18 アーメナ
心なしか校舎内に甘い香りが漂っている気がして鼻をひくつかせる。やっぱり勘違いじゃないかもしれない。明日はバレンタインデーだ。ところが明日は休日…つまり学校でチョコを渡すなら今日ということになる。今日は実質バレンタインだ。
そういえば校則的にチョコレートの持ち込みってどうなんだろう。先生からは特になにも言われなかったな。
前世ではチョコレートの持ち込みが禁止だったけど、こっそり持っていってたな。中学生のときだったはずだ。帰り道で友達とチョコを交換してさ。楽しかったなぁ。私は友情に生きていたのだ。と言いつつ実際は好きな人に渡す度胸がなかっただけなんだけど。
…勇気を出して渡しておけばよかったかな、どうせなら。まぁそれは今だから思えることなのかもしれないね。
A組の前の廊下に何故か人が集まっていた。何だこれと目を見開く。ここを通り抜けないとD組の教室に辿り着けない、困ったな。人の切れ間を縫いやっとの思いでD組へ。
教室に入るとエリンちゃん、ソフィちゃんたちが待ち構えていた。
「遅いですよ。アーメナ様」
ええっ。いつもこれくらいだし、まだ時間に余裕はあると思うよ。今日はみんな来るの早くないか。
「すっかり出遅れてしまいましたよ」
なににですか、ソフィちゃん。
「さぁ、早くサビス様にチョコを渡しに行きましょう!」
エリンちゃんが腕をぐいぐい引っ張って催促する。サビスにチョコを渡すって…ちょっと待ってよ。
「私、チョコ持ってきてないですから」
私の言葉に一同がざわめく。
「アーメナ様、チョコを忘れてしまったんですか。なんてことしてるんです」
悲痛そうな面持ちでエリンちゃんが言う。違うんだって。
「そうではなくて、サビス様にチョコを渡すつもりはないの」
みんなのざわめきはひと際大きくなった。そんなに驚くことかな。というかみんなサビスにチョコを渡すの? 私はそっちに驚いてるよ。
「なので皆さんだけで渡しに行ってください」
そう言って席に着いた。
みんなはぞろぞろとチョコを手に教室から出ていく。おお、本当に渡しに行くのか。
すごいなサビス。もしかしてA組の前に出来ていた人だかりはサビスにチョコを渡すためだったりするのかな。それはさすがにないか。いや、この分だとあり得るかもしれない。
どうしよう。A組の様子が気になる、すっごく気になる。見に行ったらダメかな。ダメだよなー、でも人だかりが出来ていたし…ちょっと前を通り過ぎるくらいなら…。
気がつくと私は廊下に出ていた。
来たとき同様、A組の前には沢山の人がいるのが見える。そのほとんどが女の子のようだ。これは確定かな。
なんでもない顔をしてA組まで歩いていく。私は決して野次馬なんかじゃありませんよー。エリンちゃんたちと鉢合わせしないかと気が気じゃない。
A組の前に来た。人ごみに揉まれながら教室の中を覗く。サビスの姿を見つけるのはたやすかった。出入り口付近で女の子たちに囲まれているのだ。その輪の中にエリンちゃんたちもいた。
教室内に大量のチョコが置かれた机を発見した。なんだあの量。あれは間違いなくサビスの机だ。あれだけでなく、サビスは手にもチョコを持っている。これはすごい。学年中の女の子からチョコをもらっているんじゃないのか。
想像以上のものが見られて満足した私はその場を後にした。
自分の席に戻ってから少しして、エリンちゃんたちが帰ってきた。ギリギリセーフだ。
「大変でしたよ、人がたくさんいて」
「へぇー。そうだったのね」
「はい。でも渡して来れましたよ」
それはよかったねと頷く。
「アーメナ様も渡して来ればよかったのに」
エリンちゃんはまだ不満げだ。
そしてバレンタイン当日、私は休日なのに平日より早く起きた。ふわぁっと大きなあくびを一つ。眠い。
これから家族のみんなに渡すチョコレートを作るのだ。買ったものを渡そうか悩んだのだけど、どうせなら手作りしたい。
作るものはだいぶ前から決めてある。生チョコだ。
ガトーショコラを焼いてみようかなとも思ったんだけど、ほとんど炭と化したクッキーの件で自分のお菓子作りの腕に疑問を抱いた私は生チョコを取った。何と言っても簡単そうだ。材料も手順も少ない。が、甘く見るのは危険だ。万が一の失敗に備えて早起きをした。材料だって多く用意してある。準備に抜かりはない。
