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金田一さんに聞いてみろ ―火蜥蜴は浮気を許さない―

作者: 国枝桜子

※作中に出てくる話には諸説あります。

 わたしが焼きたてのサンマと格闘していると、断りもなく向かいの席にすわる輩がいた。


 時代劇ならば「無礼者!」と切り捨て御免、遺体は魚のエサにでもくれてやるところだが、わたしは寛容な女なので許そう。できる女はささいなことなど気にしないし、唐揚げに添えられたレモンを勝手にかけたりする。


 そんなことより、今はいかに魚の骨をキレイに取れるかということのほうが重要だ。焼き魚を美しく食べることは、古来より魚食文化に支えられてきた日本国民の義務である。これができない人間は「お里が知れますわよ」とバカにされ、東京都への入国手形の発行を拒否されるのだ。



「なあ、コースケ」


「そのあだ名で呼ぶのはやめろと言っただろう、コゴロー」


「小五郎じゃない、五光(いずみ)だ。明智五光」


「読みづらいのだよ、その名前は。明智小五郎に明智光秀などと、そうそうたる面々にあやかるなんて、この贅沢者め」


「まあ、読みづらいことは否定しない。一発で当てたの、おまえくらいだしな」



 それは由々しき事態だ。


 名前とは他者を区別する記号である。名もなき群衆(モブ)は十把一絡げに捨て置かれるが、名前を知れば存在を認識できる。


 だからこそ変身ヒーローは聞かれてもいないのに戦隊名を叫び、考えうるかぎりの格好いいポーズを取る。名乗りの最中に攻撃をしないのは、武士の作法である。



「ところでコースケ」


二三香(ふみか)だ」


「じゃあ、二三香」


「金田一さんと呼べ」


「どっちだよ」



 たしかに名前とは呼ぶことに意義があるが、なれなれしい態度を許した覚えはない。


 こいつは大学の法律学の講義で一緒になったと思ったら、なにを思ったか急に距離をつめてきた。初対面の野良猫に「猫ちゃん、可愛いでちゅね~」と赤ちゃん言葉で近づいていく人間並みになれなれしい。


 残念ながら、わたしは猫ではないので、エサを与えられたところでほだされはしない。たとえ「ここの飲み代はおごってやるから」と言われたところで、揺らいだりはしないのだ。


 それはそれとして、いただけるものはいただいておくがな。おいしい酒と肴に罪はないのだ。



「さて、今日の本題だけどな」


「聞かんぞ」


「俺の知り合いの話だ。個人情報になるので、仮に太郎とする」


「聞かんか」



 まったくコイツの横暴ときたらいつものことで、ひょっとして本名は『明智』ではなく『剛田』なのではないかと疑っている。全国の『剛田』さんには一応、謝っておこう。すまんな。恨むなら有名すぎる例のガキ大将を恨んでくれ。同じく有名すぎる苗字を持つ者として、同情はする。



「太郎には妻の花子という女がいたんだが、つい先日、その彼女が懐妊したんだ」


「ほう、おめでとう」


「ふつうならな。ところが、だ。今になって、太郎がごねだした」


「ごねる? なぜだ」



 いい年した大人が駄々をこねるなど、情けない。わたしなど、最近では教授が持っていた絶版ものの学術書を読ませてほしいと無理を通したことくらいの覚えしかない。読ませてくれないと床を転げ回って泣き喚いてしまいそうだと紳士的に訴えたら、快く貸し出してくれた。


 いや、わたしは紳士ではなく淑女だが、とにかくそういうことだ。昔から“涙は女の武器”と言われているのだから、これは立派な淑女的対応である。



「なぜかって、つまり……その子が本当に自分の子供かどうか信じられない、出産した後にDNA鑑定をしなければ金は出さない、ってことだそうだ」


「子供ができるだけの心当たりがなかったのか?」


「いや、子づくりはしていたらしいぞ」


「では、妻が浮気をしている気配があったとか?」


「それもない」


「わけがわからん。その状況で、いったいなぜDNA鑑定などと突飛もない話を持ち出すんだ?」


「どうやら、世の中には浮気相手の子供を夫の子だと偽って育てさせる女がいるので、自分の妻がそうじゃないかどうか確かめたい、ということらしいぞ」


「ははあ。それはまた暴論だな」


「ところが、太郎にとってはそうじゃない。後ろ暗いことがなければ調べられても文句はないはず、抵抗するのは心当たりがあるからだ、とな」


「しかし、それでは妻は怒ったろう?」


「ああ。怒って実家に帰ったらしいぞ。だが、それでますますつけ上がった太郎は、逃げるのは浮気の証拠だと声高に主張している」



 なんと不愉快な輩なんだ、太郎。食べ方が汚い人間並みに不快だ。わたしは音嫌悪症(ミソフォニア)ではないが、クチャクチャ音を立てながら咀嚼する人間が大嫌いなのだ。ちなみに明智は食べ方がキレイなので、かろうじて目の前で食事をすることを許してやっている。


 太郎のような男は、人生を桃からやり直し、熊と相撲を取って竜宮城にでも行ってしまえばいい。


 ……いや、やはり竜宮城は無しだ。行けるものならわたしが行ってみたい。自慢じゃないが、殺される猫などより、よほど好奇心が強いと自負している。



「それで、おまえから忌憚(きたん)のない意見がほしくてな」


「なぜわたしを頼る……」



 この男はわたしをご意見番かなにかと勘違いしているのではなかろうか。べつに天下人に忠言するつもりも、芸能界に入ったつもりもないのだが。


 無視しようかとも思ったが、グラスが空になりかけたタイミングで明智が「すみません、生ひとつ追加で」と店員に声をかけたので、機を逸してしまった。


 まあ、今はアルコールが入って機嫌がいいからな。少しくらい付き合ってやるとしよう。


 ヤマタノオロチや酒呑童子に負けないくらい、わたしも酒が好きだ。八塩折酒(やしおりのさけ)だろうと神便鬼毒酒(じんべんきどくしゆ)だろうと喜んで飲み干してやる。わたしは鬼ではないので神通力など失わず、むしろ力を得られるはずなのだ。


