僕の蓋(ふた)を緩めた彼女(ひと)
下記につきあらかじめご了承くださいませ。
・主人公は小学5年生ですが、あえて「おとな口調」としています
・ある職業について、発言者の背景から現在は使われない旧呼称を使用しています
初投稿作品です。ご感想をいただけたら幸いです。
僕はひとり、舗装されていない土と砂利の入り混じった道を、まだ新しい自転車で走っていた。
夏休み、ふだん遊ぶ友達はいるけれど、今日はみんなとうまく都合が合わなくて。
こんな日は、僕は決まって、隣の学区まで走ってゆく。
「将来なりたいもの」を考えよう、との宿題が渡された。
この手の質問に、僕はいつも答えられない。
男の子なら「プロ野球選手」とか「教師」なんて回答が多いらしいけれど、
そもそも両親以外の親類の職業を知らないし、まったく興味がわかない。
それだけじゃない。先生の寒い冗句、金持ちの友だちの自慢話や服装、給食の献立、図書館の本、花壇の草花、池の魚、机の落書き、廊下の掲示物、運動会の種目に結果、遠足の日程と行き先。
どれも、別に知りたいとは思わない。
でも。
隣学区へのサイクリングは、なんとなく足が向いた。
自宅の南側空き地の向こう、墓地が併設されていていつも静かな宮ノ西児童公園から、サッカーができる宮ノ東児童公園を横目に見て、切通しを走る常磐線の歩行者専用踏切を超え、今日も隣の小学校の学区へ入った。
友達もいない、知らない場所。
見慣れた自分の学区と違って、この路地に面してどんな店があるのか、路地の突き当りはどこにつながっているのか、そこはどんな風景なのか。
踏むペダルに力が籠もる。
今日も厳しい暑さだ。セミの声がわんわん響く。
友達はみんな半袖半ズボンだけど、僕は、長袖長ズボンだった。去年の夏が終わる頃、僕の腕と足に、突然強いかゆみとともに、手のひらくらいの広さの湿疹が現れた。両親はウルシかぶれを疑ったけれど、結局原因不明の突発性湿疹で、当面軟膏で様子を見ることになった。経過はあまり良くなくて、日が経つにつれてかゆみが強くなったから、軟膏も強いものになった。長袖長ズボンは、かきむしり防止と、湿疹の見た目のためだ。まあ、そろそろ半ズボンは恥ずかしくなってきた年頃だったから、あまり気にはしなかった。
隣の学区を縦断する路線バスは、自分の学区には入らないバス会社だった。コーポレートカラーは橙色で、見慣れた白地にベージュと違う上、車体の中央にある扉から乗るバスは、どことなく都会的な印象があった。
そのバスが、[水戸駅]の行先幕を表示して、僕が横断しようとした交差点の、右手から左手へ通過した。
バスが行き過ぎて、視界が開けたとき。
僕の正面に、彼女は立っていた。
彼女と僕は、視線が合った。
信号は、まだ変わらない。
自分よりやや年上だ。
華奢そうな体を薄いピンクのワンピースに包み、同系統のカーディガンを羽織っていた。やっぱりピンクのスニーカーで、白い靴下を膝近くまで履いていた。
黒く長い髪が、行き交うクルマが起こす風に煽られて、捲き上げられていた。彼女は右手に赤い手提げを持っていて、空いた左手で髪を押さえていた。
こちらをじっと見る眼差しには誠実さを、結んだ唇には意志の強さを感じさせた。
どこにでも居そうだけど、なぜかとても引き込まれた。
僕が渡りたい信号が、ようやく青に変わった。
彼女が渡り始めて、一呼吸遅れて、僕が自転車を漕ぎ出した。
ちょうど道の中央で、彼女と僕はすれ違った。
ちら、と横目で見てみたけれど、僕の行動範囲では見たことがない顔だった。
彼女はいくらか伏し目で、ゆっくり歩いていった。
道路を渡りきったとき、信号は赤に変わり、またクルマが流れ出した。
僕が振り返ると、彼女はもういなかった。
・・・
家に帰り着くまで、僕はずっと彼女のことを考えていた。
見覚えがないのに、なぜこんなに気になるのだろう。
自宅2階にある僕と弟の共同部屋に背中向かいで置かれた勉強机で、今日の分の宿題と日記を済ませ、僕は自宅の1階に降りていった。
