第11話 順番札、発明される
結び家の庭は、昨日の「洗濯の洪水」の名残をまだ少しだけ抱えていた。
土の湿り気が、朝の光に乾かされていく。干された布が風に揺れて、白い影が壁にゆらゆら映る。
「……きのう、すべった」
ハルがぽつりと言った。足元を見ながら、ちょっとだけ眉を寄せる。
それを聞いて、レンカが即座に胸を張った。
「すべったのは泡! 泡が悪い!」
「泡を出したのは誰」
ユリネが、鍋の蓋を手にしたまま、静かに返した。
返しが静かだと、レンカの反省が早い。
「……私です」
「よろしい」
ユリネは鍋の蓋をコン、と叩かなかった。叩くほどではない。
そのかわり、いつもより少しだけ丁寧に言う。
「で。昨日の結論、覚えてるか」
「口だけだと崩れる!」
コトが元気よく答えた。
元気が良すぎて、タケルまで乗ってしまう。
「つまり、声の洪水だった!」
「違う。声は川だ。堰がねぇのが問題だ」
ユリネは湯気の立つ椀を台所の端に置き、指を一本立てた。
「見える順番を作る。今日やる」
今日やる。
その四文字が、結び家の善意をまた立ち上がらせた。立ち上がるのはいい。走らないでくれ。
「作る! 札!」
レンカの目が輝く。
昨日の最後に、ユリネが言った「札でも何でも」が、レンカの中で勝手に形になっていたらしい。
「札って、HELPの札?」
シノが遠慮がちに訊いた。
ユリネは首を振る。
「違う。HELPは“困りごと”だ。これは“手順”だ」
「手順の札……」
シノが呟いて、少しだけ安心した顔になる。
困りごとを増やさない札なら、怖くない。
ユリネは台所の柱を指差した。結び家の中央に近い、みんなが必ず通る柱だ。
「ここに掛ける。束で回す」
「束!」
タケルが反応した。束という言葉は、なぜか男の子の心をくすぐる。
「だが条件がある」
ユリネは続ける。
「札は命令じゃない。争いの種にしない。混乱したら……」
ユリネは一拍置いて、昨日の庭を思い出すみたいに言った。
「『札、回せ。飯は逃げない』。これだけ」
その言葉が、結び家の空気をすっと整えた。
飯は逃げない。
逃げない飯があると、人は焦らなくていい。焦らないと、順番が守れる。
「……飯、逃げない」
ハルが復唱する。
小さな復唱は、家の芯になる。
作業はすぐ始まった。始まる前に、レンカが当然のように走り出そうとして、ユリネの目線で止まった。成長だ。
「札はどんなの?」
「厚めの紙。白すぎないやつ。角は丸く」
ユリネが条件を言うと、コトが即座に頷いた。
「わかった! 生成り!」
「生成りって言葉、どこで覚えた」
「なんか、かわいいから」
かわいいで決めるのがコトだ。かわいいは強い。生活の味方だ。
タケルが手を挙げた。
「丸い角、どうやって作る?」
「切って、削って、丸くする」
「削るのは俺だな!」
嬉しそうに拳を握る。削るという作業も、男の子の心をくすぐる。
「穴もあける。紐で束ねる」
「紐!」
レンカが叫び、コトが「紐かわいい!」と続け、シノが「紐……絡まりませんか」と小さく心配した。
「絡まる前に束で整える」
ユリネがさらりと言う。
“整える”が前提の家は強い。
札の制作は、意外と難しかった。
難しいと、善意はまた暴走しやすい。
なぜなら、難しい=助けたい=人が集まる、だからだ。
「紙、ここ!」
「切る、ここ!」
「丸める、ここ!」
「穴、ここ!」
台所の卓の上が、たちまち「ここ」だらけになった。
「ここが多い!」
ユリネが言い、全員が一瞬止まる。
「順番」
ユリネが短く言った。
すると、コトがすっと息を吸って、少し落ち着いた声で言い直す。
「……紙を切る順番、決めよっか」
それだ。
札を作るのに、札の順番が必要になる。
結び家らしい、ちょっと可笑しい瞬間だった。
まず、紙を切る。
名刺より少し大きいサイズ。厚め。生成り。
次に、角を丸める。タケルが削り担当で、机の端で黙々とやる。削りカスが出ると、レンカがすぐ掃きたくなり、コトが「掃く札も要る?」と言い出し、ユリネが「今日は要らん」と切った。
穴あけは、シノが担当になった。
意外そうな顔をするレンカに、シノは小さく笑った。
「……まっすぐ、あけるの、得意です」
シノの“得意”は静かで強い。
穴が一つずつ、同じ位置に、まっすぐ並ぶ。
まっすぐ並ぶと、心が落ち着く。
落ち着くと、善意が走らない。
「すごい……」
コトが呟く。
タケルも「へぇ」と感心して、削る手が少し丁寧になる。
最後に、文字。
