第1話 泣かせない係、出動
まぶしい。
まぶしいのに、きれい。
ハルは、真昼山の山頂で、朝日を見上げた。目を細めても、まぶしさは薄くならない。まぶしさの方が、こちらのまぶたの工夫を笑っているみたいだ。空気まで光っていて、光が空気のふりをして鼻先をくすぐってくる。
涙が出そうになる。
泣く、というより、目の水が勝手に外へ逃げたがっている。
その瞬間。
世界が、ひとつだけ余計に「きれい」を足した。
朝日の輪郭が、輪郭の役目を越えた。山の稜線は線ではなく、やわらかい刃物みたいに、すうっと空を切る。雲は雲のくせに、ふかふかであることに誇りを持ちはじめる。空の青は、青であることを過剰に自慢してくる。
ハルは、言葉にならないまま笑ってしまった。
「……きら……」
言いかけた声が、音として生まれた瞬間に、山頂の岩へ吸い込まれた。
吸い込まれた、と思ったのは一拍だけだ。次の瞬間、声は跳ね返って、ハルの耳の裏に戻ってきた。耳の裏に、というのが正しい。音が真っ直ぐ耳に入るのではなく、空気をくるりと回って、後ろから触ってくる。くすぐったい。怖い。ちょっと気持ちいいのが一番怖い。
ハルが足を一歩動かす。
砂利が「じゃり」と鳴る。
鳴ったはずの「じゃり」が、山頂のあちこちで増殖した。
じゃり。じゃり。じゃり。じゃり。
足元の一回が、十回になって、百回になって、空に散って、岩に当たって、また戻ってくる。音が、反響しすぎる。しかも、きれいに反響する。濁らない。逃げない。落ち着かない。
鳥が飛ぶ。
羽が空気を切る。
ぱさ、という音が、まるで鐘みたいに響いた。羽音が、澄みすぎて、胸の奥を指でつついてくる。
ハルは肩をすくめた。驚きで肩が上がると、その衣ずれすら綺麗に返ってくる。自分の存在が、山頂に「ここにいるよ」と放送されてしまう。
「……や……」
やだ、と言いたいのに、言った音がまた戻ってくるのが嫌で、口が止まる。
泣く暇もない。耳が忙しい。
ハルは両手で耳を塞いだ。塞いでも、音は骨から入ってくる。音が「入口」を選んでいる。入口を増やすな。
世界は、きれいで、うるさい。
しかも「うるさい」が、透明だ。透明なうるささは、逃げ場所がない。黒板の消しゴムみたいなうるささなら、粉が落ちて、終わる。透明だと、ずっとそこにいる。
ハルは、岩の影へしゃがみ込んだ。影は少しだけやさしい。光が弱い。弱いのに、光が「弱くしてあげたよ」と顔を覗かせてくる。光が得意げなのも、腹が立つ。
山頂は人が少ない。
少ないはずだ。
でも今、誰かが見ている気がした。
見ているというより、見張っている、の方が近い。
雲見台。
山頂の少し離れた場所に、ぽつんと、見張りのための台がある。木で組まれた、素朴な場所だ。そこで、スズが、いま、声にならない声を出していた。
「……えっ、えっ? ちょ、音……え、音が……えっ?」
スズは見張り番のはずなのに、見張られている側みたいな顔をしていた。耳を押さえ、目を見開き、口だけが小さくぱくぱく動く。
スズの隣で、カナメが双眼鏡を下ろした。
見張り番のカナメは、驚いていない。驚いてないふりが上手い。驚いてないふりが上手い神ではない人間は強い。カナメは、静かに息を吐いて、言う。
「……聞こえすぎるな」
「カナメ、これ、これ、山が、山がスピーカーみたいになってる! 私のまばたきまで響く! まばたきって響くもの!?」
「響かない」
「響いてる!」
「響いてるな」
認めるのが早い。認めると次ができる。見張りの仕事は、否定から始めない。観測から始める。
カナメは、雲見台の床板に指先を当てた。とん、と叩く。叩いた音が、山に返ってくる。返り方が丁寧すぎる。客席に向かって礼をする音だ。
「山が、やたら礼儀正しい」
「礼儀正しい山ってなに! 怖い!」
「噂になるぞ」
カナメが言った瞬間、スズがさらに青くなる。噂は山火事より早い。しかも噂は、火と違って、消えたふりをする。
「噂って、どう噂? 『山頂がうるさい』? そんな噂ある? あるか……あるな……」
「ある」
「あるんだ……」
スズは膝を抱えた。膝を抱えた音が響く。膝の存在まで主張し始めている。