 ううむ、考えていたら日本酒が飲みたくなってきたので、次は大吟醸を頼んでやろう。どうせヤツのおごりだしな。日本人たるもの、血潮は日本酒でできていてしかるべきだ。



「で、どう思う?」


「疑われて不快になるのは、なにも妊婦に限った話じゃないだろう」


「へえ?」



 わたしが反論すると、目の前の男はニヤリと笑った。


 こいつの狙いに乗るのは癪だが、仕方ない。人生もいい女も諦めが肝心だ。



「ところで、先日の話だが。唐突に思い立って、わたしはアブラコウモリを観に行った」


「は?」



 明智は、まるで突如乱入した鹿に、横合いから餌を奪われた猫のように呆然としている。


 この程度の閑話についていけないとは、にぶいやつめ。タツノオトシゴか、キミは。……ああ、これは決してけなしているわけではない。タツノオトシゴは世界各地で『神の使い』やら『ポセイドンの戦車を引く馬』やらと言われているからな。日本でも『竜の落とし子』やら『竜宮の(こま)』などと呼ばれているくらいだ。


 ……おっと、竜宮太郎の話だったか。では、続けよう。



「アブラコウモリだ。知らないか? 日本に生息する中では唯一の住家性、すなわち家屋をすみかとするコウモリだ」


「いや、そんなことを聞いてるんじゃない」


「そうか。とにかく、観察の仕方は簡単だ。夕暮れの時に、黒いハンカチをくくりつけた長い竿をバサバサと振るんだ。二階建てのベランダ付近がいい。コウモリがうじゃうじゃと集まってくるぞ」


「やめろ。やめろ」



 明智が執拗に腕をさすっている。


 はて、空調は悪くないはずだが。お互いに酒が入っているので、むしろ熱いくらいだ。



「つか、なんでコウモリなんて観察しようと思ったんだよ。気持ち悪いだろ」


「キミ、それは偏見というものだよ。おおかた、悪魔的象徴というイメージに踊らされているんだろう。この西洋かぶれめ」


「なんでそうなるんだよ」


「あのな、今でこそコウモリは邪悪で卑怯者のイメージがついているが、東洋では幸運の象徴だったんだぞ」


「そうなのか?」



 どうやら明智はコウモリのありがたみを知らないらしい。


 まったく、無礼なやつめ。たしかにコウモリの糞尿被害には害獣としての要素があるが、反面、蚊や羽虫を食べてくれるという益獣としての側面もあるのだ。


 こうなったら哺乳類を代表し、わたしが彼らの名誉回復をはかろうではないか。



「西洋文化が入ってくる前は、福を呼ぶ動物として大切にされてきたんだ。ほら、コウモリは漢字で『蝙蝠』と書くだろう? 中国では『変福』、つまり“福に変わる”と発音が似ているから、縁起物なんだ。風水なんかでも富の象徴で、家にコウモリが巣を作ると、それは幸運がやってくる前ぶれとされている」


「ああ、中国ってそういう縁起物が好きだよな」


「これは日本もだぞ。昔から『幸盛り』や『幸守り』といった当て字を使って、幸せのシンボルとしてきたんだ。ほかにも、アイヌに伝わる昔話にはコウモリを救い主として崇めるものがあるし、沖縄の八重山に住む人々は、自らをコウモリの子孫と称していたそうだ」


「へえ、知らなかった。コウモリっていったらドラキュラとか、あんまりいいイメージないし」


「そういうのは、日本に布教にきたキリスト教の宣教師らが持ちこんだことで広まった概念だな」


「ほうほう。……で? それとこれとなんの関係があるんだよ」


「まあ、待て。ここからだ」



 わたしはほぐしておいたサンマの身を口に放りこむと、運ばれてきたビールで流しこんだ。


 これから長い話になる。英気を養っておかねば。



「話を戻そう。……とにかくわたしは、コウモリを観察するために、住宅地を回っていた。アブラコウモリは別名『イエコウモリ』というくらい、ほぼ人家にいるからな」


「はあ。それで?」


「だがなぁ、途中で職質されてしまったんだよ。おかげでろくに観察できなかった。日が沈んだら森林公園に寄って、ムササビを観てから帰ろうと思っていたのに」


「そりゃそうだろ。誰だって住宅地でそんな奇行をしている女を見たら、不審者だと思うわ」


「いや、呼び止められたのは竿を振ってる時じゃない。自転車で目的地に向かっている時だ」



 あの時のことを思うと、今でも腹立たしい。こんなに怒ったのは、子供のころに博物館へ行こうと連れられた場所が、実は病院だったと気づいたとき以来だ。



「警官ふたりに呼び止められてな。『ふたり乗りは危険だから、やめなさい』と言われた」


「あ? 誰と一緒だったんだよ。……男か?」


「いや、ひとりだ」


「は?」


「だから、ひとりだ。間違いなくひとりで自転車をこいでいたはずだったんだ。そう伝えたら、警官ふたりは顔を見合わせて、真っ青な顔してどこかへ行ってしまったよ。ひどい話だと思わないか?」


「怖ッ! え、なに? ホラーなの?」


「わたしに霊感はないからな。そっちのほうはサッパリだ。おかげでしばらくの間、背後になにかがいるんじゃないかと気になって仕方なかったぞ。人を落ち着かなくさせておいて自分は言い逃げだなんて、失礼な話だと思わないか?」


