彼専用のメイドを辞めます。
「ティッシュとゴミ箱」
唐突に彼氏がそう言った。
彼は高校の同級生で、高二の時に告白された。放課後、夕暮れの教室に二人きりというベタなシチュエーションで。
それから、かれこれ十年が経とうとしている。ちなみに、同棲を始めてからは三年目だ。
交際年月が長く、年齢もアラサーになったということで、遠回しにもストレートにも周囲から結婚の探りを入れられる。
正直、放っておいてほしい。いや、むしろ彼のほうに聞いてほしい。彼が今後どうするつもりなのかなんて、私も知らないのだから。
彼はオンラインゲームに夢中で、こちらに振り向きもしない。
そのうえ、発した言葉は「ティッシュとゴミ箱」という単語のみ。「取って」という言葉すら続かない。
「ありがとう」という言葉を、最後に聞いたのはいつだっただろうか。
「コーヒー」「飯」「風呂」「スマホ」
注文のレパートリーだけは豊富にある。そのオーダーに腹を立てながらも、私はついつい従ってしまうのだ。
惚れた弱み? もう、そんな純粋なものではない気がする。
メイドのような扱いをされても、スマホに触れる許可が出ていることに安心感と喜びを感じている私は、ある程度の所まで堕ちているのだろう。
しかし、その安心感や喜びは一時的な鎮痛剤のようなものだ。瞬く間に効果は切れる。
すると、また次の幸福感や快楽を渇望するようになる。彼の肌の温もりや、ほんのわずかの甘い言葉を拾い集めて浸るのだ。
頭痛薬を乱用すると、かえって頭痛が起こる頻度は増えるらしい。彼との関係は、それに近いものがあるように感じる。
彼の言動に傷つき、それを癒すために彼を求める。その行為は、まるでオーバードーズのようで――。
『そんな男、早く別れたほうが良いよ』
『あいつ、良い旦那にも良い父親にもなれないタイプだよ。友だちとして付き合うぶんには楽しいけどね』
『結婚は同棲してから考えたら? 目が覚めるかもよ? もし、それでもアイツが良いっていうなら……、まぁ……うん……、相談くらいは聞くから』
友人たちからのアドバイスという名の忠告や、歯切れの悪い慰めが毎日、いや、一日に何度も頭の中を過ぎる。
その時はスッと頭が冷えて、「私は都合の良いメイドでもなければ、マゾヒストでも聖母でもない」と、心の中で断言できる。
『うちの家、男は台所に立つもんじゃない、って言うんだよね。古くさいでしょ? 今どき、それはないよなぁ』
付き合い始めた頃、そう言って笑う彼を見て、こんな未来になるとは夢にも思わなかった。
彼の夜食を作っている途中、急に言葉にならない感情に飲み込まれ、エプロンを脱いで無造作に椅子にかけた。
そして、私はスマホと財布だけを持つと、静かに玄関のドアを閉めた。
同棲中の彼女が行き先も告げず、真夜中に外出したことに彼は気づくだろうか。
ティッシュもゴミ箱も渡さずに家を出た。所望したものが手元に届かなければ、私がいなくなったことに気づくだろうか。
マンションのエレベーターに乗って、一階に到着するまでにスマホをマナーモードにした。
電源を完全に切れなかったのは、焦った彼からメッセージや着信が来るかもしれない、という期待と打算からだった。
「我ながら虚しいことを……。さて、どこに行こうかな」
比較的、治安の良い土地ではあるが、真夜中に女一人で外をうろつくのは心許ない。
24時間営業しているファミレスやファーストフード店か、ネットカフェか……。
マンションのエントランでネット検索をしていると、握っていたスマホが震えた。
ディスプレイに彼の名前を表示しては途切れ、また震えるという動作が、手のひらの上で繰り返される。
(意外と早かったな)
十回目の着信で応答ボタンを押した。
半日くらいは無視して困らせてみようと考えていたが、思っていた以上に私の意志は弱いらしい。
『ごめん! 本当にごめん! 俺が悪かった。ゲームは一日に三時間……、いや、二時間半にするから戻ってきてくれないか?』
ゲームが理由で家出をしたと、まるで確信しているかのような謝罪内容だ。しかし、あの彼がその答えに自力で辿り着けるだろうか、とスマホを耳に当てたまま首を傾げる。
(あぁ、そうか)
ボイスチャットを繋いでいた相手の中に、愛妻家の男性がいた。
おそらく、私がいなくなったことに気づいた彼が相談でもしたのだろう。