カナメはもう一度双眼鏡を覗いた。岩陰で小さく固まっている影。子どもだ。ひとり。泣いてない。泣けないほど耳が忙しそうだ。
「……人がいる」
「えっ、誰!? 誰がこんなところに! 山頂に! ひとりで!? え、泣いてない!? 泣くよ普通! 泣かないの!? 泣けないの!? どっち!?」
「落ち着け。息を吸え」
「吸ったら吸った音が響く!」
「……今は、浅く吸え」
カナメは、すぐに判断を口にしなかった。見張りの判断は、足し算で作る。いきなり結論に飛ぶと、あとで自分が困る。困るのは嫌だ。困るのに、泣く暇はない。
そこで、山頂の空が、もう一段だけ「きれい」を盛った。
朝日が、光のふりをして、じわ、と景色の輪郭を押し広げた。押し広げた結果、音も押し広げられる。音が居場所を得て、嬉しそうに飛び跳ねる。
スズが叫びかけて、叫ぶのをやめた。叫ぶと響く。響くと怖い。怖いと叫びたくなる。ループが完成してしまう。
カナメが唇を引き結ぶ。
「……これは、誰かがやってる」
誰か。
山頂で誰かがやってる、ではない。
山頂の「世界」そのものが、誰かに盛られている。
カナメは、雲見台の柱に手を置いた。柱は冷たい。冷たいのに、冷たさまで綺麗に響く。柱の冷たさが、耳に入ってくる。耳で触るな。
「火守の小屋に、連絡」
「火守さん、起きてるかな……」
「起こす。……それと」
カナメは言いかけて、空を見た。空の青が、自慢げだ。自慢げな青は、だいたい厄介ごとを連れてくる。
「この手の厄介は、山からじゃない」
山じゃない。上だ。もっと上だ。
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神界。
ゆれりん。
鈴の音としては可愛い。可愛いのに、職員室の空気が一斉に「やばい」の形に折り畳まれる。折り畳まれると机が増える。増えないけど増えた気がする。紙が増える。増えないけど増えた気がする。湯呑みが増える。増えないけど……増えた気がするのが一番怖い。
壁の掲示板には、主任級の持ち回り張り紙が、今日もぴしっと貼られていた。
日付の代わりの現象スタンプは、数字がないくせに、存在感だけがある。押すたびに「分かった?」と聞いてくる顔だ。
その横に、仮置きの【幸】が、角ばった字で控えめに居座っている。控えめに居座るものは強い。
「急案件です!」
チヨが走り込んできた。走り込んできた、というより、走りながら紙の角を揃えようとして、結果として走ってしまった神の動きだ。
角を揃えたい神が、いちばん危ない。揃わないのに揃えようとする意志だけが先に走るからだ。
「し、失礼、急案件です! 申請受付審査室所属、はんこ係のチヨ、アマネ案件の特別随行として……!」
言いながら、書類の角を揃える。揃わない。揃ったと思ったら逆の角が飛び出る。紙が紙のくせに反抗的だ。神界の紙は、神の精神状態をよく映す。今日は荒れている。
「要点だけ」
マドカが言った。なかない係先輩。声の角が揃っている。心の角まで揃っている。
「現象、どこ」
チヨは、息を吸った。吸った音が響く。神界でも響く。今日はどこでも響く日らしい。
「地上、真央国、真昼山、山頂付近! 現象、音が……通りすぎます!」
「通りすぎる?」
ナギがきれいな声で聞いた。きれい係先輩。きれいな声は、切れ味を持つ。
「反響が、過剰です! 声も足音も鳥の羽音も、全部……『きれいに』響きます!」
その「きれいに」が、いちばん最悪だ。きれいは正義に見える。正義の顔をした厄介は、止めにくい。
「……誰の盛り?」
マドカが言った瞬間、職員室の奥の扉が開いた。
開いたというより、開きすぎた。蝶番が“ほどほど”を置いてきた。
「おねぇちゃんに、まかせて!」
アマネが入ってきた。袖も髪も笑顔も、全部が盛れている。盛れているのに、職員室の生活感に馴染む。善意が馴染むのは、災害の前触れだ。
「泣かせないためにね、朝日を盛ったの!」
「盛るな」
マドカが即答した。
「朝日、泣きそうな子を慰めるでしょ? だから、もっと『きれい』にしたの!」
「きれいが刺さってる」