「失礼とか、そういう問題じゃない気がするけどな」



 この顔は見たことがある。そう、あれだ。チベットスナギツネに似ているな。ふだんはなかなかの男前なのに、そんな顔もできたのか。新たな発見だ。


 そう感心してみせたら、今度は砂だらけのアサリを噛みしめた時のような顔をされた。なぜだ。



「とにかく、だ。こちらは何も悪いことをしていないのに、理由なく疑われたら、不愉快なのは誰だって同じだろうと言っているんだ」


「最初からそう言えよ、回りくどい……」



 明智がため息をついて机に突っ伏す。……行儀が悪いな、まったく。


 髪にタレがつかないよう、さりげなく皿をよけてやる。



「けどまあ、たしかにな。急いでるのに引き留めてきて、散々こっちを疑ったあげく、なにもないとわかったとたん『今度からは疑われるようなことはしないでね』とか言って、一言の謝罪もなしだったりすると、スゲーイラつくよな」


「ずいぶんと実感のこもった言い方だが……まあ、そのとおりだ。とはいえ、職質はあくまで彼らの仕事であるし、犯罪防止という目的もあるだろう。だが、件のDNA鑑定とやらで得られるのは、あくまで太郎の安心感だ。しかも警官が相手の時とは違い、夫婦はその後も付き合っていかねばならない。理由なく疑われて不愉快なのはどちらも同じだが、その後の影響力はまるで違う」


「まあ、そうだな。女からすれば、浮気をしそうな人間だと言われたようなものだしなぁ」


「疑うにしても、その理由が『女は裏切ることができるから』じゃ弱い。主語が大きいと反発も生みやすいからな。逆の立場で考えると、『男は性犯罪を起こしがちなので、あなたがそうでないか調べさせてくれ』などと言われるようなものだ。とうぜん、心ある男性からすれば不快だし、『性犯罪を犯すかもしれないと疑うような相手と、なぜ結婚したんだ』という話になる。女が性犯罪を犯さないという保証もないしな。こうなってくると、もう性差別の問題に発展してしまう。探られて痛い腹はなくとも、禍根は残る」


「結婚生活を続けていくつもりなら、絶対に口に出してはいけない言葉があるってことだな」


「そうだ。これはようするに、人としての尊厳を踏みにじられたに等しいことだからな。性別という、自分自身ではどうしようもないことを理由とされたのだから。そもそも、こういう話題は、相手を見下すことで優位に立とうとする心理から生まれるものだ。正当性などあるわけがない」


「へえ、そうか? けどさ、生まれてくる子供のDNA鑑定を義務化すれば、たしかに太郎の言うような問題は起こらないのは事実じゃないか?」


「なんだそれは?」


「花子が実家に帰った後、太郎がそうやってクダを巻いてる」



 こいつは時折こうやって、思ってもいないことをわざと口にして、わたしの反応を楽しんでいるふしがある。今だって、みじんも信じていないような顔をしながら、じっとこちらの様子をうかがっているのだから始末に負えない。


 それに付き合ってやるわたしもたいがいお人好しだな。世界お人好し選手権が開催されたら、グリム童話の『星の銀貨』に出てくる貧しい少女に続いてわたしがランクインするに違いない。


 ……いや、それはさすがに言いすぎだが、ともかくわたしは大人なので、煽ってくる相手にも努めて冷静に対応してやるのだ。



「全国民のDNA鑑定など、現実的じゃないな」


「そりゃまた、どうして? 犯罪防止にも役立つんじゃないか?」


「理由はいくつかあるが。まず第一に、金がかかりすぎる。実際に施行するなら、国民の税金で賄われるだろう。そんなことに税金を使うくらいなら、もっと他にやることがあるだろうと反発は必至だ」


「まー、それもそうか」


「ところで明智は、マイナンバー制度が導入された時、なにか懸念はなかったか? こんなことが心配だ、という」


「どうってそりゃ、紛失の可能性とか、情報漏えいの危険性とか……ああ、そうか」


「そうだ。DNAとは最大のプライバシーだからな。これひとつで将来的な病気のリスク、体質、身体能力、学習能力、薄毛や肥満のリスク――さまざまな情報が得られる。では、こんな重要な情報を、いったいどこが管理する? 人間が管理する以上、絶対に安全である保証などどこにもないぞ」


「DNAを調べられて、将来的にハゲるやつとか、デブるやつとかは、そもそも結婚市場で不利になりそうだな」


「それもそうだが、こういった情報を一番ほしがるのは保険会社だろうな。次いで企業。大病をするリスクのある人間は保険金が高くなったり、そもそも保険に入れなかったりする。加えて能力の低い人間は、就職で不利だろうな。そうなれば、これはもう重大な差別問題だぞ。生まれつき身体が弱かったり、将来性がないと判断された人間は、どんなに努力したところで圧倒的な苦境に立たされるのだからな。中には、将来なりたい職業と、自分に向いている職業が違ってしまうこともあるだろう。そうなれば国民は夢を失い、無気力になり、最終的には国力が低下する。デメリットは山とあるが、メリットは少ない」


「おれはもっと、DNAをコピーする技術が生まれて、赤の他人のDNAを現場に残すことで完全犯罪を成立させる――とか、そういうのを想像してたよ」


「夢のある話だな。ミステリーのトリックに使えそうじゃないか」


「バカミスだけどな」



 明智は少年のような屈託さで笑って、残りの生中を一気飲みした。


 気持ちのいい飲みっぷりだ。なんとなく、オアシスで水を飲むラクダを連想してしまう。ラクダはまつ毛が長いが、彼も煙るようなまつ毛の持ち主なので、まあ似たようなものだろう。同じ哺乳類だしな。



「こういった理屈を持ち出すのは、相手を言い負かして優位に立ちたいという願望の表れなんだろうがな。机上の空論でしかないし、結局は自分を含めた国民すべてが苦しくなるだけだ。太郎にだって、他人事じゃないはずなんだがな」


「そこまで考えが及んでいないんじゃないか?」


「実際にそうなることはないと、どこかでわかっているからかもしれない。その場で言い負かしてやりさえすればいいから、本当にそうなったらどうなるのか、具体的なことは考えなくていいんだろう」


