1:シャロン・ジルフォード
ジルフォード侯爵家は魔術と医学を融合した治癒魔術を発明した功績が認められて昇格した、ちょっと凄い貴族。
そんな侯爵家の息女シャロンは、魔術師を養成するための教育機関である魔術学院では、ずっと黒猫のようだと陰口を叩かれていた。
『愛想笑いひとつできない根暗な令嬢』と皆が彼女を見下す。
シャロンの少し釣り上がった目を彩る黄金の瞳も、艶のある漆黒の髪も不吉の象徴でもある黒猫のようだと言われれば確かにそうなのかもしれない。
シャロンもそれは自覚している。
「でも、あまり笑わないだけで根暗と決めつけるなんて酷いと思わない?表情筋死んでるとか好き勝手言いやがって」
シャロンは侯爵家の薬草園で、この場所を管理している薬師のサイモンに愚痴をこぼしていた。
確かに愛想笑いは苦手だが、シャロンだって笑いたい時にはちゃんと笑う。ただ、学院での生活の中であまり面白いと思える事がなかっただけで表情筋はまだ死んでない。…死んでいない…はず。多分。
少なくとも本人は常々主張している。たとえサイモンがそう主張するシャロンを半眼で見ていたとしても、表情筋はまだ死んでいない。
「表情筋はほぼ死んでるがたまに息を吹き返すというのが正解っすね」
サイモンは薬草を摘みながら面倒くさそうに返した。
「あと、根暗確実に間違っていない。どこの世界に毎日図書室にこもっては医学書ばかり読み、新薬の開発のためだと言って実験用動物を飼育する令嬢がいるんですか」
「本を読んで知識を蓄えることは大事なことでしょう?新薬の件はただの趣味よ、趣味。令嬢が刺繍を嗜むようなものよ」
「じゃあ刺繍を嗜みなさいよ、刺繍を」
シャロンはああ言えばこう言うサイモンにぷくーっと頬を膨らませた。
「大体、貴族令嬢にはそれより大事なことがあると思いますけどね。結婚とか社交とか結婚とか」
「うう…」
「またうまく行かなかったんすか?お見合い」
シャロンはううっと唸り、顔を伏せた。
何回目かの見合いに失敗した彼女を小馬鹿にするように、サイモンはその黒髪を撫で回した。
相変わらず毛並みの良い黒猫のような髪だ。
「今度はなんて言われたんです?」
「『格下の家だと蔑んでいるのだろう!馬鹿にするのも大概にしろ!』と怒鳴られた。別にそんなこと思ってないのに。ネクタイの柄が猫で可愛いと思って見ていただけなのに」
三角座りをして口を尖らせるシャロンをよそに、サイモンは笑いが止まらない。
「何で笑うの!?」
「いや、相変わらず曲解されるなと」
「…いつものことよ。もう慣れたわ」
表情筋の死んでいるシャロンは、無表情がデフォルトだ。
そのせいか対峙した人は皆、各々自分の都合の良いように彼女の表情を解釈する。
例えば自分を卑下している人には彼女の無表情が『小馬鹿にされている』顔だと映り、ナルシストには『自分に惚れている』顔だと映る。
それはまるで鏡のようだとサイモンはいつも思う。
「もう婚活諦めたら?」
「そういうわけにはいかないわ。私は侯爵家のために結婚しなきゃいけないのよ」
「貴族って大変だなぁ。でもお嬢、実はそんなに結婚したいと思ってないでしょ?」
「そんなことないわよ」
「いっそ修道院に入り、恵まれない子どもたちに医療を提供する方が、貴族の夫人になるよりも自分の性に合ってると思ってる」
「違うもん」
「医者になるのがお嬢の夢でしたもんね」
「違うもんんん!」
シャロンはイーッとサイモンを威嚇して、薬草園を出て行ってしまった。
どうやら図星だったようだ。
「普段からそんな風に感情を出せば良いのに」
サイモンはボソッと呟く。
シャロンは気を許した相手の前では比較的くるくると表情を変える。少なくとも幼馴染のサイモンには、表情筋の死んだ不吉な黒猫のようには見えない。
いや、猫っぽいのは確かだが、その姿は気まぐれな猫のように愛らしい。
サイモンは身分の壁さえなければ自分がもらってやるのにと常々思っていた。
「このままお嬢が嫁に行き遅れたら、貰えないか交渉してみようかな」
長年、彼女と信頼関係を築いてきた自分なら貰い手のない娘を譲ってくれるかもしれないなどと考え、サイモンは悪い笑みを浮かべた。
***
学院に通っている頃から何回かお見合いをしてきたが、人見知りの上に緊張するとうまく表情筋が動かせないシャロンは、お見合い相手の前でも微笑み一つ浮かべることができずに、最後には相手の男性を怒られせてしまう。
「どうせ私は結婚もできない役立たずよ」
部屋に戻ったシャロンは机の上に積まれた本の山から1冊の魔導書を手に取り、ベッドに腰掛る。
ゆっくりと開いたその本にはびっしりとメモが書き込まれていた。
「どれだけ勉強しても無駄なのよね…結局」
医学の知識があっても、血は不浄とされるこの世で良家の娘が医師になることはできない。どれだけ知識があろうと女である彼女は兄たちのスペアにもなれないのだ。
そして兄弟達とは違い、魔力量が少ないシャロンは学院を卒業したのに魔術師にすらなれていない。
彼女はもう、どこかジルフォード侯爵家に利のある家に嫁ぐことしか家のために出来ることがなかった。