僕の両親は、電器店を営んでいる。もともとは電化製品の修理業から手掛けて、近隣に移転しながら商売を拡大し、いまでは家族以外に2人の従業員が働いている。
1階は1/4が住居スペースの居間と台所と水回り、残りが店舗スペースだった。時刻は18時を過ぎていて、仕事を終えた母は夕飯の支度を始めていた。
母は来店者への接客を担当していた。もともと社交的な性格なので、こういった仕事は苦にならないようだった。努力家で、母親業の傍ら、販売士検定試験にも合格していた。僕はそんな母の背中に視線を向けただけで、声はかけなかった。
住居と店舗は、薄い合板製の扉を隔てているだけだったから、住居の音は店舗に筒抜けだったけど、店舗は展示品のテレビやオーディオからの音で溢れていたから、気にはならなかった。
父はいつもの仏頂面でカウンターに座り、はんだごてを持っていた。なにやら修理をしているようだ。父は生まれも育ちも水戸で、理屈っぽく、怒りっぽく、飽きっぽい。これらは(科学的でないけれど)「水戸っぽ」の特徴らしく、この気質を地で行ったひとだった。加えて、母と違い愛嬌のひとつもない父が、なぜ地元で商売を始めたのか、それでも僕はまったく聞くつもりもなかった。
「健太、後でちょっと手伝ってくれ」
父は僕を見ると、そんな声をかけた。
僕は、湿疹がひどくなるまで、スイミングスクールに通っていた。そのせいか身長は平均だけど、体格は恵まれていた。
「…うん」
父の「ちょっと」は、ちっとも「ちょっと」ではなかったから、面倒だった。手伝っても小遣いが増えるわけでもなかった。
日が沈んだ東の空には、夕焼けの最後ともいえるグラデーションがかかっていた。
昼間のセミに代わって、近くの空き地からはコオロギの鳴き声が聞こえ始めた。
近所から夕飯を煮炊きする香りが漂ってきた。
今日の不思議なできごとを、音と空気が思い出させてくれた。
・・・
次の日、僕は友達からの誘いを断り、昨日と同じ場所へ出かけた。
昨日の女の子が、どうしても気になった。
女の子の友達も何人かいるけれど、あんな雰囲気を持った子は、同級生にはいなかった。
昨日すれ違った横断歩道で、僕はすいぶん待っていた。
日も傾き、今日はもう会えないか、と翻ったところで、僕は驚いた。
すぐ後ろに、いつの間にかあの子が立っていた。
「おい、おまえ」
突然のこととずいぶんな物言いにたじろいで、しかし裏腹に、その子の声はとても澄んでいるのに同級生たちよりいくぶん低めに聞こえたのは、疑いや脅しなど、僕のほうに負の気持ちがあったからか。
「昨日も、ここに居たな」
彼女は聞いてきた。
「ああ、はい」
僕はだいぶ気圧されて、反射的に敬語で返事をした。
「…うちは、遠いのか?」
「ええっと、はい、赤塚です」
「ほほう」
そこまでひとまずの会話をこなすと、彼女はさらに興味が増したように、こちらへの視線を強くした。
「なんで、ここに来た」
僕は、心の中にいきなり土足で踏み込まれた気がして、とっさに声が出なかった。
「ああ、すまん、別に咎めているわけじゃない」
彼女は表情とアルトの声を緩めて言った。
僕はどう答えていいか、逡巡していた。
「私もな、うまく理由を説明できないが、今日ここでお前と逢える、と思っていた」
まるで僕のことを見透かしたように、彼女は言った。
「おまえ、名前は?」
「…オオイケ、ケンタ」
「…オオイケ、ケンタ、か」
彼女はなぜか合点がいったように、僕の名前を復唱した。
僕の名字は、市内では決して珍しくはないが、僕が通う小学校では大池姓はうちだけだった。もともと県南東部の海沿いに多いらしいが、僕の世代ではそちらに親戚のつながりはない。
「よし、ケンタ、ちょっと付き合え」
・・・
ずいぶん強引で、いつもなら面倒が先に立つのに、なぜか僕はすんなりとついていった。
