ。

「俺、言ってくる。こっちは準備中だって、あっちは並ぶ場所だって……」


 その“言ってくる”が、網の匂いだ。

 まだ細い糸。まだ暴走してない。

 でも糸は、張り方を間違えると絡まる。


「待て」

ユリネが短く止めた。

 止め方が説教じゃない。

「今は走るな。走るなら、順番ができてからだ」


 タケルが唇を噛んで、頷いた。

 頷けるのが強い。

 走りたい子が止まれると、場が助かる。


 ミナギが、申し訳なさそうに首をすくめる。

「ごめん。助かると思って……」


「助かる、は正しい」

 ユリネは否定しない。

「正しいままにするには、手順が要る」


 ユリネは広場の端の石を指さした。

 角が欠けている。

 欠けは、だいたい目印になる。


「準備は欠けの内側。買う人は外側。一列。横に広がるな」


 言葉が短い。

 短いのに、動きが生まれる。


 コトが先に笑った。

「欠けまで、って言えばいい?」

「言え」

「欠けまで!」


 復唱が出ると、場が整う。

 整うと、準備の手が戻れる。


 ミナギが最初に動いた。

 動くのが早い。早いのは悪じゃない。早いのは、方向が要る。

 ミナギは屋台の人に声をかける。

「ごめん、準備中の台は、布かけて! 布がかかってるのは“まだ”ってことにしよう!」


 布は強い。

 布があると、見た目が一段落ち着く。

 落ち着くと、買う人の手が引っ込む。


 屋台の人が笑った。

「なるほど。布は札だねぇ」


 札、という言葉にレンカが反応しそうになって、コトが肘でつついた。

 つつかれたレンカは、深呼吸をした。


「……すー」

 吸って、吐いて、顔の光が一段落ち着く。


 ユリネは、次に“道”を作った。

 広場の真ん中に、誰も置きたくない場所を一つ作る。

 そこは通るだけ。

 通るだけの場所があると、みんながぶつからない。


「通る道、一本」

 ユリネが言う。

 言うだけで、目が足元に落ちる。


「買う列の横に、準備の道を作れ。置く籠は壁際。口を外」


 口を外。

 桶の時の言い方が、そのまま出る。

 朝市の人たちが「それそれ」と笑う。

 笑いが戻ると、息ができる。


 壁際に籠が寄る。

 寄ると、真ん中が空く。

 空くと、準備の人が通れる。

 通れると、野菜が並ぶ。

 並ぶと、値が付く。

 値が付くと、聞く声が減る。


 減った声のぶんだけ、釣り銭の音が戻る。

 カチ。

 カチ。

 朝のリズム。


 でも、まだ混ざる。

 “早出し”の言葉が、すでに広がっているからだ。


「早いって聞いたよ!」

「うちも早く出す?」

「出せるけど、まだ袋が……」


 袋がない、が出た瞬間に、レンカが身体を乗り出した。

 袋ならある。結び家は袋を持ってきている。

 袋を出すと、助かる。

 助かると、また別の助けが欲しくなる。

 欲しくなると、増える。


「……袋、あげる!」

 レンカが言いかけて、ユリネを見る。

 見られると、言い方が変わる。


「……貸す? 返す? えっと……順番……」


 レンカが自分で迷った。

 迷えるのが、勝ちだ。


「貸すなら、置き場を作れ」

 ユリネが言う。

 怒らないで、場所を先に決める。

 決めると、増えない。


 ミナギがさっと布を一枚持ってきて、壁際に敷いた。

 布の上に、袋を三つだけ置く。

 三つだけ。

 三つだけ、が強い。


「これ、借りたい人はここ。返すのもここ。……それ以上は、今は無し!」

 ミナギが言う。

 言い切ったのに、声が明るい。

 明るい制限は、助かる。


「助かるわぁ」

 屋台の人が笑った。

「早いのはいいけど、先に順番だねぇ」


 その一言で、空気が軽くなった。

 軽くなると、レンカがまた動きたくなる。


「じゃあ私、布、押さえる係! 風、くるから!」


「押さえるのは一本ずつ」

 ユリネが言う。


「一本ずつ!」

 レンカが復唱して、一本だけ押さえた。

 一本で勝てる日を覚えると、増やさなくなる。


 タケルは、走る代わりに、目だけで広場を見渡した。

 誰が困っているか。

 どこが詰まりそうか。


 タケルが小さく指を立てる。

 コトがそれを見て、同じ指を立て返す。

 声を出さない合図。

 網は、いまは糸。

 糸のうちに、絡まらないようにする。


 ハルがぽつりと言った。

「……早いのが勝ちじゃない日、あるね」


「ある」

 ユリネが言う。

「早いなら早いで、順番を先に作れ」