「かもな」



 サンマを食べ終えて顔を上げると、明智が焼き鳥を口に運んでいるところだった。タレの香ばしい匂いがするネギマだ。


 いいな、それ。わたしも頼むとしようか。


 すると心の声が伝わったのか、明智が皿を差し出してきた。気がきくじゃないか。コイツはレバーが苦手なくせして、わたしがレバー好きだからとわざわざ頼んでくれたらしい。皿の隅にあるレバー串を取り上げて、にっこりと笑いかけてやる。親切には笑顔で対応するのが、淑女の嗜みというものだ。


 ところで明智、少し飲み過ぎではなかろうか。顔が真っ赤だぞ。わたしが介抱するハメになるのだから、しっかりしてくれ。



「しかし、すっかり酔っ払いの会話だな。まるでマルーラの実を食べた猿だ」


「なんだそれ」


「南アフリカの植物だ。食べると胃の中で急速に発酵し、アルコールに変わる。生殖活動を活発にする作用があることから、『結婚の木(メアリーツリー)』とも呼ばれている。幸福をもたらす神聖な木だそうだ」


「結婚ねぇ……」



 明智はちらりとこちらを見ると、深くため息をついた。


 なんなんだ、いったい。


 ……まあ、こいつに見られるのは悪くない気分だ。瞳が美しいからな。


 黒く艶やかな髪を『緑の黒髪』というが、彼はまさに『緑の瞳』といったところか。髪は黒というより栗毛に近いがな。


 ちなみに古来の『緑』とは若芽や新芽という意味で、緑色とは異なる。つまり緑の黒髪とは新芽のようにつやつやとしている、という意味なわけだが、まあそれはそれとして。


 わたしが心の中で、この素晴らしい『緑の瞳』を褒めたたえていると、やつはマヌルネコのようにふてくされた顔をした。



「……太郎はなんだって、こんなこと言い出したんだろうな。一度は永遠を誓った仲だろうに」


「そうだな。まだそこの謎が解けていなかった」



 理由なく豹変するとは考えづらい。なにかきっかけがあったと考えるのが自然だ。



「太郎が豹変した理由はわからんが、ヒトが浮気や不倫を嫌う理由については持論があるぞ」


「なんだ?」


「おしどり夫婦、という言葉は知っているだろう?」


「仲むつまじい夫婦を指す言葉だろ。そのくらい、さすがにわかる」


「だろうな。だが、実のところオシドリは毎年パートナーを変える一夫多妻の鳥だ」


「ああ、それも聞いたことあるな。実際に寄りそってるのは卵を産むまでで、子育てを手伝うどころか、他のメスとよろしくやってるんだろ?」


「ああ。夫婦でいるのは交尾の時期だけで、抱卵期になると別れる。オスがメスにくっついているのは、他のオスに奪われないためだな」


「そう考えると、けっこう軽薄だよなー。見た目も派手だし」


「そうだな。オシドリのオスは日本一カラフルな鳥だと言われている。が、オスがメスより派手なのは、なにもオシドリに限った話ではないぞ。一夫多妻の鳥はだいたいそうだ。より派手で美しいオスほどメスに選ばれやすい」


「そう考えると、メスはメンクイなわけだ」


「当然だ。見た目の良し悪しは子供にも遺伝するからな。だが、派手であるということは、天敵に狙われやすいということだ。実際、地味な見た目のメスのほうが寿命は長い」


「なるほどな。……それで?」


「うむ。オシドリは一夫多妻だが、逆に一夫一妻の生き物がいる。我々の祖先、ホモ・サピエンスだ」


「おお、ようやく繋がってきたか」



 よくよく話の途中で茶々を入れるやつだ。とはいえ、いちいち相手にしていると先に進まないので、今回は無視することにする。真の強者はささいなことなど気にしないのだ。



「明智、ヒトとチンパンジーの違いはどこだと思う?」


「え? 知能?」


「ほかに」


「大きさ」


「あとは?」


「牙があるかどうか」


「そうだ。チンパンジーには牙があるが、ヒトにはない。これは一夫一妻制をとったことで、メスをめぐって争う必要がなくなったからだ。オスが家族のために食物を集めてくることで、妻や子供は生存に有利になる。進化においては、より優れた者ではなく、より子孫を残せた者が勝ち残るんだ」


「つまり、そうやって淘汰された結果、一夫多妻のヒトは滅び、一夫一妻のヒトが生き残ったってことか」


「そうだ。『男の浮気は本能だ』という有名な言い訳があるが、これは進化の過程を見ても誤りだ。確かに魚類のような下等生物には種子をばら撒く本能が備わっている。何千何万とばら撒いて、最終的に一匹でも生き残ればいいという生存戦略だな。だが、ヒトのような高等生物は“生涯の伴侶”を作る。つまり、浮気は進化の逆行なんだ。“本能”とは本来、“生存戦略”のことだろう。ヒトが生存のために一夫一妻を選んだのであれば、浮気が本能という説は成り立たない。単に欲望のおもむくままに行動した結果だ」


「なるほどなぁ。逆に言えば、ヒトが浮気者を嫌うのは、子孫繁栄の妨げになるからってことか」


「そうだな。それこそ、浮気をする人間の遺伝子を残さないように、というヒトの本能かもしれない」


「はー、ようやく結論が出たよ」



 だから、茶化すなというに。



「けど、これじゃなんの解決にもならないよなぁ。けっきょく、問題の根本的解決には繋がってないしさ」


「また聞きでは限界があるからな。しょせん、太郎本人でなければ、本当の原因などわかるはずがない。我々にできるのは、せいぜい推察くらいだ」


「じゃ、推察でいい。二三香、おまえはなぜ太郎がこんなことを言い始めたと思う?」


「金田一さんだ。……最も可能性があるのは、周囲の影響だろう」


「友人とか、会社の人間とか?」


「そうだな。あとはインターネットなどで、妙な思想に染まったりだとかな」


「ネット右翼ってやつだな」


「だが、これは特定が難しい。太郎の交友関係をすべてさらうわけにはいかないし、インターネットの閲覧履歴を調べるのも、状況的に困難だろう」


「だよなぁ」



 このていどの推察なら誰でもできる。おそらく花子も思いいたっただろう。


 だが、解決にはいたっていない。たとえ原因がわかったところで、本人が改心しなければどうしようもないからだ。


 とかく男女の関係は複雑怪奇だ。フェルマーの最終定理を証明するほうが、よほど簡単であるようにも思える。……まあ、実際に証明するのはアンドリュー・ワイルズ氏に任せるがな。



