0077
エルピネクト子爵の第一子長女、マリアベル・エルピネクト。
二〇も離れた僕の姉であり、僕が生まれるまで次期子爵だった人。普通ならお家騒動を真っ先に起こす立場なんだけど、そんなことをせずに僕を鍛えた師匠でもある。もっとはっきり言うと、母親代わり。
いや別にね、実の母が母親らしいことをしてないわけじゃないよ。
年齢差とか関わった時間とかを色々と加味すると、母親というより祖母に近いというだけ。
(お祖母様みたいなんて、口が裂けても言えないけどね)
ヒマ過ぎて、そんな益体のないことまで考えてしまった。
このままでは考えること自体が危ないことを考えてしまいそうだったが、ありがたいことにマリアベル姉上が姿を現した。
「あら、随分と気合が入ってるじゃない。感心だわ」
……何も言うまい。
これから試合だというのにドレスを着ていることも、串に刺した唐揚げを何本も持っていることも、それを美味しそうに食べていることも、……何も言うまい。
言いたいことはごまんとあるけど、言うまい。……いや、言えない。
だってこの状態で不意打ちしたとしても、絶対に負けるから。
「姉上相手に気を抜いたら死にますからね。身体もマナ回路も充分に温めてあります。――ところで、それは朝食ですか? バランス良くしたほうがいいと思いますよ」
「そんなわけないでしょ、ただのカロリー補給よ。あなたを潰すのは手間だもの」
「わー、やめてー。凄惨な結果になるだけだからやめてー」
思わず本音がポロリ。
でも、感情を入れる余裕がないから棒読みになっちゃった。
「大丈夫よ、死ななきゃ安いから。――それに、グロリアと斬り合う機会なんて何回あるか分からないでしょ? 多少は気合を入れないとつまらないもの」
残っていた唐揚げを一気に平らげて、お付きのメイドに串を片付けさせる。
それが合図になっていたのか、六人の騎士がソレを運んできた。
「――わ、わざわざソレを使うんですか? 本気すぎません?」
「相性があったにせよ、一人で幻獣を討伐したのよ。本気を出すに値するわ」
エルピネクトに忠誠を誓う勇蝶騎士団。
奈落領域の天使と鎬を削り合う彼らは、王国最強とも謳われる。そんな王国有数の精鋭が、六人がかりでなくば運搬できない荷物。マリアベル姉上はそれを、片手で持ち上げた。
「そんな驚いた顔をすることないでしょう? 私が天墜を使うところなんて、何度も見せてるんだから」
魔剣・天墜。
剣と呼ぶにはあまりに長く、槍と呼ぶにはあまりに太く、斧と呼ぶにはあまりに重い。人が使う武器とは思えぬ欠陥品であるそれは、便宜上、大剣に分類される。
形状は、全長三メートルの弧。
丸みを帯びた部分が刃であり、反対側が柄であり峰。
重量は約二〇〇キロ。付与された魔法は構造強化の一点のみ。普通の魔剣に付与される、重量軽減や切れ味強化などはまったくないそれは、硬いだけの金属塊。並の人間はもちろん、英雄豪傑と呼べる傑物でさえ、持て余す失敗作。
それが、マリアベル・エルピネクトに振るわれない場合の、正当な評価だ。
「何度見ても信じられないから、絶句って言うんですよ。そんなんだから怪力無双だなんだと言われて、王国貴族からハブられるんです」
「ハブられようが排斥されようが、別に構わないわ。これじゃないと天使は斬れないし、これがなかったら今の繁栄はないもの」
天墜には、名前がなかった。
というか、製作者であるエルピネクト家の長男が「こんな鉄塊に名前なんて誰がつけるか!」とキレ気味に言い放ったのだ。武器未満の欠陥品を打ったことが、鍛冶師としてのプライドを傷つけたんだろうな、きっと。
ただ、数え切れないほどの天使を斬り殺し続けたことで、マリアベル姉上は「天使さえ地に墜とす」という意味を込めて《天墜》と呼ばれるようになり、名も無き大剣も同じ名で呼ばれるようになったのだ。
(……逃げたい)
と、叫びながら行動したい欲求に駆られるのも、無理からぬ話。
逃げても隙を作るだけだから、やらないんだけどね。
「姉上が自分の評判について語ってくれるなんて、珍しいこともあるみたいですね。今日は雨かもしれませんね」
「そうね。血の雨は降るかもしれないわね」
「――っ!!」
グロリアで防いだはずなのに、腕が千切れるほどの衝撃に襲われた。
構えを解かないように力を抜き、逆らわぬように飛ばされる。少しでも踏ん張れば手足の骨が折れただろう一撃は、熊の幻獣以上。
それを戯れに出すのだから、やってられない。
「上手に受けたものね。骨の一本は砕けると思ったんだけど」
「痛いのはイヤですからね。必死になって流しますよ」
「じゃあもう少し、手数を増やしても問題ないわね」
そこからはもう、何が起こったのかが分からなかった。
分かったのは、姉上から攻撃を受けているという事実だけ。目の前のことに手一杯で、どんな手順、どんな術理で攻撃をしているのかが分からない。姉上の一手を防ぐことに全力を尽くさねば、防護ごと潰される。
僕がまだ立っていられるのは、姉上が力任せに大剣を振っているからだ。
