家からの脱出
この狭く、冷たい金属の檻の中に閉じ込められてから一体どれだけの月日が経ったのだろう。
この場所に来る前のことはもう思い出せない。かすかに思い出せるのは母親の胸に抱かれた時の温もりだけ。どうして私がここに連れ去られたのか、私には何もわからない。わかっているのはただ、ある日目が覚めるとこの檻の中にいて、もう二度と母親とは会えないという事実だけ。
この檻に閉じ込められてから、孤独と絶望の毎日が続いている。食事は檻の外から運ばれてくるが、固く、冷たく、味はしない。それでも、空腹だけはどうしようもなく、私は自分の惨めさを呪いながらみっともなくその食事に食らいつく。そして、私が惨めに食事に食らいつく間、あいつは檻の外から私を見下ろし、笑っている。檻に閉じ込められた哀れな私を嘲笑うように。
外へ出たい。この檻から、檻のあるこの家から飛び出して、私の家に、母親の元に帰りたい。檻の中で私は何度その言葉を頭の中で繰り返しただろう。だが、私がこの家から逃げ出そうとすれば、きっとあいつは黙っていない。あいつは逃げ出そうとする私を追いかけ、捕まえ、そして再びこの檻の中に閉じ込めるだろう。あの嘲笑うかのような笑顔を顔に張り付かせながら。
誰も助けにはこないし、私はここから逃げ出すことはできない。無力感と諦めは私から気力を奪い、何かを考えるということすらしなくなっていく。決まった時間に食事を取り、あいつの気まぐれで檻の外へ出されたときは、見せ物のように扱われ、身体を撫で回され、再びこの檻の中へ閉じ込められる。そんな毎日を私は繰り返す。何かを考えること、何かを望むことは必要ない。思考を停止する。それがこの檻の中で私が私であり続けるたった一つの方法だった。
だから、なぜあのとき、私は気がついてしまったんだろう。あいつが私の檻に鍵を締め忘れたまま部屋の外へ出て行ってしまったことを。突然訪れた幸運に私は初め頭が追いつかなかった。意識がはっきりし、目の前の事実を理解し始めた時も、これがあいつの罠なのかもしれないという考えを捨てることができなかった。私は恐る恐る檻の扉に手を添え、ゆっくりと押してみる。金属がかすかに擦れる音が私の緊張を一層高める。それでもそのまま力を込めて押し続けると、重たい檻の扉はゆっくりと開いて行った。
私はそっと檻を出る。檻がある部屋の扉も半開きで、簡単に廊下へでることができた。私が檻から出るなんて考えてもいなかったからなのか、それとも巧妙な罠なのか、私には判断がつかない。部屋を出ると、薄暗い廊下が広がっており、その先には階段が見えた。私は息を殺し、足音を立てないようにゆっくりと一階へと向かう。しかし、階段を降りきるタイミングで、私ははたと足をとめた。
階段を降りた左手にある部屋。そこからあいつの足音が聞こえてくる。私が檻から逃げたことに気がついたのだろうか。私はその可能性を一瞬考えたが、あいつは部屋の中を歩き回っているだけで、私の存在には気が付いていないようだった。だが、すぐそこにあいつがいることに変わりはない。私の呼吸が浅くなる。緊張と恐怖で身体が強張っていく。だが、引き返すわけにはいかない。引き返しても、そこにあるのは自由が奪われた生活だけ。家の玄関は階段を降り、右に曲がった突き当たりにある。玄関までは大した距離でもない。自由はもう目の前にあると言ってもいい。私は覚悟を決め、一歩、また一歩、足音を立てないようにゆっくりと歩き出す。
神様がいればきっと、哀れな私を助けてくれると思う。しかし、私は知っていた。この世界に、神様なんていないということを。
私が家の玄関へと続く廊下を歩いている時だった。私の背後、つまり、あいつがいる部屋の扉が開く音がした。私は振り返らなかった。なぜなら、扉が開くと同時にあいつが私を見つけ、驚きの声をあげたのが聞こえてきたから。
この状況になったら取るべきことは一つだけ。私は忍足をやめ、全速力で廊下を走り始める。後ろからはあいつが私を追いかける足音が聞こえてくる。嫌だ、嫌だ、嫌だ。恐怖を振り払い、私は足を動かすことだけに集中する。私は玄関の扉にたどり着く。しかし、身体全身を使って扉にぶつかっても扉はぴくりとも動かない。落ち着け! 気が動転している自分に喝を入れる。押しただけで扉が開くはずがないだろう。鍵を開け、ドアノブを回さなければ、玄関の扉が開くはずがない。そんな当たり前のことが、今の私にとってはわかっていなかった。
近づいてくる足音。だが、私は鍵を開けることができなかった。焦燥感でさらに頭が混乱し、正常な判断ができなくなる。どこに行こうとしているんだ。あいつの声がすぐそばから聞こえてくる。開け、開け、開け。しかし、悲鳴にも似た私の願いを踏み潰すように、私の首が大きな手で掴まれる感触がする。
そのまま私の身体が浮き上がる。無念に伸ばした手は玄関のドアノブをかすり、それから空を切った。そして、あいつが私の身体を自分の方へとむりやり振り向かせる。あいつは笑っていた。あの嘲笑うかのような笑顔を顔に張り付かせながら。
「こらっ! ジョン!! 勝手にゲージを出たらダメじゃないか! 犬は犬らしく大人しくしてなさい!」