「そもそも、太郎はいつからこんなことを言い出したんだ? まさか、元からというわけではないだろう?」


「変わっていったのは、結婚直後だって聞いたけどな。急に束縛が激しくなったとかで」



 交際中は猫をかぶっていた相手が、結婚したとたんに豹変するのはよくある話だ。


 獲物を手に入れたと思って安心し、それまでの努力を怠るのだろう。“釣った魚に餌はやらぬ”というやつだ。もしくは、もう相手が逃げられないと確信して本性をさらすのか。


 どちらにしろ、こういう人間は交際中にはなかなかボロを出さないので厄介だ。



「ということは、結婚前は違ったのだね」


「ああ。むしろラインに既読がつくのは遅いし、返信が遅れても文句は言わないし、べったりされるのは嫌いなタイプだったそうだ」


「それはまた、極端な話だな。では、奥さんの交友関係で不安があった可能性はないか? たとえば、男友達が多いとか、会社で仲のいい男性社員がいるとか」


「いや、それはないんじゃないか? 花子は結婚前から太郎の家族と付き合いがあって、太郎が地方の営業所で働いていたころは、彼女が代わりに彼の両親の面倒を見ていたらしい。そんな状況で、親しい男を作るのは難しいんじゃないか」


「面倒? 介護が必要なのか?」


「ああ。といっても、外出が困難なくらいで、身の回りのことはできるらしいけどな。父親は肺が悪く、母親は足が悪いらしい。だから地方転勤の話が出たときに、当時付き合っていた彼女に面倒を頼んだとかで」


「しかし、いずれ義両親になる予定の相手とはいえ、まだ交際中のカップルだろうに。ふつう、介護までするものか? 破局したら修羅場どころじゃないだろう」


「そこなんだよな。太郎と花子は幼なじみで、昔から交流があったよしみで、ってことだそうだが」


「だが、自ら言い出したこととはいえ、それでは外堀を埋められているようなものじゃないか? 太郎にとっては、絶対に責任をとらなければならないというプレッシャーがかかったも同然だろう」


「それなんだよ。結婚前に一度、大きな喧嘩をしたらしくてな。揉めているときに、太郎の母親が花子の肩を持って、息子をたしなめたらしい。それからは、今回のことがあるまで、仲良くやってたらしいんだけどさ」


「……それは、不満があっても封殺されてきたということじゃないか?」


「かもな」



 表面上は仲良さそうに見えても、水面下では不満が溜まっていたのかもしれない。それが今回の騒動に繋がったのか。


 いずれも推測に過ぎないが。



「ちなみに、喧嘩の内容はわかるか?」


「ああ。太郎が当時人気だったドラマの主演女優を褒めて、花子と比較するような発言をしたそうだ。それが彼女を腐すような内容だったから、太郎の母親が叱りつけたらしいぞ」


「それは、そうなるだろうな」



 面倒を見てもらっている立場ゆえかもしれないが、まともな親ならば息子の失言をたしなめるだろう。


 もしそこで息子の肩を持っていたら、嫁と姑の関係は悪くなっていたに違いない。



「明智、太郎と花子の写真はないか?」


「写真? なんでだよ」


「気になることがある」


「……まあ、仕方ないか。ちょっと送ってもらえるか聞いてみるから待ってろ。けど、俺が見せたってこと、誰にも言うなよ。プライバシーだからな」


「わかっているさ」



 仮名まで使って匿名性を維持したかったのだろうが、ここまでこっちを巻きこんだのだから、そのくらいの融通はきかせてほしいというものだ。


 明智はスマートフォンを操作して、誰かに連絡をとった。おそらく、今回の依頼主だな。


 相手から返事がくるのを、鳥の唐揚げをつまみながら待つ。もちろん、本当に添え物のレモンを勝手にかけるような真似はしない。あれは『いい女』を演出しようとして失敗する人間に例えた冗談だ。


 まあ、わたしは勝手にかけられても気にするタイプではないが、明智は気にするからな。こいつは一度懐に入れた人間には甘いが、それ以外には無意識に一線を引くきらいがある。


 わたしが遠慮していることに気づいた明智が、「レモン、かけていいぞ」と声をかけてきた。



「レモンかける派だったろ」


「だが、キミは気にするだろう」


「おまえなら構わない」



 どうやら、わたしは彼の懐に入ることを許されたらしい。


 ……うん、これは、想像以上に嬉しいな。


 正直なところ、わたしはあまり友人が多いほうではないので、こうやって真っ直ぐに友愛をぶつけられるとくすぐったいような、まぶしいような、不思議な感じだ。


 その時、タイミングよくバイブレーションの音がして、明智の意識がそれた。


 助かった。あのままでは、にやけた口元を見られてしまうところだったから。



「きたぜ。ちょっと待ってろ」



 明智が何度かスマートフォンをタップする。


 ほら、と見せられた画面には、正方形に近い画像の中央で寄りそう男女のカップルと、その両親らしき二組の夫婦が写っていた。



「ふむ。こうして見ると、ごくふつうのカップルだな」


「だろ?」



 女のほうは集団でいても人目を集めそうな、ちょっといないような美人だ。ブラウンの長い髪と、同じく長いまつ毛の持ち主である。どことなく、キリンに似ているな。


 一方の男は、なんとなく派手な印象だ。顔立ちは地味だが、髪色は明るいし、肌は黒く焼けている。根元のほうは黒いので、これは脱色(ブリーチ)しているのだろう。いわゆるプリン髪というやつだな。見ていたら甘味がほしくなってきたので、後で頼むとしよう。



