序章 side伊緒
音は……ずっと、ない。
私が覚えている最初の記憶から、世界は静まり返っている。
子どもの頃は、その「静かさ」がみんな同じものだと思ってた。
でも、ある日気づいた。みんなは、私の知らない音というものを聞いている。
聞こえないから、目と心で感じる。唇の動きや、まゆの上がり方。息づかいや、空気の変化。 そうやって、私は人の気持ちを読むのが少し得意になった。
夏那ちゃんと未紀ちゃんと出会ったのは、病院の交流スペース。
最初は文字で自己紹介して、すぐにスマホでのチャットが習慣になった。
3人で一緒にいるときも、ほとんど画面越しの会話。
でも、その方が私にとっては楽だった。みんなと同じテンポで話せるから。
今日も、そのチャットでやりとりしながら、私たちはバスに乗っている。
夏の海を見に行く日帰り旅行。観光地行きの公共バスには、家族連れやカップルがたくさん。
車椅子の夏那ちゃんはPCを構えて、未紀ちゃんは隣に座っている。私はその前の席からスマホを開いた。
『今日の海、絶対きれい〜』
私が打つと、夏那ちゃんが『うん!』と返し、未紀ちゃんは『日焼け止め、忘れずにね』とすぐ返してくれる。
文字が並ぶだけなのに、会話がはずむのが不思議。
『もし異世界に行けたら、どんなスキルがほしい~?』
私はふと、そんなことを送ってみた。
夏那ちゃんは『私は武術系がいいな!』って返してきた。
そうだったらいいなと思って、思わず吹き出す。
……そのときだった。
車体が急に揺れ、視界の端で運転手さんが慌ててブレーキを踏むのが見えた。
耳は静かなままなのに、窓の外で何かがぶつかるような振動が伝わってくる。
ぐらっと大きく傾く車内。人の口が悲鳴の形を作る。重力が斜めに引っ張っていく。
海の青と空の白が、ぐるぐると視界で混ざった。私はシートにしがみつき――そのまま、世界が暗くなる。
=====
……暗い。
さっきまで海が見えていたのに、今は真っ暗な空間。
体の感覚がなくて、ただ意識だけが浮かんでいる。
その闇に、やわらかな光が差し込んできた。
光の中に、金色の髪をした女性が立っている。穏やかな笑みと、包み込むような気配。
『伊緒』
名前を呼ばれた瞬間、心があたたかくなった。
女性はゆっくりと近づき、私の目をのぞき込む。
『あなたの痛みは、あなたを閉ざすものではありません』
優しく、揺れるような言葉。
『これはやり直しではありません。あなたの痛みが、力になるのです』
光の粒が私の胸に流れ込む。
不思議な温かさが全身を満たし、視界に文字のような輝きが浮かび上がった。
《ユニークスキル――《音魔法》》
《ユニークスキル――《身体強化》》
《ユニークスキル――《言語理解》》
その瞬間、暗闇が一気にひらけて――。
=====
「……伊緒さん……」
耳に、やわらかくて透き通った音が届いた。
それは、胸の奥をくすぐるような優しい響き。
……声?
まぶたを開くと、未紀ちゃんが心配そうに覗き込んでいた。
「……未紀、ちゃん……今……声が聞こえたよ〜」
自分の言葉も、聞こえる。未紀ちゃんの声は、想像していたよりもずっと優しくて、柔らかくて、少しだけ鈴の音みたいに可愛い。
これが声……みんながいつも聞いていた世界の音なんだ。
そう感じた瞬間、視界の端に揺らめくような何かを感じた。
……気配。
風に混じる空気の動き、人の存在を示すかすかな波。
私はその方向を振り向き、思わず目を見開いた。草原の向こうで、誰かが駆けている。 軽やかな足音の気配が、私の胸に直接響くように感じられた。
「……夏那ちゃん……?」
無意識に名前がこぼれた。
その瞬間、はじけるような元気な声が届く。
「伊緒、未紀!」
耳に、はっきりと届くカナちゃんの声。
走ってくる姿は眩しくて、信じられない光景だった。
「……走ってる……夏那ちゃんが……」
驚きで胸がいっぱいになる。
夏那ちゃんは全力で私の前まで駆け寄ると、笑顔のまま私を抱きしめた。
「見て! 動けるし、声も出せるんだよ!」
その声の温かさと力強さが、私の世界を鮮やかに染めていく。
未紀ちゃんも微笑みながら寄ってきて、3人で肩を寄せ合う。
音も温もりも、こんなに近くにあるなんて――信じられないくらい、幸せだった。