0021
先日遭遇したエビ泥棒さんの、
「ああ――――、エビの人!?」
という叫び声を聞いて、僕は思った。
(それはこっちのセリフだ!!)
と。
正直、叫びたかったさ。でも我慢した。
周囲には人の目があるし、ドロテアさんとの密約もある。貴族令嬢に怒鳴ってしまっては僕の評判が下がると同時に、隠しておきたい失態が表沙汰になるのだ。
無視すると決めて顔を上げると、ドロテアさんがエビ泥棒さんの肩をゆすっていた。
多分、お小言でも言っているんだろう。
僕にお小言を言うトリムと同じような感じだから、当たってると思う。
「空いてる席に座ろっか」
「相変わらずいい根性してるな」
そう言いながら、僕の隣に座るカーチェもいい性格していると思う。
数学の授業に必要な教科書と筆記具を並べてから、懐中時計で時間を確認。
(授業前に紹介されるのは無理か)
貴族同士の挨拶というのは、面倒くさいものだ。
特に複数の目がある場での挨拶は。
礼儀知らずのレッテルを貼られてしまえば侮られてしまうし、教育をしたであろう家の評判も下がってしまう。滅多にないことだが、脅せばどうにでもなると思われてしまったら、暗殺者だとか軍隊を送り込まれかねない。
今のエビ泥棒さんは少しばかり理性を失っている。
この状態で紹介をされれば僕が有利な状況に持っていけるけど、相手方の評判が地に落ちるかもしれない。寄子の面子を潰したとして寄親が出張ってくるかもしれない。
授業初日からそんな面倒ごとを抱えるだなんて、お互いにごめんなのだ。
「どういう設定になってんだ?」
カーチェが周りに聞こえないくらい、小さな声で問いかける。
「市場で僕に似た人間を見かけた。カーチェの隣に似た僕がいたから、僕に似た人を一緒に見てたお嬢様を紹介させてほしいって」
「何をやったんだ?」
「表沙汰にしたくない不幸な行き違いがあった。アンリ、ネリー、トリムの3人も関わって、お説教もされてる」
「了解。あたいからは何も言わないし、何もしない」
カーチェは言動こそ貴族らしくないけど、頭は良い。
成績がどうこうじゃなくて、ちゃんと考えてから行動できるって意味で頭が良い。
ハードルが低いじゃないかって思うかもしれないけど、理性的に行動できない人間って意外と多いんだ。自分の行動がどういう結果を生むかを考えるってことは、感情的になってるときほど難しい。
カーチェはそれが出来るのだ。
淑女らしくない話し方なのは、性根的な部分なので仕方ない。
貴族らしく、淑女らしく振舞わなければいけない場面では、取り繕えるから問題ないし。
「ありがとう」
お礼を伝えたところで、授業が始まった。
話は変わるけど、転生者が前世の記憶を使って優秀だ、天才だ、なんて言われる物語は数多い。確かに、識字率が低かったり、四則演算が当たり前でない世界なら、説得力があるエピソードだ。
でも、考えてみてほしい。
過去に機械文明を築くほどの技術が生まれ、全盛期には程遠くともある程度再現できるだけの知識と技術がある世界。そんな世界の支配層が、小学生レベルの知識で満足するだろうか?
答えは当然、否。
(数学なんて、何の役に立つんだよ……)
いや、知ってますよ。
数学がなければ、まともな橋がかからないことも、今使ってる万年筆みたいな精密な道具を作ることも、適切な在庫管理が出来ないことも、グラフを作って領地の状態を把握できないことも、ちゃんと知ってはいますよ。
でもね、言わせてください。
僕は上がってきた情報をチェックして、決断をすればいい立場の人間です。
概要をなんとなく理解できていれば、いいじゃないか!
