第10話 洗濯の洪水
結び家の朝は、だいたい腹から始まる。
けれど、たまに腹より先に「匂い」が来る日がある。
「……くん」
シノが鼻先を押さえた。押さえ方が遠慮深い。遠慮深いのに、匂いは容赦がない。
「……これ、昨日の……粉……?」
昨日の粉。昨日の平焼きパン地獄の粉。
粉は正義だった。だが粉は、正義の顔をして布に潜り込む。
レンカが自分の袖を持ち上げて、顔をしかめた。
「粉、ついてる。匂い、ついてる。……ぜったい、ついてる」
「ついてるね!」
コトが笑う。笑うから余計に広がる。
タケルは「俺は平気だ」と言いたげな顔をしているが、髪から粉が落ちた。
「平気じゃないな!」
「うるせえ!」
ユリネが寝床から起き上がって、豪快に腕を回した。
「生きてるなら飯! 飯の次に湯! ……で、その次は?」
ユリネは一瞬だけ、匂いを吸って眉を上げた。
「洗濯だな」
その一言で、結び家の善意が立ち上がった。
腹が鳴った時と同じ勢いで立ち上がった。
立ち上がるのはいい。問題は、その善意がすぐ走り出すことだ。
「洗う!」
「洗う!」
「洗う!」
「……洗う」
ハルまで言った。
小さい声が混ざると、家の決定が「もう決まった」みたいになる。
決まったと感じると、善意は止まらない。
洗濯は、順番が大事だ。
大事なのに、結び家の順番は「口で回る」ことが多い。
「じゃあ、レンカ、洗い!」
「コト、干し!」
「タケル、水運び!」
「シノ、たた――」
「待って!」
コトが手を挙げた。コトが手を挙げる時は、だいたい「そこだけは譲れない」がある。
「干す前に、庭! 庭、片づけないと干せない!」
「じゃあ、庭は俺だ!」
タケルが胸を叩いた。叩くと仕事が増える。
増えると、また善意が増える。
「じゃあ私は、洗い物の桶!」
レンカが走った。走ると桶が動く。桶が動くと水が動く。水が動くと事故が生まれる。
事故は善意の親戚だ。
「ハルは……」
シノがハルを見る。
ハルは自分の服の裾を見て、少しだけ握った。握ると「守りたい」が見える。見えると、みんなが守りたくなる。
守りたくなると、余計に走る。
「……ハル、洗う?」
「……うん」
ユリネが頷いた。
「よし。じゃあ、まずは水だ。欠け桶、出せ」
結び家の象徴、角が欠けた木の桶。
目印で、助けで、生活の道具。
それが今は「洗濯の最初の一手」になる。
タケルが欠け桶を抱えた。
「俺、いく!」
「待て、走るな!」
ユリネの声が飛ぶより早く、タケルは半分走っていた。
走った足が、庭の石にひっかかる。
ひっかかった欠け桶が、前につんのめる。
前につんのめた欠け桶の中身は――まだ空だ。
空でよかった。
空でも、勢いはある。
欠け桶が、庭の端に転がって、止まった。
止まった場所が、ちょうど洗い場の前だった。
「……目印」
ハルが小さく言った。
目印は、今日も仕事をする。
「よし、そのままそこだ。まず水、次に洗い、次に干し、次にたたみ。順番!」
ユリネが言い切った瞬間、結び家の全員が頷いた。
頷いたのに、頷いた瞬間に全員が違う方向へ動き出した。
順番は口で回る。
回るはずだった。
「水はこっち!」
レンカが井戸側へ。
「干す棒、こっち!」
コトが庭の端へ。
「庭片づけ、こっち!」
タケルが石をどけに。
「……たたむ場所……」
シノが室内の隅へ。
「……洗う」
ハルが洗い場の前に座った。
全員、正しい。
全員、正しいのに、順番が一瞬で分裂した。