「太郎は南国にでも行ってきたのか? ずいぶん焼けてるじゃないか」


「出張先が南のほうだったからな。おかげでサーフィンが趣味になったって言ってたし」


「だからか。見事な日焼けあとだ」



 スーツを着ているのでわかりにくいが、指輪や時計のあとがくっきり見てとれる。おそらくスーツの下には水着のあとも残っているだろう。


 海遊びといえばもっぱら砂浜でフィールドサインを探したり、水中で生き物を観察したりといったわたしからすれば、波遊びが楽しいといわれてもピンとこないが、まあ世の中にはそういう人種もいるのだろう。



「花子の両親は国際結婚か? どちらも色素が薄いようだが」


「いや、どっちも純日本人だよ。母は地毛が明るいせいで、昔から染めてるんじゃないかと疑われるのがコンプレックスだったんだと。そのうち自分より色素の薄い父に出会って、それで意気投合したんだそうだ」


「ああ、たしかに父親は瞳まで色が薄いな」


「東北のほうでは、こういったブルーやグリーンの目を持つ人間がいるらしいぜ。九州のほうじゃヘーゼルの目もいるとか」


「ほう、興味深いな。日本人のルーツを知るきっかけになるやもしれん」



 人類の祖先はアフリカにいたとされている。有名なのは『ミトコンドリア・イブ』だな。


 ミトコンドリアDNAは母親から子供に受け継がれる。したがってミトコンドリアを調べれば、母系遺伝子の系図をたどれるというわけだ。こうして現存する人類の母系をさかのぼっていった結果、とあるアフリカ人女性に行き当たった。これが『ミトコンドリア・イブ』だ。


 ちなみに、『Y染色体アダム』という男系祖先もいて、こちらもアフリカの男性にたどりつくらしい。まあ、こっちはまだ新しい研究分野で、さらなる研究の余地がありそうだが。



「日本人の中でも沖縄、九州地区と東北、北海道地区のほうが、より縄文人の遺伝子残存率が高いらしいぞ。瞳の色が違うというのも、このあたりに関係しそうな話じゃないか」


「ってことは、縄文人の目は青とか緑とかだったかもしれないってことか?」


「最近復元された縄文人の女性は明るい茶色の瞳だったそうだぞ。これまでの定説では黒い瞳だと言われていたそうだから、予想より色素が薄かったということだな」


「ってことは、ヘーゼル色くらいになら変化していってもおかしくなさそうだな」


「さらにメラニンが少なくなれば青や緑になる可能性もありそうだが、そのあたりはまだ判然としないな。中には縄文人が青い瞳だったと主張する研究者もいるそうだから、薄茶だけじゃなかったかもしれないが」


「今後、青い目の縄文人とかが出てきたら面白そうだな」


「そうだな。もしくは、最古の日本人は縄文人ではなく別の種だそうから、そっちの血筋かもしれない。旧石器時代には縄文人がやってくる以前の古代人がいたそうだ」


「へえ。聞いたことないな」


「まあ、そちらは人骨などの資料が少ないせいで、研究が進んでいないのが現状だ。今後の結果に期待だな」



 はてさて、またしても話が脱線してしまった。こいつが聞き上手だからか、つい話しこんでしまうな。いかんいかん。


 スマートフォンの画面をスライドして、次の画像を表示する。


 ふむ、これは出張中の写真だろうか。海を背景にして、太郎がサーフボード片手に、左手でピースサインをしている。


 よし、きちんと手のひらをこちら側に向けているな。


 よくタレントや若い女性などのあいだで、手のひらを内側に向けたピースサインをアゴにあてている者がいるが、あれはヨーロッパなどの多くの地域で侮辱や卑猥な行為を意味するサインなので、トラブルの元だ。ようは中指を立てるのと同じ意味なのだ。その状態で舌まで出そうものなら最悪である。


 どうやらVサインでフェイスラインを隠すことで小顔に見える効果があるとのことだが、美しく見えるどころか非常に下品だと思われかねないので、避けたほうが無難だろう。


 ギリシャではピースサインそのものが侮蔑の意味だが、こちらは特殊な例だな。なんでも、かつて犯罪者に向かって二本指で物を投げつける習慣があったとかで。



「海でも指輪は外さないんだな。傷がつくだろうに」


「ああ。義両親の介護をする代わりに、虫よけってことで婚約指輪を外さないのが条件だったんだと」


「そうか」



 ほかの写真も見てみるが、たしかにどれも左手の薬指に指輪をしている。律儀なことだ。


 まあ、貞節を強いるのは人間に限った話ではない。


 セアカサラマンダーは浮気したパートナーを怒って攻撃するというし、クロコンドルなどはパートナー以外との交尾が露見してしまうと、パートナーだけでなく他の仲間からも嫌がらせを受けるそうだからな。


 恐ろしき監視社会だが、これはなにも人間のように道徳観からきているわけではない。たんにオスとメスの割合がほぼ同じであるため、浮気をする個体が現れると、あぶれてペアになれないものが現れてしまうためだ。


 とはいえ、クロコンドルがホモ・サピエンスのように、メスをめぐった闘争を排するために一夫一妻制をとったことには変わりない。実際、ほかのコンドルが絶滅の危機に瀕する中、クロコンドルは数を増やしているというのだから、社会が浮気を防ぐのは子孫繫栄の観点からも正しいと言えよう。


 よく「少子高齢化を防ぐために、一夫多妻制を導入しよう!」と声高に主張する輩がいるが、これらを鑑みても一笑に付すしかない。かえって少子化を加速させる原因になりかねないし、結局のところ、浮気を肯定したい人間の妄言にすぎないというわけだな。