 言ってから、ユリネは少しだけ口角を上げた。

 説教じゃない。

 次の合図だ。


 朝市は、ようやく“朝”になった。

 匂いが追いつく。

 小銭の音が落ち着く。

 眠そうな野菜が、ちゃんとした顔で並ぶ。


 ……そのころ。


 織帳院の掲示板に、紙が一枚増えた。

 太い字で、こう書いてある。


『欄は、早出しでも増える』


「……いやぁ……」

 はんこ係のチヨが、机に突っ伏す音がした。


 地上は地上で、買い物が落ち着いていく。

 落ち着くと、欲しいが戻る。

 戻った欲しいは、ちゃんと数を数えたくなる。


「一個ずつ」

 ユリネが言う。

 朝市でも、結び家の魔法は効く。


 コトが籠に入れながら数える。

「いち。に。……さん、で止める」

「止めるの?」

「止める。止められるのが強い」


 タケルが笑う。

「強い、増えたな」

「増やすな」

 ユリネが言う。

 言われたタケルが、もう一回笑った。笑って止まれる。


 シノは最後に、湯気の屋台の前で小さく指を伸ばした。

 伸ばした指が止まる。

 止まった指が、コトの袖を引く。


「……きれい」

 小さい声。

 小さいから、誰も騒がない。


 屋台の人が、にこっとして、ほんの少しだけ多めに包んだ。

「朝、頑張ったからね」

 頑張ったのは、順番。

 だからこのおまけは、増殖しない。


 買い物が終わるころ、ミナギが籠を持って肩をすくめた。

「……今朝だけ特別、って、早くすることじゃなかったな」


「特別は、回り方だ」

 ユリネが返す。

 乾いた返しなのに、ミナギが笑った。


 結び家は帰る。

 袋は少し重い。

 足取りは軽い。


 帰り道、レンカが袋を揺らして言った。

「ねぇ、早出しって、早く食べていいってこと?」

「違う」

 ユリネが即答する。

「早くするのは“段取り”だ。食べるのは順番のあと」


 ミナギが頭を掻いた。

「……俺、段取りを早くしたつもりで、段取りを壊したな」

「つもり、は悪じゃない」

 コトが言う。

「つもりのまま走るのが、だめ」


 タケルが袋の口を外に向け直しながら、ぽつり。

「今日のさ。走りたかった。言いに行けば早かった」

「早かっただろうな」

 ユリネは認める。

 認めてから、ちゃんと止める。

「でも今日は、言葉が増える日だった。走り手が走ると、言葉がもっと増える」

「……増えると、欄が増える?」

 タケルが言って、みんなが一瞬だけ黙った。

 黙って、次に笑った。

 分からないままでいい。分からないまま笑えるなら、勝ちだ。


 結び家の戸を開けると、台所が迎えた。

 鍋はまだ静か。静かな鍋は、これから鳴れる。


 買ってきたものを、床に広げる。

 広げると、レンカの善意がまた膨らむ。


「全部切る! 全部洗う! 全部並べる!」

「全部、は無理だ」

 ユリネがさらっと言う。


 さらっと言われると、レンカは一瞬だけ悔しい顔をして、すぐに自分で数え始めた。

「じゃあ……一個ずつ」

「そうだ」

 ユリネが頷く。


 コトが札束に手を伸ばしかけて、止めた。

 朝市では札を使わなかった。だから今、札がやけに頼もしく見える。

 頼もしいものは、増やしたくなる。

 増やすと、また朝市になる。


「……今日は札、少なめで回そう」

 コトが言って、みんなが笑った。


 ミナギが袋の中から布を取り出して、壁際に敷いた。

「借り袋の場所、ここで良かったよな?」

「良かった」

 ユリネが言う。

「置き場があると、戻る」


 戻る、の言葉が台所に落ちて、空気が少しだけ柔らかくなる。

 柔らかいと、手が動く。

 手が動くと、腹が鳴る。


 タケルが小さく拳を握って言った。

「次、必要になったら、走っていい?」

「必要になったら呼ぶ」

 ユリネの返しは短い。

 短いのに、タケルの顔が明るくなる。

 許可は、未来に置く方が効く。


 シノが包みを胸に抱えて、ぽそっと言った。

「……湯気、まだきれいだった」

「きれいなまま持って帰れたな」

 ハルが言う。

 ハルの声も、少しだけ明るい。


 包みを開ける匂いが、台所に立つ。

 立った匂いが、今日の混乱を「もういいや」に変える。


 ユリネが、鍋の前で一度だけ深呼吸をした。


「……すー」


 吸って、吐いて、手を動かす。

 段取りは、ここからでも間に合う。


 ユリネが短く言う。


「飯! 湯!」


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