(……って、現実逃避しても意味なんてないか)
この世界の知識レベルって、前世とあんまり変わんないんだよね。
一度でも、識字率が100%近くになったことがあるので、ほぼ全ての人間が教育の大切さを理解している。質の良い人材が多いことの利点を経験則としても知っている。だからね。この世界で知識無双をしようと思ったら、前世の日本で知識無双するレベルが必要になる。
ぶっちゃけ、無理ゲーです。
(特に図形の証明とか意味わかんないし。補助線ってどう引くのが正解なの? 方程式は暗記で点数だけは取れるけど、図形は例題から少しでも外れると意味分かんないし)
授業が終わるとすぐに、教科書とノートを端に寄せ、机に顔を載せた。
もしもここがマンガやアニメの中なら、プスプスと湯気が立ち上っているだろう。
「数学関連が苦手なのは、昔から変わらないな」
「計算はいいんだよ、計算は。でも理屈が分からない。証明なんてのは、学者がやればいいんだ。下にいる僕たちみたいのに必要なのは、正しい理論だって証明された事実だけでいいんだよ。大体さ、最先端の数学なんて、実践で利用できてないじゃないか。最新の魔法学で使われてる数学理論なんて、何百年も前に証明されたものだよ。神様の時代から数えて4つ目の文明期なんて言われてるけど、復興中なだけじゃないか。最盛期になるまでに、後何百年かかるんだって話だよ。数学で解決できるんなら、さっさと解決してほしいものだ」
「荒れるのは構わないけど、挨拶するんだろう? シャキッとしろ」
バシンッ、と、背中を叩かれる。
ヒリヒリと痛い。手形なんて残ってないだろうけど、ヒリヒリが手形の形をしている。
無視して寝たい欲求はあるけど、このまま無視すると頭を叩かれそうなので身体を起こす。
ちょうど、ドロテアさんがエビ泥棒さんの手を引いて、僕の席の近くにいた。僕は気付かない振りをして、カバンに教材をしまう。
「エルピネクト様、お時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
「構いませんよ、どうしました?」
その場で立ち上がったところで、ドロテアさんが僕に声をかける。
要件なんて明白だけど、とぼけておくのが無難だな。
「お昼にご相談をいたしました、私が仕えるお嬢様を紹介させていただきたく件です。授業が終わったばかりでお疲れとは思いますが」
「次の授業があるので、手短にお願いしますね」
「ありがとうございます。さ、お嬢様。ご挨拶を」
ドロテアさんにお嬢様と呼ばれた人は、間違いなくエビ泥棒さんだ。
雪のように白い肌に、金髪碧眼。顔立ちは整っているけど、緊張しているのか少し涙目になっている。普通なら美貌に陰りが出るだろうが、エビ泥棒さんは涙目の方が綺麗に見える。
きっと、Sっ気な殿方にモテるだろう。
「は、初めまして。オーブリー騎士爵家の長女、ユリーシア・オーブリーと申します」
「初めまして、ユリーシアさん。エルピネクト子爵家次期当主、セドリック・フォン・エルピネクトと申します。どうぞよろしくお願いします」
日本でなら握手でもするところだが、貴族社会では下手なことは出来ない。
下手をすれば、求婚していると取られかねないからだ。
「……その、オーブリー家とエルピネクト家は、家格も派閥も違いますが、仲良くできれば嬉しいのだわ……です」
「派閥を超えた繋がりは、僕にとっても嬉しいものです。公式の場では少々困りますが、私的な場では気楽にお話しいただければ幸いです」
実を言えば、オーブリー騎士爵家がどの派閥に所属しているかは知らない。
だからうちと派手に衝突した派閥に所属している可能性もあるけど、それはそれで構わない。派閥というのは、意見をまとめやすくするための集まりだ。
派閥内でも意見の対立は存在するし、派閥間抗争があっても一部では繋がりを保つもの。
あって困るものではないので、友好的になっておこう。
「セド様、そろそろ移動しないと次の授業に間に合わないぞ」
「あ、本当だ。ではユリーシアさん、ドロテアさん、また今度」
別にすぐに出ないと間に合わないわけじゃないけど、終わらせるきっかけになる。
教室を出てしばらく歩くと、後ろにいたカーチェが隣に並ぶ。
「ユーリはどうだった?」
「やけに緊張してたね。もしかして、立場が弱い子?」
「ドロテアに厳しく叱られたからだと思うぞ。近衛騎士を何人も輩出する武闘派の家系だけど、爵位は騎士だからな。下っ端もいいところだ」
「ドロテアさんは陪臣っぽいから、領地持ち?」
「王都近郊の村2つ。近衛を輩出しなきゃ借金するくらいカツカツだけど、王家から見れば譜代にあたる」
なるほど、だからエビ泥棒――もといユリーシアさんはマナ回路を持ってたのか。
王都近郊でマナ回路を持ってるのは、騎士や兵士、冒険者や魔法使いのような技能職に就く一部の人だけ。普通の貴族令嬢が持っているわけがないんだけど、近衛騎士を輩出するような家系なら別。
貴族令嬢にまでマナ回路を持たせるくらいの武闘派、という箔付けになるからだ。
「仲良いの?」
「んー、ドロテアよりは気楽に話せるかな」
カーチェが気楽ってことは、お転婆さんか。
もしくは、おなじ騎士爵の長女同士、シンパシーでも感じたのかも。
「じゃ、世間話する程度には繋がっとくか」
「そうだな。まだ慣れてないうちから、無理に繋がる必要も、離れる必要もないからな」
方針が決まったところで、カーチェと別れる。
別に嫌われているわけじゃない。王立学校の授業は選択式なので、次の授業が違うだけ。
そう、教室が違うから、カーチェについていくと間に合わないだけなのだ。
(さてと、まずは地図を探さないとな)
問題があるとすれば、今いる場所と次の教室がどこかを、カーチェに聞き忘れたくらい。
……一応、言っておくと。次の授業には間に合いました。遅刻ギリギリではありましたが、なんとか間に合いましたとも、ええ。