 だいたい、先進国の中で一夫多妻制を導入している国がどれほどいるかと考えれば、国力を衰退させる原因になりかねないと理解できそうなものだが。実際に導入している国でも、経済的な問題から、ふたり以上の妻を抱えている人間はごく一部しかいないというしな。一夫多妻制とは複数の家庭を責任もって支えていくということであって、無責任に種をばらまくことではないのだ。



「……ああ、そうか」


「どうした?」


「もうひとつあったな。太郎が豹変した原因の推察」


「なんだ?」


「――太郎自身が浮気している可能性だ」



 できるかぎり淡々と聞こえるように気をつけて言うと、明智は小さく息をのんだ。



「……と、言うと?」



 あまり動揺していないところを見るに、こいつ最初から薄々気づいていたな。


 まあいい。わたしはわたしの考えを述べるまでだ。



「自分が後ろ暗いことをしているから、ひょっとしてパートナーも同じように裏切っているのではないか、と疑心暗鬼になるパターンだな」


「証拠でもあるのか?」


「明確な証拠はないが、そう思いいたった理由ならばあるぞ。まず、交際中は連絡の頻度が少なかったという点だが。遠距離恋愛で本当にうまくいっているカップルならば、むしろ距離の差を埋めようと、それなりに連絡を取り合う努力をするものじゃないか? 仕事が忙しい相手ならまだしも、太郎は休日にサーフィンに行くほどには余裕があるのだろう。ならば花子への関心が薄くなっていたか、煩わしくなっていた可能性はじゅうぶんある」


「だが、それだけでは弱いな」


「そうだな。あとは、交際中に大喧嘩をしたという話だが。相手を腐す発言をしたという点も、花子から心が離れていたのが原因かもしれない。花子には両親の面倒を見てもらっている立場で、別れようにも別れられないだろう。そこで、わざと相手を怒らせて、向こうから交際解消を切り出してもらいたかったのかもしれない」


「なるほどな。けど、しょせん推測の域を出ないな」


「だから、最初から推察しかできないと言っただろう。……まあ、理由はもうひとつあるが」


「まだあるのか?」



 ここで初めて、明智が驚いた顔をした。ワオキツネザルのような、みごとに丸い瞳だ。……これは別に『ワオキツネザル』と『WOW』をかけたわけではないので、勘違いしないでほしい。



「これだ。サーフボード片手にピースしている、この写真。指輪をはめているだろう?」


「……それが?」


「気づかないか? こちらに向かってまっすぐピースサインをしていたら、ふつう、薬指にはめている指輪は見えないだろう」


「あっ?」



 明智は写真をまじまじと覗きこむと、「……本当だ」とつぶやいた。


 太郎の指には、きちんと指輪がはまっている。ただし、中指に(﹅﹅﹅)だ。だからピースサインをしていても、こちらに指輪が見えていた。



「もうひとつおかしいのは、最初に見た家族写真だ」


「これが?」


「よく見ろ。指輪のあとが残っているだろう」


「……ああ、本当だ」



 決して結婚指輪をはずさないと約束した太郎は、ここでもとうぜん指輪をはめている。だが、はめたままの状態ならば、指輪の日焼けあとなど見えるはずがない。


 わたしが指輪のあとに気づけたのは、薬指とは別の指に(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)あとが残っていた(﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅)からだ。



「せっかくの婚約指輪を、わざわざ別の指にはめ変える必要はなんだ? 海で失くさないためなら、他の指に変えただけでは意味がない。……婚約者がいることを隠しておきたかったんじゃないか」



 他の写真はすべて薬指にはめているが、あの一枚だけは中指に指輪をはめている。おそらく、写真を撮る時だけ、わざとはめ変えていたのだろう。きちんと言いつけを守っているというアピールのために。


 でなければ、日焼けあとが残るほど長時間、中指に指輪をつけておく理由がない。



「遠距離恋愛や単身赴任では、バレにくいことや別れるのが容易なことから、浮気しやすい傾向にあるからな。『会社の都合で転勤することになったから、これ以上関係を続けていく自信がない』とでも言えば、自然と別れを演出できる。それに、遠くにいる恋人には、いざという時に甘えることができないからな。身近にいる人間に心移りしやすいんじゃないか」


「そういえば、やたらフリーサイズの指輪にこだわってたって言ってたな。最初からハメを外すつもりだったのかもしれない」


「とはいえ、やはりこれだけでは証拠として弱い。これ以上は興信所にでも頼むしかないんじゃないか? もっとも、今から証拠を掴むとなると容易ではないだろうが……。会社の同僚に話を聞くか、どうにかラインやメールのやり取りを調べるか」


「相談してみる。……ありがとな」


「いいや。うまい酒と食事の礼だ。気にするな。……ああ、それと」


「なんだ?」


「お姉さんによろしく言っておいてくれ」



 明智の顔が、冷水をかけられたかのようにこわばった。



「……いつから気づいてた?」


「あのな、キミ、知り合いの話にしては事情に詳しすぎるだろう。あれじゃ疑ってくださいと言っているようなものだぞ」


「けど、おまえのことだから、ほかにも理由があるんだろ?」


「まあな。最初におやと思ったのは、例の家族写真だ。ふつう、写真は長方形をしているものだろう? なのに、あの写真は正方形に近かった。あれほどの人数を写すのに、わざわざスクエアで撮影するのも不自然だしな。ということは、都合の悪い部分を切り取って、後から形を整えたということになる」


「……やっぱバレるか」


「バレバレだ。……さて、わざわざ切り取った『都合の悪い部分』とは何か? 家族の集合写真ならば、家族の一員が写っていると考えるのが自然だ。しかし、ほかの家族の顔は見せたのに、その人物だけは伏せなくてはいけない理由があるとすれば、それはわたしがそいつの顔を知っているからだろう。つまり、キミ自身だということさ」