ナギが刺した。言葉が細い針だ。
「刺さるほどきれいは、汚れます」
「汚れないように、もっときれいにすれば……」
「足すな」
マドカの声が、机の上の紙を一斉に黙らせた。黙らせ方が静かで、逆に怖い。チヨが反射で角を揃えようとして、また揃わない。
その時、外直結の大きな出入口の方から、どん、と音がした。
「ゲンたち、入るぞ!」
複数の足音がどどど、と通路を埋めた。工具箱も複数。手袋も複数。ため息も複数。
なおし係は「ゲンたち」と呼ばれるにふさわしい。単数だと不安になるタイプの仕事をしている。
「現象は?」
ゲンたちの視線が集まる。チヨの書類へ。角が揃っていない。チヨが青ざめる。
「……角は、あとで」
ゲンの一人が言った。赦しみたいなのに背中が冷える。“あとで”の幅が広すぎる。
院代の席の方から、にこにこ怖い声がした。
「終結条件だけ共有します。地上が生活に戻ったら【幸】」
職員室の全員が同時に頷いた。揃い方が怖い。角が揃っている。
「なおし係。音は消しません。畳みます」
ゲンたちが、同時に工具箱を開けた。なぜ同時に。怖いけど頼もしい。
アマネが胸を張る。
「じゃあ、おねぇちゃんも畳む!」
「畳みません」
マドカが遮る。
「畳むよ! だっておねぇちゃんだもん!」
「おねぇちゃんほど、畳め」
マドカの言い方が容赦ない。なかない係は、泣かせないだけで、甘やかさない。
「じゃあ、畳む前に、もうちょっとだけ……」
「だめ」
「ちょっと!」
「だめ」
押し問答が、紙の角より尖りかけたところで、ゲンたちが外口を開けた。
風が出る。
ただの風じゃない。“ほどほど”の風だ。
強すぎず、弱すぎず、音の端だけを撫でる風。音を攫わないで、音に「帰り道こっち」と指差す風。
神界の技術は、優しい顔で強引だ。
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真昼山の山頂。
ハルの耳の裏に触っていた音が、ほんの少しだけ、遠くへ引いた。
引いた、というより、音が「居場所」を思い出した。音が戻るべき場所に戻っていく。戻り方が丁寧すぎて腹が立つ。腹が立つのに、助かる。
砂利の「じゃり」が、一回分に戻った。
鳥の羽音が、鐘じゃなくなった。
ハルは、そっと耳から手を離した。指の動きさえ響いていたのが、いまは、普通に動きの音になっている。普通はありがたい。ありがたいのに、ありがたいことに慣れていないと、ありがたさの受け取り方が分からない。
ハルは目を上げた。
朝日は、まだきれいだ。
でも、刺さらない。
世界はまだ盛れている。盛れているのに、噛みつかない。
ちょうどいい、というやつだ。
岩陰から、ハルは立ち上がった。足元がふらつく。山頂の地面は平らじゃない。平らじゃないのが普通だ。普通が続くと、心が少し落ち着く。
遠く、雲見台の方で、人影が動いた。
スズが、カナメに何か言っている。声は届かない。届かないのに、届かないことが安心だ。届かない距離は、ちゃんと距離の役目をする。さっきまで距離が仕事放棄していたから、なおさらだ。
カナメがこちらを見て、手を上げる。
手を上げる動きが、過剰に響かない。
ハルは、なぜか笑ってしまった。
「……て……」
手、と言いたかったのかもしれないし、ただ音を確かめたかったのかもしれない。
小さな声は、ちゃんと小さく、山に吸われて消えた。
消えたことが、嬉しい。
山頂には、火守の小屋があるはずだ。素朴な小屋。火を守る場所。火は、生活の中心だ。湯はまだない。パンもまだない。
でも火があると、少しだけ安心できる。火は、黙って温める。盛らないで温める。
ハルは、ふらふらしながら、小屋の方角へ歩き出した。
歩ける。歩く。歩いた音が、普通に一回だけ鳴る。
それだけで今日は、十分だ。
空のどこかで、誰かがまた「おねぇちゃんに、まかせて!」と言いかけた気配がしたけれど、いまは風が、ほどほどにそれを押し戻してくれた。
山頂の朝は、うるさくて、きれいで、少しだけ落ち着いた。
次のゆれりんは、まだ鳴らない。
けれど、鳴っても大丈夫な気が、ほんの少しだけした。