昨日彼女とすれ違って、今日まるで待ち合わせたかのようなその横断歩道がある道路は主要県道のひとつで、県庁所在地である水戸市中心部と、ここから南西にある岩間町を結んでいる。地元では「岩間街道」と呼ばれていて、道路沿いには広い駐車場を持つチェーン店の本屋や飲食店が立ち並んでいた。
僕らは、岩間街道を南西へ、黙って歩いていた。
彼女から話しかけないからもあるし、歩道はふたり並ぶほどの幅はないし、クルマの行き来が多くて、
縦列では声が届かないこともあるが、なにより何を話していいかがまったくわからないのだ。
そもそも同級生の女子と話す機会も話題も気力もないのに、年上に見える人とならますますきっかけがない。
それから15分も経ったころ、彼女は歩みを止めた。
道路沿いに、「河和田城址・報佛寺」と看板があがっていた。
「こっちだ」
彼女はその看板を見つめ、つぶやいた。
この場所は…初めて来たはずだけど…知っている。
社会科で、地元の歴史を勉強したときに採り上げられたこともあるけれど…。
山門、空堀、それらを覆う大木、空気…。
ああ、そうか、これは…懐かしさと、…恐怖。
ようやくその感情にたどり着いたとき。彼女はすでに山門をくぐっていた。
山門からまっすぐに、彼女は迷うことなく歩いていく。
まだ日は高いけれど、このあたりは生い茂る樹木に光が遮られ、やや暗く、草木や苔の湿ったにおいに満ちている。
僕は早歩きで彼女を追いかけたし、彼女もそれほど歩幅は広くないはずなのに、彼女にまったく追いつかない。その割に、彼女を見失うこともない、となぜか確信があった。
息が上がってきた。すいぶん歩いた気がするが、やっぱり彼女に追いつかない。
砂利を踏みしめる音が、やけに耳に響く。
彼女の背中が暗闇に浮かび上がって見えていることに気づいたとき、林のトンネルを抜けたのか、突然視界がホワイトアウトした。
眩しくて、目を薄く開けた先に、彼女はこちらを向いて立っていた。
「ついたぞ」
目が慣れてきて、周りをぐるりと見渡してみた。
ソフトボールの内野くらいの広さで砂利が敷かれた円形の広場。その向こう側は、スギの木が広場を取り囲むように立っていた。空は夕焼けに染まっていて、中央の祠からは、長く影が伸びていた。
彼女から影が伸びていないことに気がついたけれど、それは些細なことに思えて、いつもの「関心なきコト」の引き出しにしまい込んだ。
「おまえは、自分に蓋をしているようだね」
何?なんのこと?
そんな感情が沸き起こったその次の瞬間、鼻の奥がつーんとした。
父とは、キャッチボールもしたことがない。
母に、料理を教えてもらったこともない。
家族みんなで、旅行に行ったこともない。
それは、いまいちばん仕事が大変なときだから。
そんなことは、もうとっくに理解している。
だから、友人がそんな話をしていても、「関心なきコト」にしていた。
「私はね、お母さんを助けたかった」
彼女が話しだしたとき、あたりが突然闇につつまれた。
さっきまで夕焼けだった空に、たくさんの小さな光点が、南からこちらに向かっている。
市内の方向から、サイレンの音が聞こえる。
「私たちのお母さんは、お父さんが戦争に行ったあとも、
妹と私をとても大事にしてくれた。でも、お母さんは病気になってしまって、
私たちの前で死んでしまった。」
「死ぬ前に医者は診てくれたけど、薬は出してもらえなかった。もう、手遅れだと」
彼女は、目を伏せて言った。
「私は、お母さんを助けてあげられるような医者にはなれない。お金もないし。
でも“わたしのような子ども”は助けてあげられるんじゃないか。
だから、救護看護婦になろうと思った」
伏せていた目をこちらにまっすぐに向けて。
先程から、空から響く音が大きくなってきた。
空に視線を動かすと、さっきまで小さな光点だったものが、大きな点滅する物体になっている。
夢…
「運良く、看護学校に入学できた。
春にやっと卒業できて、これからなのに…やっと、なれたのに…。
これから、たくさんの子どもたちを助けたかったのに…。」