(私に対して、悪いことしてるって自覚はあったわけね……)
しかし、私が飛び出した理由はそこではない。言葉にして伝えない代わりに、小さく溜め息を吐く。
延々と続く「ごめん」を聞きがらマンション前の歩道に出ると、思いのほか風が冷たく、身が縮こまる。
秋風が吹き始めた深夜に、コートもカーディガンも着てこなかった。
自分の体を抱くようにしながら通話を続けていると、一台の車が徐行しながら近づいてきて、クラクションを鳴らされた。
そして、運転席のウィンドウが開くと、三十代半ばくらいの男が顔を覗かせる。
紳士的な笑みを浮かべてはいるが、その視線は決して気持ちの良いものではない。
「何かお困りですか? 足が必要なら、お送りしますよ」
『誰かと一緒? どこにいるの? すぐ迎えに行くから』
男の声が彼にも聞こえたようで、口調に焦りが滲んでいる。
彼の言葉には返事をせず、私は男と向き合った。
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。迎えが来ると……思うので」
彼の言葉を信じきれず、最後はひどく小さな声となってしまった。それでも、目の前の男には効果があったらしい。
「迎えが来る」という答えに、つまらないというような表情をしたが、すぐに男は紳士的な笑みに戻った。
「そうですか。では、お気をつけて。女性の一人歩きは危険ですからね」
「はい。ご親切にどうも」
会話が終わると、もう興味はないというように車は走り出す。それを横目で見ながら、私はオートロックドアの内側へと踵を返した。
『なぁ、大丈夫なの?』
彼の声で、まだ通話中の状態だったことを思い出した。
「大丈夫。今、マンションのエントランス。…………エレベーターに乗るから切るね」
寒い夜道と手のかかる彼氏を天秤にかけ、部屋に戻るほうが幾分はマシだという結論に至った。
それでも、いざ階数ボタンを押そうとすると指が躊躇する。
その間にドアが閉まり、エレベーターは動き出してしまった。
(やば、誰かが呼び出したんだ)
どこまで昇ってしまうのだろうか、とぼんやり電子パネルを見ていると、居住している階に止まって驚いた。
そしてドアが開くと、目の前に部屋着のままの彼が立っていたことに、さらに驚かされた。
『迎えに行く』なんて言葉は、口先だけだと思っていたから。
「おかえり!」
「……ただいま」
飼い主が帰ってきたことにホッとした子犬のような笑顔に力が抜けてしまいそうだ。
そして、外廊下を歩いている間、謝罪と子どもっぽい言い訳がマシンガンのように続けられる。
こんな男でも、そこそこ高給取りで、大きな仕事も任されている商社マンなのだから呆れて笑ってしまう。
(でも、家賃も生活費も折半でヒモじゃないし。むしろ、頻繁に行列店のスイーツ買ってきてくれるし……。十年間、一度も浮気したことないんだよね、この男。わりとモテるのに……)
必死な謝罪を聞き流しながら、彼の悪いところを探してみるが、しょうもない良いところだけが浮かんでくる。
(でも、もう潮時かな。ケーキくらい自分の稼ぎでも買えるし)
私は対等でいられる人と人生を共にしたい。
彼にいつ別れを告げようかと考えていると、突然、状況にふさわしくないプレゼンが始まった。
早歩きをしていた私が立ち止まって振り向いたことで好感触だと思ったのか、彼の言葉に熱がこもってくる。
彼の話術から、確かに仕事面では優秀であるのだと身を持って実感した。
彼の提案を聞けば聞くほど、先ほどまでクリアになっていた視界がゆっくりと塞がれ、全身を暖かいブランケットに包まれるような感覚に陥ってしまう。
これは表面だけ甘い、副作用のある薬だ。
人はそんな簡単には変われない。
安易に受け容れてはいけない提案だ、と必死に心を制御して、乾いた笑みで甘い熱弁をなんとか躱した。
社会人になってから知り合った友人たちは、彼のことを“経済的には自立している無自覚なクズ”だと言う。
そして、私は“ダメ男製造機の予備軍”だと。
決定打になるかどうかは、二人目以降の彼氏との関わり方を確認しないことには判断しかねるため、今のところは“予備軍”で留まっている。
彼も昔はこんな人じゃなかった。
私が彼をダメにしたのかもしれない。