それなのにお見合いは失敗続き。
学院を卒業し、18を迎えて成人した今、シャロンはもうこの家にとっては邪魔者だ。そろそろエロ親父の後妻として売り払われるだろうと予想していた。
「やっぱ結婚を諦めて、修道院に入ろうかしら」
サイモンの言う通り、実は後妻に入るくらいなら修道院で穏やかな余生を過ごす方が幸せなのではないかとも考えている。
修道院では、女性にも医者の真似事のような治療ができる。正式に認められているわけではないが、貧困層の医療が受けられない人々のために、資格のない修道女たちが行う医療行為が黙認されているのだ。
医者になりたかったシャロンは「お父様に相談してみようかな」と呟くと、ベッドに転がり天井を見上げた。
そして、深く長いため息をついた。
「結婚は諦めないで欲しいな」
そこには目つきの悪い変態こと次兄ハディスが、真っ黒な服に身を包み、口に暗器を咥えた状態で張り付いていた。
シャロンはいつもの事でだいぶ慣れてはいるが、油断している時にこういうことをされると流石にびっくりする。
「何しているんですかハディス兄様」
「暗殺の練習」
「なんか違くない?」
ジルフォード侯爵家は代々、表では医師として活躍しているが、裏では暗殺者として王家を支えている。
次兄ハディスは魔術師の資格を持ちながら、王太子直属の諜報機関に所属している。
そのため遠い島国で言うところのニンジャのような真似が得意だ。
「シャロン。ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい」
「は?」
天井に張り付いた変態は唐突に笑えない冗談を吐く。
「ウィンターソン公爵の元に嫁ぎなさい」
冗談ではないぞ、と言いたげにもう一度繰り返した。
公爵家との縁談など、シャロンにはこの上なく良い話だがウィンターソン公爵となると話は別だ。
シャロンは一応確認する。
「ウィンターソン公爵とは、陛下の従兄弟であるアルフレッド・カーティス様のことで間違い無いでしょうか?」
「ああ」
「5年前に奥方であるエミリア様を亡くされてからずっと喪に服していらっしゃるという、あの?」
「ああ」
「我が家とは因縁しかないという、あの?」
「ああ」
「なぜまた…」
シャロンは額を押さえてため息をついた。
彼女に持ち上がった縁談の相手は、王家の血筋ながら魔力を受け継がず、代わりに剣の腕が人の域を超えているとさえ言われる鬼の近衛騎士団長。
そして、5年前に妻を亡くしてからずっと亡き妻を思い喪に服しているという全身真っ黒の男。
騎士団の隊服まで特注して黒一色のものを作ったほどに徹底して黒しか着ないと噂の、通称【烏公爵】。
「えっと、お兄様?我が家はエミリア様の治療を拒否したのですよ?そんな家の娘を後妻に迎えるなど…」
あり得ない。シャロンはそう思う。
ジルフォード侯爵家は過去、公爵の亡き妻エミリアの治療を公爵から依頼された。
だが、公爵家に体の弱いエミリアが嫁ぐことをよく思っていなかった国王がその依頼を断るよう圧力をかけてきたのだ。
医師としてはその圧力に屈してはならなかったのかもしれないが、ジルフォード侯爵は当時貴族であることを選び、エミリアの治療を拒否した。
シャロンはその選択が100%間違いだったとは思っていない。
王に圧力をかけられた以上、それに従わなければどんな報復が待っているかわからない。最悪、領民を危険に晒すことにも繋がる。
一人の命と大勢の命を天秤にかけ、侯爵は大勢の命を選んだだけのこと。
しかし、ウィンターソン公爵にとっては最愛の妻を助けてくれなかった事にかわりなく、恨まれても仕方がない。
故に、そんな憎き家の娘を後妻に迎えるわけがないのだ。
「お前の言いたいことはわかる。だが、これは陛下のご意向だそうだ。公爵家にはまだ後継がいない。そのことを気にしている陛下は、亡き奥方に似ているシャロンならば彼も受け入れるのではないかと考えたらしい」
「それは、いかがなものかと…」
愛する亡き妻に似ているというだけで後妻に収まろうとする女など、それだけでも公爵にとっては不愉快極まりないのに、よりによって亡き妻を見捨てたジルフォードの娘など彼が受け入れるはずがない。
「私なんぞにエミリア様の代わりは務まりませんわ」
「わかっていると思うがシャロン、これは王命だ」
「…そうですか。王命では仕方がありませんね」
【王命】という単語を聞き、シャロンは抗おうとするのをやめた。
王命ならば抗っても仕方がない。どう足掻こうとも死ぬ以外に逃げ道はないのだから。
そんなあっさりした妹の姿を、次兄ハディスは『不幸な結婚に絶望している』と捉えたらしく、
「シャロン。どうか…幸せになってくれ」
と、悲痛な顔でアルフレッドが妹を蔑ろにせず受け入れてくれることを願った。
「…いや、何か妙にしんみりした雰囲気を出していますが、その格好のまま顔だけ決めても気持ち悪いだけですよ」
天井に張り付いたままのハディス目掛けて、シャロンは分厚い魔導書を投げつけた。