ほうれい線を深く刻ませて
魔法とはドーナツだった。冷静に考えると、何もない空間からドーナツを降らせるなんて結構すごいことかもしれない。しかし、おとぎ話に出てくるような壮大な魔法を想像していたシシュウには、あのチョコドーナツがどうしても拍子抜け過ぎたのだ。ドーナツ。そういえば最近食べていない。今はもう食べられないけれど。
…………。
「シシュウ〜。シシュウったら」
「ぇ……あぁ」
「ボーっとして大丈夫? 昨日はちゃんと眠れたの〜?」
「ドーナ……じゃなくて、まぁ眠れたよ。それより急に呼び出して、どうしたんだよ」
ぶっきらぼうに尋ねたシシュウは自重では決して揺れないゆりかご椅子の背もたれ上で、物珍しげに部屋全体を見渡した。そこは細々としたモノたちで溢れた、まるで小さな秘密基地のような部屋で、ただしモノたちというのは骨董品ではなく、無数の裁縫道具だった。
光沢のある大きな木製机の上にドンと佇む、真っ黒色のはずみ車が印象的なミシン。その背後のどこか見覚えのあるクッキー缶の中には、針や糸の類が詰められている。そんな木製机の真横にはアンティーク調の戸棚が構えられており、中段には棒にくるくると巻かれた色とりどりの布たちが20種類以上は収納されていた。それらを少し光量の弱い石油ランプの灯りが照らしている。
そんな光景をただ黙々と眺めていたシシュウ。一方で母親は大きな欠伸をした後に、無造作にシシュウの耳を軽く摘んだ。すぐにシシュウがその肉球で払う。
「シシュウが私の仕事部屋に入ること、久しぶりよね〜」
「いやだって……怒ったじゃんか。俺が入ったらさ」
「小さな頃の話でしょ〜? それとも、今でも布巻ハミハミするの?」
「噛むことをハミハミ言うな、ハミハミ。 ……でさ、本当になんなんだよ」
改めてシシュウがそう尋ねると、母親はゆっくりと頷き背後へと手を回した。そして、シシュウから死角となっていた小テーブル……どうやらその上にあったらしい2つのモノを目の前へと差し出したのだ。
得意げな調子で母親が言う。
「ほら、門出祝いだよ〜」
「えっ?」
「門出祝い。旅立つ人への贈り物よ」
「パーカーと、リュックサック……なんでこんなサイズの……俺の?」
「あんた以外の誰がいるのよ~」
「あぁ、うん……そうだよな」
「着てみな〜」
母親の声に曖昧に頷いたシシュウは適当な物陰をキョロキョロ探したが、すぐに今の自身の姿に気づき、止めた。今さらながら漠然とした気恥ずかしさを覚えつつ、真っ黄色のパーカーへ袖を通してみる。 ……少しだけ大きくて、でも丈はほとんどピッタリで、それでいて裏地の素材がスベスベだ。フードを被ると耳だけがぽっかりと露出して小さな違和感を覚えた。しかし、着心地は悪くない。
次に足元の真っ赤なリュックサックを背負う。シシュウの背中から端の方がはみ出るくらいに大きなリュックサックだ。すでにモノが詰められているようで、背負いきると重心がグッと後ろへ引っ張られたが、これくらいなら問題はない。思わずシシュウの口から「すげぇ」と漏れ出た。
「どう〜? 窮屈なところとか、それともユルユルだったりする〜?」
「いや、全然大丈夫。これって母さんが作ったのか」
「フフ、上手いものでしょ〜?」
「おう。 ……ありがとう」
「ただの当たり前よ。 ――さぁ、もう用はおしまい。あんたはハルシネさんのところに戻りなさい。一緒に旅をするのなら親睦を深めておかないとね〜」
そう言ってほうれい線を深く刻ませ笑うと、母親は閉じていた扉をガチャリ開けたのだ。見知った廊下がその視界に入り込む。シシュウは木製机の上からぴょいと飛び降りると、ただ無言で歩幅10cmに満たない1歩を踏み出そうとした。
………………。
――その時になってようやく、“惜しい”という感情が溢れてきたのだ。
「どうしたの〜? シシュウ」
「……ちょっと、心配になっただけだよ。俺が居なくなっちまったら、母さん寂しいんじゃないかってさ。ただそんだけ」
「フフ、あんた何言ってるの〜」
「いや、何でも。ただの冗談だから。 ……じゃあ、行くよ」
