序章 side夏那
夏の太陽がジリジリ照りつける昼前、私は電動車椅子の上で視線入力のPC画面を見つめていた。
バスの車内、車椅子スペース。窓の向こうに、真っ青な空と海がチラチラと顔を出す。
『今日、海きれいだね』
PCの文字を入力して、伊緒と未紀に送る。二人もスマホを手にしている。
私たちは、近くに座っていても、ほとんど文字で会話する。
伊緒が聞こえないから。私がほとんど話せないから。
でも、それはもう自然なことになっていた。
『あー、すでに焼けそう〜』
伊緒のメッセージには、相変わらず波線が多い。
『日焼け止め、ちゃんと塗ってくださいね』
未紀はいつも通り丁寧口調。病院で初めて会ったときから、この二人のテンポは変わらない。
窓から流れる景色は、夏らしい色でいっぱいだ。
海水浴客がビーチパラソルを広げ、釣りをする人の姿も見える。
こんなふうに旅行に来られるなんて、昔は考えられなかった。私は動けない生活だったし、長時間外に出ることすら大変だった。
『この後、何する?』
私が送ると、伊緒が「かき氷〜」と即答、未紀が「お店を探しましょう」と返す。
文字が画面に並ぶだけなのに、会話は弾む。やっぱり、こういう時間が好きだ。
バスが山道に入ると、海は見えなくなった。代わりに、窓の外は深い緑と岩肌。
私たちは引き続きチャットで、流行りの異世界小説の話で盛り上がっていた。
『もし異世界に行けたら、どんなスキルがほしい~?』
伊緒の文字に、私は笑いながら短く返す。
『私は武術系がいいな!』と打って送信した瞬間――
前方で、急ブレーキの音。
バスがガクンと揺れ、私の体は車椅子ごと前へ押し出される。固定ベルトが食い込み、PC画面が大きく揺れた。
次の瞬間、金属同士がぶつかる轟音。
前から来た乗用車が、カーブの内側でバスに突っ込んできた。衝撃で車内の誰かの悲鳴が上がり、重心が大きく傾く。
視界が、ぐらりと海の方へ傾いた。重力が引っ張る――崖だ。バスごと、空に浮かんだような感覚のまま落ちていく。
=====
真っ暗な世界に、意識だけが漂っていた。
体の感覚はない。ただ、どこか温かい光が近づいてくる。
その光の中に、金色の髪を持つ女性が現れた。
『夏那』
声じゃない。頭の中に直接響く、柔らかな音。
『あなたの痛みは、あなたを縛るものではありません』
女性――エルシエルと名乗ったその存在は、私を包み込むように微笑んだ。
『これはやり直しではありません。あなたの痛みが、力になるのです』
光の粒が私の周りを舞い、胸の奥に流れ込む。
その瞬間、全身が軽くなる感覚。
頭の中に、確かな言葉が響いた。
《ユニークスキル――《身体操作》》
《ユニークスキル――《身体強化》》
《ユニークスキル――《言語理解》》
まぶしい光に包まれ、私は意識を手放した。
次に目を開けたとき、そこは見知らぬ草原だった。
=====
草の匂いがする――。
まぶしい日差しに目を細めながら、私は上半身を起こした。……起き上がった?
思わず両手を見下ろす。
指が、ゆっくりと――いや、スムーズに動く。肘も、肩も。
私は両足を地面に置き、そっと力を入れた。
立てた。
喉の奥から息が漏れた。
「……あ」
自分の声だ。掠れているけれど、確かに私の声。胸が熱くなって、視界がにじむ。
「うそ……夢じゃないよね……? 本当に……」
足踏みをする。走ってみる。跳ねてみる。
風が頬を撫でる。土を踏む音が耳に届く。
ずっと、ずっと夢見ていた瞬間。
――こんな日が、来るなんて。
私は何度も両手を握っては開き、空に向かって伸ばした。
「やった……やったぁぁ!!」
声が枯れるほど叫ぶ。笑いながら、泣きながら、ただ空を仰いだ。
そのとき。
「……夏那ちゃん?」
背後から声がした。振り向くと、少し離れた場所に二つの影。
「……伊緒、未紀!」
駆け寄る。足が絡まりそうになりながらも、必死で走った。
伊緒が目を丸くして、耳に手を当てている。
「……聞こえる……夏那ちゃんの声……」
その表情は驚きと、じわっとにじむ涙。
未紀も口元を押さえて、泣き笑いしていた。
「夏那さん……本当に……!」
私は二人に飛びついた。互いの体温が、心臓の鼓動が、ちゃんと伝わってくる。
もう、画面越しじゃない。声で、手で、抱きしめて確かめられる――。
「……また、会えたね!」
「うん……!」
「はい……!」
真夏の陽射しよりも、ずっと温かい再会だった。