「でも、それなら太郎の家族って可能性もあるだろ? むしろ太郎のことを恥に思って、隠していたと考えるほうが自然じゃないか?」


「たしかにな。だが、わたしが確信にいたったのは、もうひとつの理由だ」



 手を伸ばして、明智の頬骨のあたり――正確には、下まぶた付近を撫でてやる。


 やれやれ、やはり飲みすぎだな。体温が高すぎる。そろそろ水を飲ませるとしよう。



「キミの瞳は美しいな」


「……あ、えと…………ひょっとして、口説かれてる?」


「キミの父上も同じだった。――美しい、『緑の瞳』だ」



 そう、比喩ではなく、彼の虹彩は青緑色をしている。


 ふだんはわかりにくいが、光があたるとよくわかる。



「その虹彩は遺伝するそうだな。親子ともに青緑だった場合、実子である確率は八〇%以上だそうだ」


「……はー、降参。そのとおりだよ。よくわかったな」


「まあ、半分以上、カマをかけただけだがな」


「は?」


「八〇%という数値は、実のところ、さほど高い確率ではないんだ。だから、カマをかけてみた」


「……マジかよ」


「まあ、こうも都合よく緑の目を持つ人間が集まるほうが不自然だからな。血縁関係にある可能性のほうが高そうだと思ったまでだ」


「くそぅ、してやられた」



 明智はまたガックリと机に突っ伏した。だから、タレがつくというに。



「それに、キミの性格からして、身内の恥をさらすのは嫌がりそうだからな。一方で、どうにか解決したいという気持ちもあったのだろう。だから、こういう方法にいたった。違うか?」


「そのとおりだよ。本当は写真も嫌だったんだけどな。おまえなら他言しないだろうと思って」


「ふむ。まあ、他言する必要性を感じないし、そもそもバラせるような友人もいないからな。キミは貴重で、大切な友人だ。できる限り力になるさ」



 親愛をこめてそう伝えたのに、明智ときたらどうにも感情のはっきりしない、あやふやな表情をした。


 なんだ、その顔は。わたしが愛情を伝えるなど貴重だぞ。もっと嬉しそうにしないか。



「ああ、そうだ。確率といえば、人間とバナナの遺伝子は五〇%が同じ、なんて説もあるぞ」


「は? ってことは、おれたちの半分はバナナでできてるのか」


「ところが、そうはならない。犬とは八〇%、チンパンジーにいたっては九九%のDNAが共通と言われているが、これは塩基配列の違いをどう比較するか、という方法によって変わってくる」


「もっとわかりやすく」


「つまりだな。塩基配列のまったく違う部分は切り捨てて、似通った部分だけ比較するんだ。その結果、『人間とチンパンジーは九八.七七%一致する』としたわけだ。つまり、二五%のヒトゲノムと、十八%のチンパンジーゲノムを無視している」


「ってことは、そこを含めると、もっと全然違うってことか」


「そうだ。そもそも、DNAはわずかな違いでまったく姿かたちが異なったり、逆にDNAは大幅に違うのに見た目はほとんど同じだったり、単純な違いだけでは測れないんだ。よって、DNA情報が近いからといって、生物学的に近しいかというと、そうではない」


「つまり、一見高そうに見える数値でも、実際に確率として高いかどうかはわからないってことだな。よーくわかったよ」


「キミが八十%という数値にだまされたようにな」



 わたしがそう言うと、明智はすっかり頭を抱えてしまった。






 さて、後日談だが。


 調査の結果、やはり太郎が赴任先で浮気していたことが判明したそうだ。


 しかも、浮気相手と妊娠騒動を起こしていて、それで派手にもめたらしい。


 ことの顛末として、浮気相手が妊娠していたのは太郎の子供ではなく、なんと上司の子供だったそうだ。その上司というのが既婚者だったため、独身だと思っていた太郎の子供ということにして、結婚を迫ったらしい。……まあ、結局は太郎にも婚約者がいたのだがな。とはいえ太郎本人が独身だと欺いて浮気をしていたのだから、自業自得だが。


 結局、上司の妻が会社に乗りこんできたことで、浮気相手の嘘が発覚したそうだ。


 そんなことがあったせいで、太郎は疑心暗鬼になったらしい。


 自分が遠距離で寂しかったのだから、花子も寂しかったに違いない。自分が浮気をしたのだから、浮気をしたに違いない。


 そうやって溜まっていった不安が、妊娠を機に爆発したということだった。



「太郎に竜宮城はどうかと思っていたが、むしろピッタリだったというわけだな」


「どういうことだ?」


「人相学では、目頭のことを『竜宮』というそうだ。ここは性的なものを見るところで、浮気を見破るのに使う部位らしい」


「へえ。それでもっと早く気づけてたら、楽だったんだろうけどな」



 明智の口調には疲れが見て取れる。……少し、痩せたかもしれない。



「今は、離婚するかしないかで揉めてるよ。あと、子供を産むかどうか、だな。今のところ、産む方向で考えてるみたいだけど」


「そうか」


「……それだけか?」


「まあ、こういうのは当人同士の問題だからな。わたしが口出しするようなことではないさ」



 犯罪行為ならまだしも、浮気なんてつまるところ、倫理的な問題だからな。相手を責める権利は浮気された本人や家族にあって、赤の他人が文句を言える立場ではないのだ。


 それを言うと冷たく感じられてしまうだろうから、口にはしないが。



「けれど、キミがお姉さんのために頑張っていたことは、わたしなりに理解しているつもりだ。そばで見ていたからな」


「……そうかい」


「いい男だよ、キミは」



 最大限の賛辞のつもりだったのに、明智ときたらそっぽを向いて、むっつりと黙ってしまったのだった。


 まったく、素直じゃないな、キミは。これだけの男前なのだから、褒め言葉など聞き飽きているだろうに。


 可哀想なので、真っ赤な耳が隠しきれていないことは、黙っておいてやるとしよう。


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