分裂した順番は、たいてい合体しない。
最初の事故は、早かった。
レンカが欠け桶に水を汲もうとして、欠け桶が「そこにない」と気づいた。
「欠け桶どこ!?」
「目印!」
ハルが指差した。
指差した方向へレンカが走る。走ると水が揺れる。まだ水はないが、気持ちは揺れている。
レンカが欠け桶を抱えた瞬間、コトが庭から叫んだ。
「干す棒、足りない!」
「足りないって言うな! 探せ!」
タケルが返す。返すと声が増える。声が増えると、家が騒がしくなる。
騒がしくなると、ハルが少しだけ肩をすくめた。
すくめた肩を見て、シノが慌てて言う。
「大丈夫、大丈夫、いま……静かに……」
静かにと言うと、余計に静かじゃなくなる。
静かじゃなくなると、ユリネが鍋の蓋を叩きたくなる。
叩く前に、ユリネは大きく息を吐いた。
「おい! 順番! いまは水! 水がなきゃ洗えねぇ!」
「水!」
「水!」
「水!」
「……みず」
復唱が揃った。揃うと一瞬だけ整う。
整った一瞬で、レンカが欠け桶に水を汲んだ。
汲んだ。
汲んだ瞬間、次の善意が走った。
「私、これも洗う!」
コトが抱えてきたのは、昨日の粉で白くなった布。
布は白い。白いと洗いたくなる。洗いたくなると増える。
「俺の上着も!」
タケルが投げる。投げると布が舞う。舞うと粉が落ちる。落ちるとさらに洗いたくなる。
「……これも……」
シノが小さく出したのは、自分の手ぬぐい。
手ぬぐいが出ると「大人も洗いたい」が成立する。
成立すると、洗濯は「全員参加の正義」になる。
正義は強い。
強すぎる正義は、洪水になる。
「順番! 洗うもの、山にするな!」
ユリネが言った。言ったのに、山ができる。
できた山は、見るだけで嬉しい。嬉しいとやりたくなる。
「いける!」
レンカが言った。レンカの「いける」は、だいたい「いけない」の入口だ。
欠け桶の水が、洗い桶に注がれる。
洗い桶に布が入る。
布に粉が浮く。
浮いた粉を見て、レンカが「もっと水!」と叫ぶ。
叫ぶとタケルが走る。
走ると水が運ばれる。
運ばれた水が、勢いよく注がれる。
勢いよく注ぐと、桶が揺れる。
揺れる桶の縁から、水が溢れる。
溢れた水が、庭の土に吸われる前に、次の水が来る。
「もっと!」
「もっと!」
「もっと!」
「……もっと」
ハルまで言った。
ハルが言ったら、もう止まらない。
泡も来た。
レンカがどこからか持ってきた石けんの欠片が、気前よく溶けた。
溶けすぎた。
泡は白い。白いと楽しい。楽しいと掬いたくなる。掬うと飛ぶ。飛ぶと増える。
「泡だ!」
コトが指で泡を掬った。掬った泡を、ハルの前に置いた。
ハルがそれを見て、少しだけ口元をゆるめた。
「……ふわ」
その一言が、致命傷だった。
結び家の善意が「ふわ」に反応した。
「ふわだ!」
「ふわを増やす!」
「ふわは増やすな!」
ユリネが叫ぶ。叫んだ瞬間、タケルが水桶を持ち上げていた。
水桶の縁から、水がまた溢れる。泡の上に水が落ちる。泡が広がる。
庭が白くなる。庭が白いと、干す前に遊びたくなる。
「だめ!」
シノが珍しく大きい声を出した。
大きい声は出せる。出せるのに、出すと自分で驚く。
驚いたシノが口を押さえる。押さえると照れる。照れると場がちょっと和む。
和んだ瞬間、足元が滑った。
レンカが。
「わっ!」
レンカの足が泡で滑って、洗い桶に手をついた。
手をついた勢いで、洗い桶が傾く。