彼女は、目に涙を浮かべながら、懸命に言葉をつないだ。
「夢は、いくつも持てるし、変えてもいいし、押し付けられるものじゃない。
矛盾するけど、いま無くたってかまわない。
寝れば、毎晩違う夢を見るし、見ない日もあるだろう。
それでいいんだ。
でも、いずれなにかしたい、なにかになりたいって気持ちができれば、
それはりっぱな夢で、いずれかならず実現できるよ。」
彼女とはずいぶん離れているのに、
目の前で話しているように声が聞こえる。
表情が見える。悲しい、表情が。
「何が大切かって、自分は世界の一員だってことに気づくことじゃないか。
そのために、まずはこの世界を、過去といまを知り、未来をはかることだ。
やるべきこともやり方もたくさんあるけれど、
そのために、子どもにはたくさんの時間があるんだよ。」
いよいよ上空から、ごおお、ごおおと、体を引き裂くような轟音が響く。
「ケンタ、蓋を外せ。おまえは、ちゃんと愛されている。
夢に、気づくことができる。」
涙が、溢れた。
なにかがおぼろげに、見えてきた気がした。
「君は…誰?」
「…とても残念だけれど、そろそろお別れだ。
逢えてよかった。私の妹によく似ている、愛おしい子孫よ」
まわりが、
閃光に包まれた。
・・・
我に返ると、自転車のハンドルを持って、あの横断歩道にいた。
歩道側の信号は、まだ赤のままだ。
信号が青に変わるなり、さっき歩いたはずの道を、僕は急いでなぞっていった。
「河和田城址・報佛寺」の看板はすぐみつかった。けど…。
その先から、彼女の気配を感じた気がして、報佛寺に入らずに道なりにその先を進んだ。道は左にカーブして、程なく「天徳寺」の山門が見えてきた。
ああ、ここは…。
うちの、菩提寺だ。
天徳寺に入ると、左手に墓地があった。その一角に。
「大池家先祖代々之墓」があった。
父に連れられて、クルマで数度来たことがあったけど、墓石は正面からしか見たことはなかった。右側面に、埋葬されている祖先の名前があった。そこには、こう彫られていた。
「昭和二十年八月二日 和子 享年十八」
・・・
「ばあちゃん、ばあちゃんのお姉さんって、どんなひとだった?」
「おや、初めて聞かれたね。
そうねえ…、
ばあちゃんのお姉さんは、看護師さんだったのよ。優しくて、芯が強くてね。
ばあちゃんのお母さんが病気で亡くなったとき、
ばあちゃんは悲しくてしかたがなかった。
そんなときも、お姉さんは、ばあちゃんのことを、ぎゅっと抱きしめてくれた。
ばあちゃんに、私が愛しているから、って言ってくれたことを
よく、覚えているよ」
「ばあちゃん、俺、もっといろいろ話を聞きたい。教えてくれ。」
・・・
1942年、国民学校高等科卒業者を入学資格として2年間の修業年限による「乙種救護看護婦」養成が開始された。戦時措置であった乙種救護看護婦の養成は、終戦(1945年)とともに、当時の在学生の卒業をもって廃止となった。
日本の敗戦を目前に控えた1945年8月2日、アメリカ軍による水戸市空爆が実行された。マリアナ諸島の航空基地を飛び立ったB29・160機は、房総半島から霞ヶ浦を通過し、8月2日深夜には水戸市上空へ侵入、午前0時31分頃から2時16分過ぎまで空襲を続けた。爆撃時の飛行高度は約3,700m~4,600m、投下された爆弾はおよそ1,150tにのぼるという。国宝の水戸東照宮や水戸城御三階櫓などの文化財をはじめ、水戸市街のほぼ全域を焼失し、死者は300人を超えた。当時の水戸の防空体制は無力であり、アメリカ軍の資料によれば、迎撃した日本側の戦闘機は20~25機中、攻撃してきたのは1機だけとされる。
実在の名称や歴史を引用しておりますが、本作品はすべてフィクションですので、実物とは整合性がありません。
お読みくださりありがとうございました。
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