第18話 朝市
朝市は、声から始まる。
匂いは遅れて追いつく。
追いついた匂いが腹を叩く。腹が鳴る。鳴ると足が速くなる。朝市は、そういう場所だ。
「……走るな」
ユリネが言った。
言っただけで、レンカの足が一回だけ止まる。止まったが、目は止まっていない。
石畳の角を曲がると、もう人がいる。
まだ日がちゃんと上がってないのに、人がいる。
人がいるというより、籠がいる。桶がいる。布袋がいる。声がいる。
「おはよー」
「おはよっ」
「はいはい、通って通って」
固有名詞はない。
でも、誰がどこにいるかは分かる。
声が場所の札になっている。
いちばん端の台の前で、小銭がカチ、と鳴った。
音が乾いていて、気持ちがいい。
乾いた音は、朝のリズムになる。
「一番安いの、これねー。今日は先に無くなるよー」
「先に無くなるやつは、先に並ぶ」
コトが真顔で言って、すぐに笑った。
笑いながら、列の端を探す。探せるのが偉い。
ハルは列を見て、一歩引いた。
引いて、全体を見た。
慎重な子がいると、場が少しだけ落ち着く。少しでいい。
タケルは、もう目がキラキラしている。
「見て、あっち、干してる匂いする。……あれ、いい匂いだ」
「匂いは買えない」
ユリネの返しはいつも乾いている。乾いているのに、腹だけが正直だ。
そしてレンカ。
レンカは、匂いより先に“困ってる人”を見つける。
籠を二つ抱えたおばあさんが、列の端でちょっとだけ立ち止まった。
立ち止まったのは悪じゃない。
ただ、朝市は止まると後ろが詰まる。
「持つ!!」
レンカが言った。
言い終わる前に、手が伸びた。
伸びた手は優しい。優しいのに、方向が危ない。
「待て」
ユリネの声が先に刺さる。刺さるとレンカの手が止まる。止まれるのがえらい。
おばあさんが笑った。
「ありがとねぇ。でも、大丈夫よ」
「大丈夫でも持つ!」
レンカが言いかけて、ユリネを見る。
見ると、言い方が変わる。
「……持っていい?」
「順番だけ守れ」
「守る!」
レンカは、籠の取っ手に触れる前に、一歩だけ横へずれた。
通り道を空けるためだ。
結び家の順番が、口を開ける前に出てくる。
籠が軽くなったおばあさんが、列に戻れる。
戻れると、後ろの人が助かる。
助かるのは、こういうのだ。
いい感じ。
いい感じで始まった。
いい感じで始まると、善意は次をやりたくなる。
次が危ない。
列の先頭が近づくにつれて、レンカの視線が台の上を走り回る。
丸いの。細いの。土のついたの。葉っぱの元気なやつ。
早起きの野菜は、まだ眠そうな顔で並んでいる。眠そうなのに、やたら元気に見える。
見えると、欲しくなる。
「これ、安い!」
レンカが小声で叫ぶ。
小声なのに、声の中の“決意”だけが大きい。
「安いのは、だいたい一番先に無くなる」
コトが言う。
言いながら、わざとゆっくり息を吸った。
深呼吸は、暴走のブレーキだ。最近の結び家の流行り。
タケルが列の横で、くるくる回りそうになる。
「ねぇ、列、二つある。あっち、空いてる!」
「空いてるのは、たぶん売ってるものが違う」
ハルが冷静に言った。
正論で殴るな。殴ると泣く。泣くと買い物が増える。
タケルは「そっか」と言って、空いてる列の前で立ち止まる。
立ち止まった瞬間、そこで買う気になる。
買う気になった瞬間、荷物が増える。
増えると、持ちたくなる。持ちたくなると、優しさが走る。
走るな。
「……今日、袋、持ってきた?」
ユリネが一言だけ投げた。
レンカの肩が、ぴく、と跳ねる。
「持ってきた!」
レンカが胸を張る。
胸を張った袋の数が、ちょっと多い。多いのは悪じゃない。多いのは、だいたい布石だ。
列が進む。
台の前が近い。
台の前は、決断の場所だ。決断は、善意を膨らませる。
そのとき、台の向こうの人が、明るい声で言った。
「はい、今日はおまけつくよ。先にひとつ、口に入れてみな」
小さく切られた何かが、木の皿に乗っている。
匂いがふっと立つ。
甘い。土っぽい。朝の味。
「え、いいの?」
コトが目を丸くする。
「いいよいいよ。朝だし。みんなの分あるから」
“みんなの分ある”は危ない言葉だ。
危ないのに、優しい。優しいから、レンカが反応する。
「みんなの分あるなら……並ぶ前に配れば、列が早い!」
レンカが言った。
言った瞬間に、袋を開けた。開けるな。開けると配りたくなる。
レンカが木の皿を持ち上げる。
持ち上げた皿が、列の外へ動く。
列の外へ動くと、列が揺れる。
揺れると、後ろの人が“いま?”って顔になる。
「ちょ、レンカ」
コトが手を伸ばす。
伸ばした手が届く前に、レンカが笑顔で言う。
「はい! おまけ! 先に食べていいやつ!」
配るな。
配ると、列が崩れる。
列が崩れると、朝市が“楽しい混雑”から“詰まり”へ変わる。
後ろの人が一歩前へ出て、おまけを取ろうとする。