傾いた洗い桶から、泡水が――庭に、どばぁ。
洪水。
庭が、白い川になった。
川は家の方へ向かう。家の方へ向かうと、玄関が危ない。玄関が危ないと、全員が玄関へ向かう。
「止めろ!」
「止める!」
「止める!」
「……とめる」
止める時も善意が走る。
走った善意は、さらに滑る。
「タケル、布! 雑巾! ……違うそれは上着!」
「雑巾がないから上着!」
「上着を雑巾にするな!」
ユリネが叫んだ。叫びながらも体が動く。
ユリネは強い。強いから、崩れた順番を掴める。
ユリネは欠け桶を持ち上げた。
欠け桶で泡水をすくう。
すくって、庭の端へ捨てる。
捨てる場所を決める。
決めると、みんなが同じ動きを真似する。
「コト、すくえ!」
「うん!」
「タケル、流れの先に布! 堰だ!」
「堰!?」
「堰!」
「シノ、玄関の前を守れ!」
「は、はい!」
「レンカ、石けんしまえ! いまじゃない!」
「ご、ごめん!」
ユリネの段取りが通った。
通った瞬間、結び家の「順番」がやっと一つに戻る。
泡水の川は、堰で止まった。
止まった泡水が、欠け桶で運ばれて、庭の端へ逃がされる。
逃がされた泡が、土に吸われて消える。
消えると、みんなの肩が下りる。
「……生きてるなら飯!」
ユリネが言いかけて、ふっと笑った。
「いや、まずは――」
ユリネは庭を見回した。
干し棒は途中。洗い桶は途中。布の山は、まだ山のまま。
口で回した順番が、途中で折れていた。
「……まず、順番を戻せ」
ユリネは低い声で言った。
怒っていない。
怒っていないのに、みんなが頷く。
頷きながら、レンカがぽつりと言った。
「……口で言うだけだと、すぐ崩れるね」
コトが同意する。
「うん。うちら、走っちゃうもん」
タケルが腕を組む。
「走らねえって言っても、走る」
「……走る」
ハルが小さく言って、ちょっとだけ自分の足元を見た。
自覚がある。自覚があると、次が作れる。
シノが恐る恐る言う。
「……見えるように、したら……?」
ユリネがシノを見て、ゆっくり頷いた。
「そうだな。見えるようにする。……明日、考える」
今日は、今日の生活を回す。
それが結び家だ。
ユリネは手を叩いた。
「よし! いまからは、ちゃんと順番だ。水、洗い、干し、たたみ。――いいな」
「いい!」
「いい!」
「いい!」
「……いい」
今度は、全員が同じ方向へ動いた。
欠け桶が、水を運ぶ。
洗い桶が、布を受ける。
庭の干し棒に、白い布が並ぶ。
並ぶ布が風に揺れると、さっきの洪水が嘘みたいになる。
昼前、洗濯はなんとか終わった。
終わった時の庭は、やっぱり少し湿っていたが、湿り気が「やった」の証みたいで、悪くない。
ユリネは最後に、いつものように言った。
「飯!」
「飯!」
「飯!」
「……めし」
湯気の立つ鍋が、台所に戻る。
スープが器に注がれる。
平焼きパンが、昨日ほど多くない量で並ぶ。昨日の反省が効いている。偉い。
食べ終わったら、湯。
湯の前に、欠け桶が風呂場の端に置かれる。
目印が、今日もそこにある。
湯気の向こうで、ユリネが言った。
「よし。生きた。寝ろ。――で、明日は口だけじゃ足りねぇからな」
「足りない?」
コトが首を傾げる。
「足りない」
ユリネは笑った。
「見える順番を作る。札でも何でもな」
札。
まだ形はない。
でも、明日の生活の中で、きっと生まれる。
結び家の夜は、そういうふうに明るく続いていく。