「ちょっと待ってシシュウ。忘れ物」
「? なんか俺、忘れて――」
そう言いながら振り返ろうとした時だった。シシュウの視界がいっぺんに暗くなったのだ。どうやら何か温かいものに全身を包み込まれたらしい。 ……匂いがする。優しい匂いだった。
シシュウはゆっくりと目を閉じる。
「寂しいに決まっているじゃないの〜。どれだけあんたのこと大事なのか分かっていないでしょ〜?」
「……んなの分かんないよ。自分のこと、嫌いだし」
「シシュウ、旅に出るのは怖い?」
「なんだよ急に。 ……怖い」
「そうね〜。私もね〜お父さんから長旅に誘われた時、おんなじ理由で思わず断っちゃったのよ……そのことをね、今でも後悔しているのよ」
「……旅したかったの?」
「それだけじゃなくって。何かに挑戦することに歳は関係ないって言うけどね〜。でも、何事も若い頃の方がいいに決まっているもの」
ギュッ、と。母親が抱きしめる力が強くなる。それはぬいぐるみのシシュウにとって少しだけ痛みを覚える程だった。しかし振り解こうとは到底思えず、ただその身を任せた。するとしばらくして、優しい母親が優しい声色でこのように言ったのだ。
「シシュウ。たくさん歩いて、たくさん見て触れて。学校なんかじゃ収まらないほどのことをたくさん学んできなさい。そして……きっと幸せを見つけなさい」
「なんだよそれ」
「決まっているじゃないの〜」
フッと視界が明るくなると同時に、慣れない浮遊感に襲われる。そして自分よりも少し低い位置くらいに、透き通った目でこちらを見上げる母親の姿を見た。ほうれい線を深く刻ませ、母親は最後に冗談めかしてこう言ったのだ。
「私への土産話、ね? ……気を付けていってらっしゃい」
※※※※※※
肌寒い朝の空気には昨夜まで降り続いていた雨の臭いが溶けている。嫌いではない空気だ。 ……なぜ魔法も同じ臭いがするのだろう。そんな疑問を抱きつつ、シシュウは既に見えなくなった骨董店の方向を見続けていた。
頭上のハルシネが問う。
「本当によかったの?」
「ぇ、何が?」
「あなたのお母さん、起こさなくて」
「……母さん、ちょっと過集中なとこあってさ。昨日は徹夜だったらしいから。それに挨拶は昨日のうちに済ませた。だからいいんだ」
「そう。あなた達がいいのならいいけれど」
「うん……それよりさハルシネ」
そこまで呼びかけて、シシュウは不自然に開けられたチャックの隙間からムクリと顔を出した。そして首を無理に動かして空を仰ぎ見る。細いハルシネの瞳と目が合った。
「この運び方は他になんとかならなかったのか?」
シシュウは今、大きなショルダーバッグの中にすっぽり収まっていた。門出祝いに母親から貰ったパーカーとリュックサックと共にだ。そしてそのショルダーバッグはというと、より大きなスーツケースの上へとベルトで括り付けられていたのだ。
その車輪を黙々と転がしつつ、ハルシネはあっけらかんな調子で答える。
「他にどうしろ、と」
「いや……スーツケースの振動を直で尻に食らってるというか」
「痛みを感じるの?」
「ぬいぐるみなのに、不思議と」
「我慢できる?」
「……まぁ、出来るっちゃ出来る」
「なら我慢して」
朝の空気よりよっぽど冷たい声とともに、ふわりとハルシネの黒髪が舞い、シシュウの視界からはその表情が見えなくなる。心なしかスーツケースのスピードが速まった気がした。お尻にかかる痛みが強くなり、シシュウは小さなため息を1つこぼす。そしてすっぽりと頭を引っ込めたのだった。
ショルダーバッグの中の、白んだ暗闇の中に、その身を埋めた。
……………………。
(きっと幸せを見つけなさい、か)
母親の言葉は、元の姿に戻ることよりずっと難しいことのように感じられた。
「……いってきます」
そして誰にも聞こえない声量で、確かな誰かに向けた言葉をこぼしたのだ。 ……蹄の足音が近づいてくる。
母親がシシュウのサイズにぴったりと合ったパーカーを作れたのは、テディベアを縫ったときの型紙が残されていたから。