まずは生クリームをミルクパンで温め、チョコレートをざらざらボールに出していく。どちらも選りすぐりのものだ。
温めた生クリームをチョコレートのボールに注ぎ、ゴムベラでぐるぐる混ぜる。ふわっと漂ったチョコのいい香りにごくりと唾を飲み込む。
溶けたチョコレートは艶々で美味しそうだった。味見したい衝動を抑えるのに一苦労だ。チョコレートをトレーへ移し、平らにならして冷蔵庫に。
ふぅ…。これで固まったら仕上げをすれば完成だ。だがここで気を抜いては前回の二の舞となってしまう。気を引き締めないとね。
時計に目をやる、とりあえず朝ごはんだ。
「アーメナ、チョコレートを作っているんですって?」
パンをちぎる手を止めて答える。
「はい。もう少しで完成です」
「一人で作っていると聞いたのだけど大丈夫なの? アーメナお菓子作りなんてしたことが」
「お母さま」
心配そうに尋ねるお母様の言葉を遮り、コリスが言った。
「姉さまはお菓子作り上手なんだよ」
「上手?」
コリスの言葉にお母様とお父様までもが目を丸くする。クッキーを作ったことは二人には話していない。失敗だったし。でも、お手伝いさんたちからは報告を受けているかと思ったんだけどな。この様子だと何も知らないようだ。
「実はお母様たちの出かけているときに、クッキーを一度作ったんです」
「そう、それがすごく美味しかったんだよ」
身を乗り出して力説するコリス。違うんだよ、あれは失敗だったんだ。コリスが食べた数枚だけが生き残りだったんだよ。それにコリスは美味しいと言ってくれたけどお母様やお父様が食べたら、焼きすぎだと思うに違いない。
だからそんなに褒めてハードルを上げないでくれと心の中で叫ぶ。
「そうなのね、知らなかったわ。チョコレートよかったら味見させてね」
「…はい」
「チョコレートって僕の分もある?」
「もちろん」
「よかった。楽しみにしてるね」
嬉しそうに笑うコリスに私も微笑む。コリスの上がり切ったハードルを私は越えられるのだろうか。あと私の笑顔は引きつっていないだろうか。
冷蔵庫からトレーを取り出す。失敗のしようがないと思うのだけどそれでも心配だ。大丈夫かな。ラップを剝しチョコレートをじっと見つめる。うーん、見ただけでは分からないか。
生チョコは型で抜くことにした。手で丸めたり、包丁で切り分けたりといった方法もあったけど、より確実な道を選びたい。型はバレンタインらしい、手のひらサイズのハート型。
ハート型に型ぬいた生チョコを並べていく。うん、やっぱり可愛いね。硬さも丁度いい感じだったし、これはもう…。口元が緩む。
仕上げにココアパウダーをふるいかけて、完成だ。
見た目はとてもいい。問題は味だ。
一つ手に取り口へ運ぶ。
おおっ! 美味しい。カカオの香りが鼻に抜ける。何より口どけがいい。もしかして私にはお菓子作りの才能が?
白い小皿に取り分けた生チョコをみんなの前に出していく。最後、お父様の前に小皿を置いたときお父様がほっと息をついたのを私は見た。顔はいつもと変わらず怖いままだったけど。貰えるか心配だったのか? お母様の分もあるし、お父様の分がないはずないんだけどな。
「どうぞ」
私が言うと、いただきますとみんな生チョコを口にする。緊張で握った手が汗ばんできた。
「美味しい! すごいよ姉さま」
「本当ね。凄く美味しいわ」
「美味しいな」
賛辞の言葉に眉を開く。
「アーメナはお菓子作りが上手だったのね」
「だからそう言ったでしょ」とコリスが口を尖らせた。
自分の作ったものを美味しいと言ってもらえるのは嬉しいな。空になった皿を見て胸が熱くなる。
私の生チョコを食べ終えるとお母様は紙袋からリボンのついた箱を取り出し配った。渡されたものをよく見れば有名なショコラティエのチョコレートだった。
青いリボンをほどき、箱を開けると形や色の違う艶々のチョコレートが並んでいた。まるで宝石箱のようだ。
手を伸ばし、思い直して引っ込める。これは明日から大事に一つずつ食べていこうとそっと箱を閉じた。