ここでレンカが一番危ない顔をした。
書きたい。でかく。派手に。かわいく。
そして増やしたい。色も。飾りも。
そういう善意が、レンカの目に全部映っている。
「文字は、数字を大きく」
ユリネが言う。
「うんうん!」
「下に一語。短く」
「うんうん!」
「スラッシュは使わない」
「……すらっしゅ?」
レンカが首を傾げ、ユリネが説明しないまま進めた。説明すると増える。増えると走る。今日は走らせない。
札の“初期タグ”は、もう決まっている。
結び家の生活の核。
「洗」
「干」
「たた」
「飯」
「湯」
コトが声に出すと、ハルが指を折って数えた。
指を折るのは、ハルの“安心する手順”だ。
その様子を見て、ユリネは少しだけ声を柔らかくした。
「最初はこれだけ。増やしたくなったら、まず相談だ」
「増やしたい!」
レンカが即答した。即答が早い。
「だろうな」
ユリネも即答した。即答が早い。
「だから相談だ。札は命令じゃない。守る手順の目印だ」
「目印……」
ハルが欠け桶を思い出すように言った。
欠け桶は目印。札も目印。
結び家は目印が好きだ。好きだから迷子が減る。
数字はどうするか。
ここで小さなパニックが起きた。
「いちからでいいよね?」
コトが言う。
「いちが“洗”!」
レンカが乗る。
「いちが“飯”でもいいだろ」
タケルが言う。
「……えっと」
シノが困る。
ハルが指を折るのを止めて、みんなを見る。
視線が集まると、善意はまた熱を持つ。
ユリネが、そこで鍋の蓋を――叩かない。叩くほどじゃない。
かわりに、短く言った。
「順番。朝から並べろ」
「朝から?」
「朝は飯だ。飯の後に湯だ。湯の後に洗って、干して、たたむ。昨日を思い出せ」
昨日の洪水の記憶が、みんなの頭に同時に浮かぶ。
泡。滑り。白い川。
そしてユリネの段取り。
段取りが通ると救われたことも、同時に思い出す。
「……飯、先」
ハルが言った。
「うん。飯、先だね」
コトが頷く。
「飯が先なら、俺、文句ない」
タケルがあっさり折れる。
レンカは「飯が先ならおいしいからいい!」と笑った。
シノはほっと息を吐いて、穴あけ済みの札をそっと揃え直した。
決まった。
大きな数字と、一語タグ。
1 飯
2 湯
3 洗
4 干
5 たた
札は生成りで、角が丸くて、穴があって、紐で束ねられる。
柱に掛けられた札の束は、生活道具の顔をしていた。飾りではない。命令でもない。
ただの目印。
ただの目印なのに、そこにあるだけで、心が落ち着く。
試運転はすぐ来た。
結び家は試運転の機会を、勝手に作る天才だ。
「ねえ! 今、干してるの、私の布とタケルの上着とシノの……」
レンカが言いながら、干し棒の方へ半歩出た。
半歩出ると、ついでに走りたくなる。
走りかけたところで、ユリネが言った。
「札」
「……札!」
レンカが柱を見る。
柱の札を見るだけで、足が止まる。
止まったレンカは、札を一枚引き抜いた。
「えっと……今は……」
3 洗
4 干
5 たた
干しは、まだ途中。
干しが途中なら、次は干しに集中。洗い物を増やさない。
それが順番。
「……じゃあ、洗うのはあと。干し終わってから!」
レンカが宣言した。
宣言が“走り”じゃなく“止まり”になったのが、すごい。
「偉い」
ユリネがぽつりと言う。
褒められると、レンカは照れて、照れると大人しくなる。今日の勝利だ。
夕方、札はちゃんと回った。
混乱しそうになるたびに、誰かが柱を見る。
柱を見るたびに、みんなの動きが一つになる。
一つになると、家が軽くなる。
そして、生活の締めは当然、これだ。
「飯!」
ユリネが叫ぶ。
「飯!」
「飯!」
「……めし」
卓にスープ。
平焼きパンはほどほど。
ほどほどが守れたことが、妙に誇らしい。
食べ終わったら、湯。
湯気の向こうで、欠け桶が今日も端に置かれる。
目印が二つになった感じがして、コトがふっと笑った。
「結び家、目印増えたね」
「増えたな。だが増やしすぎるな」
ユリネが釘を刺す。
「札は、回す。飾るな。争うな。飯は逃げない」
「飯は逃げない!」
レンカが元気に復唱して、湯気の向こうでタケルが笑った。
シノも小さく頷き、ハルが欠け桶を見てから、柱の方を見た。
札は、そこにある。
明日の洪水を、少しだけ遠ざけるために。
「よし。生きた。寝ろ」
ユリネの締めで、結び家の夜がちゃんと丸くなる。
目印が増えた分だけ、迷子が減る。
そんな手触りを、湯気の中でみんなが確かめていた。