「――あいっ、変わらず――ヘッタクソですね! 少しは騎士たちを、見――習ったらどうですか!」
「必要ないわ。一〇〇回振って当たらないなら、一〇〇〇回振ればいいだけの話じゃないの。何発も当てなきゃいけないならともかく、私は一発当てれば終わるのよ? 見習う必要なんてないじゃない」
あいっかわらず、無茶な理論を展開するな。
でも、正しいんだよね。姉上の本業は領主代行だから、武を磨く必要なんてあんまりない。そして実戦では周りに人がいるので、周りがサポートすればいいだけの話。それで天使を殺しまくってるんだから、問題にする方がおかしい。
これは理不尽に対するただの愚痴だ。
「でも、本当に強くなったわね。これで攻撃がまともにできれば、うちの騎士にだって勝てるわよ」
「姉上の言葉じゃないですけど必要ありません。僕の役目は死なないこと、ですから」
「言うようになったじゃない。でもそうね。これなら――強めに斬っても問題なさそうだわ」
剣撃の重みが倍ほどに増した。
一瞬たりとも気を抜いてはいなかったが、この変化はさすがに予想外。手足の骨にヒビが入ったが、なんとか受け流す。
「……グロリアっ!」
蓄積していたマナを取り込み、距離を取りながら大きく呼吸をした。
循環器系マナ回路は、肺の動きに大きな影響を受ける。幻獣達はこの特性を活かすための特殊な呼吸を用いて、魔法を使用する。人も幻獣達の呼吸を研究しており、訓練すれば誰でも使用できる魔法として世界中に広まっている。
僕が使用したのもその一つ。
「へえ、骨に入れたヒビを一瞬で治すなんて。幻体技の熟練度は予想以上よ。素直に褒めてあげる」
「グロリアと併用しないと、無理ですけどね……」
幻体技は、呼吸の魔法と呼ばれることがある。
呼吸が非常に重要な要素なので間違っていないが、本質ではない。幻体技とはそもそも、人の肉体を幻獣の領域に引き上げる技術。呼吸で魔法を使用することは、ドーピングを使うことと変わらない。
マナの変換効率も悪いので、グロリアがなければすぐに干上がってしまう。
「称賛を受け取るときは、素直になりなさい。ひねくれた謙遜なんて不愉快なだけよ」
「ひねくれじゃなくて、ただの、事実です!」
幻体技だけでなくグロリアの魔法も使用して、身体能力を底上げする。
姉上のように倍になる、なんてことはないけど、四割はアップした。姉上も、この上昇率は予想外だったのだろう。ほんのわずかであるが、間合いを詰める余地が出来た。
それを見逃さずに、三歩、前に進む。
「いいえ、ひねくれてるわっ!」
姉上の武器がただの槍や大剣であれば、三歩分、タイミングがズレただろう。
姉上が普通の武人であれば、間合いを保つために退いただろう。
だが、天墜は峰が全て柄。姉上は持ち手を滑らせるだけで、新たな間合いに対応してみせた。
「だって、私を相手に間合いを詰めるなんてのは、死線を越えるのと同義だもの。よっぽどの死にたがりか、死中に活を見出す覚悟を持ったバカ以外、実行できるのはいないわ。もちろん、セドリックは後者ね」
「そりゃ、死ぬ気なんてないです。なんせ姉上相手に距離なんて取ったら、速攻で死にますからね」
攻撃というものは、腕の力で行うものではない。
全身の筋力を使い、体重移動を利用し、さらには遠心力や重力までもを利用して、ようやく重い一撃が放たれる。
規格外の姉上であっても、それは変わらない。
(……天墜の重量と、怪力だけで充分重いですけどね!)
だが、致命的な一撃にまではならない。
たった三歩ではあるが、姉上から切っ先までの距離が短くなる。この距離が長ければ長いほど、切っ先は加速し、威力を高めていく。間合いの奪い合いとは、威力の奪い合いでもあるのだ。
「それが分かってても、並の精神なら怖くて近づけないものよ。視野が狭くなって、反応するのが難しくなるもの」
「……でも姉上って、予備動作丸わかりですよ」
「うっさいわね、別にいいのよ。さっきも言ったでしょ。一〇〇〇回振って当たらないなら、一万回振ればいいって」
さっきより増えてるじゃん。
でも、真理を付いてるのが困る。一発でも当たれば終わりって緊張感は、どんな達人であっても消耗させるもの。超攻撃的な戦い方にはそぐわないが、姉上の戦い方は相手のミスを待つのが基本なのだ。
「――けど、ギャラリーがいる中でこれは華がないわね」
何が、華がないだ。
嵐みたいな猛攻の時点で、充分すぎるほどの華だっての。
「一つ、技を見せてあげるわ」
姉上の起こす嵐が、止まった。
「技、ですか……この、鍔迫り合いの状態から?」
「ええ、そうよ。今日はクラーラ姉さまがいるから、殺しの技を使ってあげる」
――ズシンッ、と。身体が震えた。
「ゴフ……ッ!?」
何が起こったのか、理解できなかった。
骨が砕けたわけでも、強い打撃を受けたわけでもない。
それなのに、口から血を吐き出して、身体を地に沈めてしまった。手足を動かそうにも、なぜか微動だにしない。
頭がまともに動かない中、僕はグロリアの柄を握りしめた。