きっと、私たちは一緒にいないほうが良い。
だから、私は彼専用の都合の良い彼女を辞めると決めた。
そして、付き合い始めた頃のような笑顔で彼を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「そうだね。私たち、そろそろ……」
「うん!」
「同棲、解消しようか」
「…………え?」
満面の笑みだった彼の顔が、みるみると青ざめていく。
どうやら、将来へのプレゼンを断られるとは一ミリも思っていなかったようだ。
沈黙が流れ、彼はこの世の終わりのような表情をしている。しかし、空気が重苦しいとも、いたたまれないとも私は感じなかった。
強いて言えば、営業先で断られる度にこんな顔をしているのではないか、と少し心配になった程度だ。
だけど、「お別れしましょう」という一言が言えない。
彼と別れたら一生独身、ということもないだろうに。選り取り見取りというほどではないが、実は私もそこそこにモテる。
それなのに、彼と離れてリセットするための言葉が声にならない。
数ヶ月前、「珍しい茶葉を扱っているカフェがあるんですが、ご一緒にいかがですか? 紅茶がお好きだと耳にしたもので……」と、取引先の男性から誘われた。
正直なところ、ルックスがかなり好みで、勤め先も彼の会社より大きかった。
それでも、ときめいたのは一瞬で、すぐに今の彼氏の顔が浮かんだ。そして、もったいないと思いつつも、「恋人がいるので」と丁重にお断りした。
この件についても、友人たちから「眼科に行ったほうが良い」「あんたの天秤は壊れてる」「呪いにでもかかってるんじゃない?」と、散々な言われようだった。
確かに、私の天秤は壊れているのかもしれない。この天秤でお菓子を作れば、生焼けか炭の塊になることだろう。
そして、“呪い”という言葉が一番しっくりときた。“惚れた弱み”でも“恋は盲目”でもない。ただただ、彼から離れられないという呪いだ。
その気になれば、私はもっと幸せになれる……とは思う。
仕事は楽しく、手前味噌だが会社で重宝されているとも感じている。
元々、人に喜んでもらうことが好きで、相手が望んでいることを先読みするのは幼い頃から得意だった。
そして、その能力を買われて、現在は重役秘書として勤めている。
ただ、誰かに尽くせることが私の長所で、尽くし過ぎるところが短所なのだと、最近になって気づき始めた。
気づいたと言っても、適切なラインはイマイチわからない。
仕事でベストを尽くせば、評価も収入も上がる。上司や取引先に恵まれていることもあり、感謝されることも少なくない。
同じように、いや、それ以上に尽くしても、「ありがとう」という言葉は彼の口からは聞けない。
「してあげている」と恩着せがましく言うつもりはない。それでも、虚しくなる時はある。
女性ホルモンの周期や、自身のメンタル面による問題だと言い聞かせてきたが、やはりそろそろ限界なのかもしれない。
今度こそ別れを告げようと、長くゆっくりと息を吐いて、もう一度彼と向き合おうと顔を上げる。
「手、冷たくなってる」
急に両手を握られた驚きで、頭の中で組み立てていた言葉が飛んでしまった。
「ごめん。いつも、色々と気遣ってくれてありがとう。大好きだよ。これからも、ずっと一緒にいたいって思ってる。……ダメ、かな?」
この男は、悪魔か質の悪い魔法使いなのだろうか。一番欲していたものが、今となっては呪いの言葉となった。
彼の姿も夜の灯りも滲みだし、思わず顔を背けようとした時、ふわりと抱き寄せられる。
そして、驚いて声を出す間もなく、息が止まるほどの力で抱きすくめられ、甘い声と言葉で耳をくすぐられる。
「一生、俺のそばにいて……」
(もう……、手遅れね」
きっと、呪いは解けない。いや、解けて欲しくないとさえ思っている。だからこそ、呪いなのだろう。
哲学なのか諦めなのか分からない思考を抱きながら、静かに彼の背中に腕を回した。
私は彼専用の都合の良いメイドを辞める。
そして、近い将来、彼のメイドになるのだろう。
だけど、これを機に、彼を有能な夫に育てる気概が私にあれば、あるいは――。
いつもより速い彼の鼓動を感じながら、そんな考えが少しばかり過った。
お読みくださり、ありがとうございました。
※この作品はフィクションです。