トセの場合
薄暗い部屋の中心にある机に肘を突き、壮年の男が物思いにふけっていた。両肘を立て手を組み、その上に顎を乗せている。目は伏せているため、一見すると寝ているようにも見える。男が着ているゆったりとした法衣は赤ワイン色で、法衣の中央――胸の辺りには金糸で大きく十字架が描かれている。同じ色の高い帽子にも同じ模様が描かれており、その下の白髪交じりの髪は丁寧に油で撫で付けられている。
男一人のための部屋にしては広すぎる部屋の南には大きなステンドグラス。そこに描かれているのは神話の一説だ。対する北の壁には扉があり、扉と窓以外の壁には天井まで届く本棚が隙間無く並べられている。もちろん、本棚の中にも数多くの書物が所狭しと並べられている。
ふと、風も無いのに蝋燭の炎が揺れて男の顔を照らす。机の上に置かれた蝋燭は、つい先ほど灯されたものだ。
「教皇様、お時間よろしいでしょうか?」
扉の向こうから聞こえた声に、男――教皇がゆっくりと目を開く。
「狼です。報告に上がりました」
「入れ」
「失礼します」
扉を押し開いて入ってきたのは、黒髪黒目の青年だ。髪の長さははぎりぎりうなじで束ねられるぐらいで、左耳には細かい装飾が成された耳飾りをつけている。着ている服の質は上等だが、なぜだかあちこちが少し破れている。まるで、剣で切られたかのようだ。
青年は優雅に礼をすると、そのまま絨毯の上に片膝を立てて跪く。
「今日は、トセと申します」
改めて名乗り直す青年。狼と言う名も、トセと言う名も、青年の名であって名でない。狼とは、青年が所属する組織の名前であり、トセとは、今日限りの名だからだ。
青年――トセが所属している組織、狼は、教皇直属の部隊だ。主に、外れ物を対象とする任務をこなしていることが多い。外れ物とは、人外の力を持った人に害をなす物だ。始めはどれも人間だったのだが、異端の力を手に入れ、人に害をなした時点で「物」扱いされる。人道を外れたものは、既に人ではないのだ。
外れ物を処分する、それが狼の任務だ。任務は秘密裏に行われることが多く、そのため「狼」も個人を特定できないような仕組みになっている。名前に関してもそのうちの一つで、青年のトセと言う名は数字の十三を表す。名前は毎日無作為に当てられるのだ。
「報告をするなら早くしろ」
お前なんかに割く時間は無い。
教皇は言外にそう含ませて言い捨てた。
「分かりました」
トセはただそれだけを言って小さく頷くと、そのまま任務の報告を続けた。
トセに与えられていた任務は一つ。隣の国へ赴き、王族の結婚相手を見極める。
教皇の支配下にある国は多く、隣国もその中の一つだ。教皇が支配している国々に王は居るが、いくつか教皇から制限が掛かっている。その中の一つが「自由な婚姻の禁止」だ。特に国を跨いだ王族同士が結婚などをして力を持たれては困る。そのため、結婚式は教会関係者が執り行うのだ。
今回派遣されたのがただの教会関係者ではなく「狼」だったのには理由がある。もし結婚相手が相応しくなかった場合、結婚相手を「外れ物」として処分するためだ。その場合結婚相手が本当に外れ物であるか否かは問題ではない。問題なのは「教皇にとって有益か否か」だけである。
「――これらの流れから今回はアスクモアとサンドリヨンの婚姻を認め、私とカインの管理化の下で結婚式を執り行いました」
トセはそう言って報告を締めくくった。
「そうか」
教皇はそう一言だけ呟いた。報告を聞いている間も、そして今も、教皇の顎は組んだ手の上で瞼は閉じられたままだ。
トセはどうするべきが少しの間逡巡したが、結局そのまま待つことにした。邪魔ならばそう言うだろうし、用があるなら言葉を続けるだろう。
そうトセが考えてから五拍ほどの沈黙の末、教皇が再び口を開いた。
「ところで」
続く言葉は何かと、トセが少し身を硬くする。
「カインは役に立ったか?」
前回の任務で共に働いた、長髪の男のことだ。
トセは乾きかけていた唇を軽く舐めて湿らせると、言葉を紡いだ。
「全く。ほんの少しも役に立ちませんでした。剣の腕ならそこらの傭兵のほうが立つでしょうし、あのような薬草への知識など、そこらの医者なら最低限の教養として身に付けています。どうして彼が狼でいられるのか不思議なくらいです。もし――仮にですが私に意見が許されるのであれば、彼の狼の資格を剥奪しろと私は言いたいですね。なんなら、私から引導を渡しても構いません」
急に饒舌になったトセの言葉を教皇はどのように受け取ったのか、ただ、「ふむ」とだけ呟いて顎を撫でた。
「まあ、奴には次の任務をもう与えてあるからな。もう少し様子を見ることにしよう」
続く教皇の「下がれ」という言葉にトセは無言で一礼すると、教皇に背を向けドアのノブに手を掛けた。
「トセ」
呼びかけにトセが振り返る。
「親友で幼馴染のお前がそのように言っていたと、カインが知ればどう思うかな?」
教皇はにやにやと意地の悪い笑みを浮かべているが、応えは求めていないようだ。
そう判断したトセは、眉一つ動かすことなくそのまま一礼すると、退室した。