取ろうとした人の横から、別の人が「私も」と手を出す。
手が出ると、通り道が塞がる。塞がると、籠がぶつかる。籠がぶつかると、小銭の皿がカチカチ鳴る。
鳴り方が、さっきより焦っている。
「あ、ごめん!」
「いやいや、いいのよ」
「おまけ、いる?」
「いる!」
いる、が増えた。
増えると、欲しいが増える。欲しいが増えると、先回りが出る。
レンカがよかれと思って、皿を持ったまま、列の横に“配り道”を作ろうとする。
配り道は、道じゃない。
道じゃないものは、詰まる。
タケルが、ぎりぎりで籠を避けた。
避けた拍子に、隣の列にちょっとだけ入りかける。
入りかけると、二つの列が混ざる。混ざると、誰も悪くないのに、ややこしい。
ハルが「だめ」と言いかけて、言わなかった。
言うと責めになる。責めはしたくない。
だからハルは、視線で“ここ”を作った。
台の前の石に、小さな欠けがある。
欠けは、目印になる。
目印は、息をするためにある。
ハルがその欠けを指でとん、と叩く。
叩いて、レンカを見る。
レンカが一瞬だけ「あ」となる。
「……欠けまで」
レンカが言った。
自分で言えたのが、えらい。
「欠けまで!」
コトが復唱する。
復唱は札の代わりになる。
札がなくても、場は回る。
ユリネは、怒らない。
怒らずに、短く切る。
「皿、戻せ。列、戻せ。以上」
以上、の一言が、木槌みたいに落ちた。
叩く場所が正しいと、組み上がる。
タケルが、すっと腕を広げた。
「こっち通って! ここは“取る”! ここは“並ぶ”!」
偉そうに聞こえる。偉そうなのに助かる。
ちょっと偉そうな子どもは、場の空気を軽くする。
コトが笑いながら、レンカの皿を受け取って、台へ戻した。
「配るのは、買ってから!」
「買ってから配るなら、配っていい!」
レンカの目がまた光る。光るな。光ると増える。
「増やすな。回せ」
ユリネが言う。
レンカが口を尖らせて、でも頷いた。頷けるのが強い。
列が戻る。
戻ると、音が落ち着く。
小銭の皿が、カチ、と、また乾いた音に戻った。勝ち。
台の向こうの人が、申し訳なさそうに笑った。
「ごめんねぇ、おまけで騒がせちゃって」
「おまけは悪くない」
コトが即答する。
「悪いのは、先回り」
ユリネが淡々と続けた。
淡々としているのに、台の向こうの人が笑った。
笑いがあるうちは、回る。
そこで、シノが一歩前へ出た。
出たのが珍しい。珍しいから、全員の目が一瞬だけ集まる。
集まる目は、照れを呼ぶ。
「……これ、」
シノが指を伸ばす。
伸ばした指が、台の上の丸いのを指した。
「……きれい」
言った。
言ってしまった。
言った瞬間に、シノの耳が赤くなる。赤くなるのが早い。
早い赤は、限界一歩手前の合図だ。
台の向こうの人が、にやっとした。
「目がいいねぇ。じゃあそれ、ちょっとおまけで葉っぱも付けとくよ」
「……っ」
シノが息を詰めた。詰めた息が、次の照れを呼ぶ。
コトが間に入る。
間に入るのも順番だ。
「シノ、褒めた! 朝市に褒めた!」
「褒めたんじゃない、事実だ」
ユリネがさらっと言った。
さらっと言われると、シノの赤が“笑いの赤”に変わる。
タケルが小声で言う。
「事実って言い方、強い」
「強いのは悪じゃない。強いのは、守り方」
ハルがぽつりと言った。
言ったあと、自分でちょっと驚いた顔になる。
驚いてる間に、シノが笑って逃げた。逃げ方がかわいい。かわいいのは許される。
買い物は、進む。
台の前で、決める。
決めたら、渡す。渡されたら、袋に入れる。
袋に入れると、荷物になる。荷物になると、誰かが持ちたくなる。
持ちたくなると、優しさが走る。走るな。
だから、ユリネが一言だけ置く。
「一個ずつ」
一個ずつ、は魔法だ。
一個ずつで、全部が進む。進むと、朝市が朝市のままでいられる。
レンカは最後まで、配りたくてうずうずしていた。
でも今日は、配らない。
配る代わりに、袋の口を外に向けた。ぶつかっても中身が落ちにくいように。
細かい順番が、外へ滲んでいる。押し付けないのに、勝手に滲む。
帰り道、コトが袋を揺らして言った。
「朝市って、急がないのが口癖みたいだったね」
「急ぐと、混ざる」
ユリネが言う。
混ざる、の言い方が、ちょっとだけ嫌そうだ。嫌そうなのに、笑っている。
笑っているのは、今日が回ったからだ。
タケルが空を見上げた。
「……明日は、もっと早く動いた方がいいかもしれない」
言った瞬間、レンカの目がまた光った。
光るな。光ると、明日が忙しくなる。
「……飯!」
ユリネが先に言った。
言い方が“止め”だ。止めの飯は強い。
「湯!」
コトが追いかける。追いかける湯も強い。
結び家の袋が、ちょっとだけ重い。
重いのに、足取りは軽い。
軽いのは、順番が戻っている証拠だ。
だから今日も、最後はこれ。
「飯! 湯!」




