かべの向こうの隣人に告ぐ(三十と一夜の短篇第34回)
深夜一時、わたしは部屋のかべを殴りつける。
と言っても、すすんでやっているわけではない。わたしは元来、温和で我慢強い性質だ。
ひとり暮らしのアパートのせまい部屋のかべを殴る行為は、深夜に騒ぐ隣人に「うるさいですよ」と伝えるために、仕方なくやっていることだ。
ついうっかりこぶしに力がこもってしまうのは、おそらく若さゆえである。きっと。
わたしに部屋のかべを殴る習慣ができてから、かれこれ三ヶ月。わたしはいまだ、隣人を見たことがない。
顔を合わせたこともなければ、会話したこともなく、名前を聞いたことだってない。
しかし、わたしは隣人の声を知っているし、年若い男であることも、名前をハヤトと言うことまで、知っている。表札が出ていないから、姓はわからない。
なぜこんなにも知っていることが偏っているのか、と問われれば。
すべては、かべ越しに得た情報だからである。
こう言うと、まるでわたしが盗み聞きしている犯罪者のようだが、そうではない。むしろ、わたしは被害者だ。聞きたくて聞いているわけではなく、嫌でも聞こえてくるのだから。
とはいえ、隣人が常にやかましいわけではない。
隣人とて、日頃はおとなしい。
越してきたのにもしばらく気づかなかったくらいであるし、生活時間帯もかぶらないため、うしろ姿さえ見たことはない。
姿の見えない無害な隣人だ。
そんな隣人が騒ぐのは、決まって友人が遊びにきている夜のこと。
名をショウとユウキと言う男たちは、週に一、二回やってきては、隣人の部屋で酒盛りをする。
それは構わない。部屋に招く親しい友人がいるのは、たいへん結構なことだ。自分にはそのような仲の者がいないからと言って、嫉妬するほどわたしは狭量ではない。
が、酒がすすみ、気持ちもほぐれ盛り上がってきた彼らは、だんだんと遠慮を忘れていく。
はじめは図書館でのささやき声程度だったものがしだいに大きくなり、高校生の折に経験した昼休みの教室のやかましさを超えていく。しかし、このときわたしはまだ我慢する。
多少、気にはなるが、隣室とは反対側のかべ向こうの道路を走るトラックの騒音よりは、かわいいものだからだ。
曲を聴くでもなく耳にイヤホンをして、細々とした調べものなどを行うのだが、そうしているうちにかべ越しの声はヒートアップしていき、工事現場の騒音レベルになる。
そうなると、わたしは耐えることをやめ、となりの部屋に面したかべを殴る。
ドンッ、とにぶい音がひびくと、となりの部屋がしんと静まる。
それが毎回、だいたい深夜一時のこと。
これが、となり合って暮らした三ヶ月のなかで、わたしと隣人が交わした唯一のやりとりだ。
だからその日、くたびれて帰宅したわたしは、しんと静まり返ったとなりの部屋にほっとしたのだった。
時刻はまだ二十二時過ぎ。もしこれから隣人が帰ってきたとしても、酒盛りが騒がしくなる前に寝てしまえるだろう。
(きょうもゆっくり寝られそうだ)
ここ数日、静かなとなりの部屋に心を安らげながら、シャワーをあびる。汗を流してさっぱりとしたわたしは、浴室を出たとたん顔をしかめることになった。
隣の部屋から、にぎやかな男たちの声が聞こえたのだ。
「座ろう、座ろう」
「ビールにする? 酎ハイがいいか」
ユウキとショウの声がして、ガサガサとビニール袋をあさる音がする。いつも飲みはじめは常識的な声量を心がけている二人が、きょうはやけに大きな声を出している。それは、かべ越しにも関わらず、ことばのひとつひとつまではっきり聞こえるほどだ。
はっきり言って、不愉快だ。
思わずこぶしをふり上げてかべをにらみつけたわたしは、続く声にふり下ろしかけた手を止めた。
「……、……。……」
応えたのは、ぼそぼそと不明瞭な声。かべを挟んでいることを考えても、その声がなにを言っているかまったくわからないことに、わたしは眉をひそめた。
なんの自慢にもならないが、このアパートのかべはかなり薄い。静かにしていれば、となりの部屋の住人のひとりごとさえ聞きとれるほどだ。
(なにかがおかしい)
安息の時間を邪魔された苛立ちはしぼみ、わたしは手をおろして息をひそめた。
そうしている間にも、隣人の部屋ではことばが交わされている。
「お前がなにかしたわけじゃないんだろ。だったら、相性の問題だよ。仕方ないって」
みょうに明るい調子で言うのは、ショウの声。
「そうそう。実際、この前までは乗り気だったよ、エリちゃん。雰囲気悪くなかったし」
相づちを打ったのは、ユウキだ。
「………。……、……」
そして、ぼそぼそ応えているのは、ハヤトだろう。ことばは聞き取れないが、声の感じが彼のものだ。
その会話から、エリちゃんとやらとハヤトのあいだに何かがあり、ハヤトは落ち込んでいる、ということだろうとあたりをつける。
その名は何度か耳にしている、エリちゃん。これまでにもれ聞こえてきた情報から、ハヤトの交際相手と踏んでいる。おそらく、彼女と喧嘩でもして、落ち込んでいるのだろう。
そうあたりをつけたわたしは冷蔵庫に向かい、よく冷えた缶ビールを取り出した。
(喧嘩くらい、なんだ)
となりの部屋側のかべに背をつけて座り込む。缶のプルタブをあけてビールを乱暴にあおり、舌にのこる苦みにまゆをしかめる。
(喧嘩する相手がいるなら上々だ)
八つ当たりめいたことを考えて、いらいらとビールを流しこむ。もう、かべを殴ってやろうか。それともいい加減に、顔を合わせて文句を言ってやろうか。彼らの声がうるさいのは確かなのだから。
いらだちを込めて体を起こし、ふたたびふり上げたこぶしは、けれど、続いた声に勢いをなくした。
「ふられたのなんて、忘れちゃえよ」
「エリはお前の良さがわからなかっただけだって。ちゃんとわかってくれるやつがきっといるから」
「…………うん」
どちらがユウキでどちらがショウか。とっさに聴き分けることはできなかったけれど、最後の力ない返事はハヤトのものだ。ちいさな声ではあったが、断言できる。
そうか、ふられたのか。
「ほら、じゃあ、飲もう! きょうはおれらのおごりだから」
「そうだよ。うまいつまみも買ってきたんだからな。しっかり飲んで食べないと、おれらがぜんぶ食っちまうぞ」
おどけたような二人の声が、かべ越しに響く。
「……うん、うん。飲もう! きょうは、いっぱい飲む!」
応えるハヤトの声も、はっきり聞こえた。正直に言って、やかましい。「いえーい」「かんぱーい!」などとふざけているユウキとショウの声も、大きすぎる。
声量を落とせ、とかべを殴っているところだ。ふだんならば。
ぺたり、と背中をかべにあずけて、となりの部屋の騒ぎに耳を傾ける。
聞こえるのは、男三人の騒ぐ声。抑えることなく無闇とはしゃぐそれは、やはりうるさい。騒音レベルだ。
けれど、わたしが持ち上げたのは、こぶしではなくビールの缶。飲みかけのそれをかべにこつり、とぶつけてちいさくつぶやく。
「……今日だけは、許してやる。忘れるくらい、飲めばいい」
翌日の寝不足を思いながら苦笑して、わたしはひとり、缶を傾けるのだった。